逃げられない
歩く足が速くなる。
無意識のうちにコートを強引に引っ張り、寒さが内側に入らないようにする。
そして何事もなかったかのように、ポケットに手を突っ込む。
「はぁ…」
吐く息が真っ白。
真冬、とは今日のような日のことを言うのだろう。
カツカツカツカツ。
ロングブーツの、ヒール部分がアスファルトに直撃し、その音が響き渡る。
絶え間ないヒールの音がその場を支配する。
だんだん、早歩きというより走る、に近くなってきた。
その時、少し歩くスピードを緩めた。
(あれは…)
小学校三年生くらいの男の子がしゃがみこんで、何かをしていた。
現在時刻は午後六時。夏場はいいかもしれないが、今は冬。あたりは真っ暗だ。
親は何をしているのかと思いつつ、素通りする。
真横を通り過ぎた時、気が付いた。
何かを掘っている。
そして、その男の子の隣には、二枚の紙切れがあり、冷風で飛ばないよう、少し大きな石が、重りとして置いてあった。
(…?)
不信がりつつ、完全に通過する。
通り過ぎた後、チラッと横目で見た。
すると、男の子が振り向く気配を感じ、サッ、と、視界を前に戻した。
理由はない。なんとなく、前に戻した。
カツカツカツカツ。
先ほどよりも、ずいぶんと早い速度で歩く。
「チッ」
寒いし、暗いし、変なものを見てしまった。
それに苛立ち、舌打ちをする。
(この先のトンネルを通れば、すぐ家に着く…!)
それを考え、苛立ちを抑える。
カツカツカツカツ。
ガツゥン…、ガツゥン…。
「…?」
思わず足を止める。
自分が歩いているヒール音以外に、何か音が聞こえる。
遠くから、後ろから。
迷わず後ろを振り返り——そして後ろにいたものは。
目を細め、歯茎が見えるくらい歪に笑った、さっきの男の子。
服装は、雨も降っていないのに黄色のレインコート、赤色の雨靴。そして緑色のリュックサックを背負っている。
右手は頬を掻き、左手は、ガツゥン…、と鳴る、音の発生源——首を持っていた。
「⁉」
まさしく人間の首。
無精ひげを生やしたおじさんで、恐怖で歪んだ表情をしている。首から先はなく、赤い血がアスファルトに垂れている。
男の子は、髪を握り、首を引きずってここまで来ていたのだ。
「うっ…おえっ…お゛っえぇ…」
強烈な吐き気。
身体的に襲ってくるのは、それだけじゃない。
二日酔いよりも辛い頭痛、腹の底から憎しみが溢れて出てくるような腹痛。
緊張で身体が動かない。足が、震えて一番動かない。
胸を抑え、髪をかきむしる。
その場に膝から崩れ落ちた。
ガツゥン…。
それでも男の子は、こちらに来ている。
——逃げなければ。
本能的に、思考した。
地面を張って動く。動いた拍子に、小石が皮膚を傷つけた。
血が溢れ出るが、この正気を保てていない精神状況で、気にしている余裕はなかった。
否、気にしている余裕がない、というより、痛みに脳が気づいていない。
身体が麻痺し、感覚が、鈍感になっている。
「…ハァー、ハァー…」
ドクン、ドクン。
心臓の鳴る音がうるさい。涙が溢れ出てくる。
「ハァー、ハァー…」
ドクッ、ドクッ。
ガツゥン…、ガツゥン…。
「ハァー、ハァー…!」
ガッ、と立ち上がり、そのまま駆け出した!
「ああっ、あああああああっ…。ああぁーあ…おかあさん…」
泣きながら必死に走った。
「!」
トンネルだ。
トンネルを抜ければ、すぐに家に着く。
暗くて怖い、だが走り抜けるしかない!
ガツガツガツガツ!
ヒールの音が、トンネル内に反響する。
トンネルの先にある街灯が、光を照らした。
トンネルを抜けきったのだ。
トンネルから二軒先が自分の家。
そのまま走り、玄関へと向かう。
鍵を出すのも億劫で、ポケットから乱雑に鍵を出す。
ガチャ。
扉が開いた。
「…な、んで…」
膝から崩れ落ち、絶望の涙を流す。
リビングでソファーに座り、お茶を飲んでいたのは、身内ではない。あの男の子だった。
終




