『燕江を染める黒銀の帆』
東海の蒼海を切り裂き、おびただしい数の船団が北上していた。
波を蹴立てて進む船々の帆が、春の眩い陽光を受けて白く膨らんでいる。その数、百余隻。商船を改造した大型の安宅船から、快速を誇る小型の軍船まで様々だが、いずれも凄まじい威圧感を放っていた。
船団の後方、ほぼ中央をゆく一際巨大な黒塗りの大型軍船。そのメインマストには、漆黒の生地に銀糸で繊細かつ力強く刺繍された「蓮の花」の紋章――セレスティア軍の軍旗が、潮風を受けて誇らしくたなびいていた。
セレスティア水軍旗艦『水龍ウォータードラゴン』。
その船首付近、砕ける白波を眼下に見下ろす位置に、一人の女性が立っていた。
革製の胸当てに身を包み、腰には曲刀シミターを吊るした、まさに女海賊そのものの凄艶ないでたち。しかし、その肌は雪のように白く、風に舞う髪は艶やかであった。 彼女の名はセシリア。セレスティア親王イリアードの側室である。
セシリアはニッと胸のすくような笑みを浮かべると、しなやかな片足を船首の縁に引っ掛け、腰に手を当てて振り返った。
「姉様! 一度、女海賊の真似、やってみたかったんですよね! かっこいいでしょ?」
その視線の先にいたのは、軍船という血と汗の匂う場にはおよそ不似合いな、うら若き極上の貴婦人であった。
華麗な刺繍が施されたドレスの裾を潮風になびかせ、日傘を優雅に挿しているのは、セレスティア親王イリアードの正妻――セレスティア親王妃リゼリアである。
「素敵よ、セシリア。殿下に見せてあげたいわね」
塩くささが充満する甲板の上でありながら、リゼリアの口調はまるで帝都ラーナの夜会で紅茶を嗜んでいるかのように優雅であった。だが、その美しい瞳には、並の男をもしのぐ強い胆力が宿っている。
セシリアは「ふふん」と鼻を鳴らし、手に持った望遠鏡を掲げてみせた。
「殿下は今頃、ヘクスハイムの砦でアラリック陛下とお戯れ……じゃなくて、陸からの反撃の準備に大忙しのはずですわ。ここで私たちがドカンと一発、燕国の真裏をぶん殴って差し上げたら、殿下はどんな顔をなさるかしら!」
「ええ。きっと目を丸くして、呆れながらも褒めてくださるわ」
リゼリアは優美に微笑んだ。
二人の貴婦人が率いるこの破天荒な大艦隊。その正体は、軍律に縛られた正規の帝国水軍などではなかった。東海の海域を荒らし回り、各国の商船を震え上がらせていた「海賊船団」そのものであった。
乗組みの兵数、およそ一万。
かつては不毛の地と呼ばれたセレスティアが、イリアード親王の統治によって莫大な塩の富を生み出す巨大拠点『ソルトラグーン』へと変貌した際、海賊たちは当初、塩の輸送船を狙っていた。だが、イリアードの巧みな飴と鞭――圧倒的な水軍力での弾圧と、圧倒的な財力による従属の提案――によって、彼らは今やセレスティアの経済圏に組み込まれ、陰でその海を護る手先となっていたのだ。
時には海運業者、時には護衛船団。そして時には密輸業者を取り締まる沿岸警察隊。 幸運にも遊泳中のクジラを見つけたならば、すぐさま捕鯨業者に成り代わる。 こうして彼らの経済と秩序はセレスティアの影響下で大きく変わり、そして花開いていったのである。
今回、燕国で政変が起き、逆賊・崔厳さいげんが主君を弑逆して『新』を名乗り、陸上で皇帝アラリックの親征軍を破ったという報が届いた時、動いたのはイリアードだけではなかった。
『海賊の荒くれどもを集めなさい。「国を一つ落としに行くぞ。奪った宝は好きに分取れ」と誘えば、喜んでついてきますわ』
そう言って笑った正妻リゼリアと、自ら海賊の装束に身を包んで旗艦に乗り込んだ側室セシリア。二人の女性の手によって立ち上げられたこの電撃の大襲撃作戦こそが、いま北上を続ける「水龍」艦隊の全貌であった。
目指すは新国(旧燕国)の王都『鳳山ほうざん』。
鳳山は内陸の都市と思われがちだが、東海へ注ぐ大河『燕江えんこう』の河口からわずか数千の距離に位置する水運都市でもあった。陸からの侵攻には山脈という天然の要害が立ちはだかるが、海から大河をさかのぼれば、王都の喉元まで一気に肉薄できるのだ。
「野郎どもーっ! 聞こえてるかい!?」
セシリアが船首から甲板へ向かって振り返り、腰の曲刀を突き上げた。
「あたしたちを雇ってくれた親王殿下と、美しく気品あふれるリゼリア様に良い格好を見せたいなら、出し惜しみするんじゃないよ! 燕国……いや、新国の偽り王の首を引っぺがして、金銀財宝を山分けにするんだ!」
甲板を埋め尽くす荒くれ海賊たちが、野獣のような歓声を爆発させた。
「「「オオーーーーーッ!!!」」」 「任せときな、セシリアの姐さん!」 「新国の野郎どものタマをぶっこ抜いて、蔵の宝を根こそぎ奪ってやるぜーっ!」
入れ墨を刻んだ巨漢たちが錨を叩き、斧を掲げて咆哮する。その荒々しい熱気は、春の冷たい潮風すらも吹き飛ばすほどであった。




