第092話 全部数える
浪人には、順位が無い。
学校の順位が無くなって、掲示も無い。予備校の模試は年に六回ある。
六回のあいだは、七週間から九週間あく。そのあいだ、位置を示す紙が一枚も出ない。
九年で初めて、こういう期間ができた。
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自習室が開くのは九時で、閉まるのは二十一時三十分になる。
授業が九時十分から入る日と、入らない日がある。入らない日は、開いてすぐに座った。
こちらは、たいてい最後まで残る。電気を消しに来る人がいた。
いつも同じ人で、声はかけられない。かけられないので、こちらも何も言わずに出る。
その人が来る前に、椅子をきちんと入れて、机の上を空にしておく。
空にしておくのは、九年やってきた形になる。誰にも言われていない。
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五月の一週目に、自習室の蛍光灯を数えた。
天井に、二本組のものが十二列ある。合わせて二十四本になる。
そのうち、二本が切れかけていて、五秒に一度ちらつく。
ちらつくほうは、こちらの席から三列目と七列目だ。
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数えたのは、数える理由があったからではない。
問題集を開いて、最初の一問に入る前に目が上を向いた。
向いて、そのまま数えている。終わってから、数えたと分かった。
分かったあとで、もう一度確かめた。二回目も二十四本だった。
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立派な理由があるわけではない。
数えていると、そのあいだ、ほかのことが入ってこない。
入ってこないほうが、こちらには都合がよかった。
都合がよかった、と書くと、選んだように見える。選んだ覚えはない。
数えるのが当たり前になっていて、始めた日が特定できない。
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その日から、目に入るものを数えるようになった。
五月に数えたものを、順に書いておく。
自習室の席が八十二。机の脚が三百二十八本になる。
窓が九枚で、そのうち開くのが四枚だ。
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床のタイルは、縦に四十六、横に二十九ある。
掛けると千三百三十四になる。柱の周りで欠けているところが六か所あった。
欠けているぶんを引くと、千三百二十八になる。
この数は、五月のうちに三回数え直している。三回とも同じだった。
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駅の階段は、上りが二十八段で、下りが二十八段になる。
途中の踊り場で、向きが一度変わる。変わるところに段が無い。
家から駅までの歩数は、千四百二十歩だった。
歩幅が七十五センチとして、千六十五メートルになる。
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歩数は、日によって二十歩ほど変わる。
変わるのは、信号のところで足踏みが入るからだ。
足踏みを外すと、千四百歩でだいたい合う。
合うと、そこで数え終わりになる。終わると、次を探した。
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六月に数えたものを、順に書く。
電車の一両に、座席が五十四ある。吊り革が七十二本になる。
朝の乗客は、こちらの車両で百二十人から百四十人だ。
立っている人の数は、駅ごとに変わる。変わるので、途中でやめた。
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やめるのは、数が動くときになる。
動くものは数えられない。数えられないものは、途中で置く。
置いたものが、六月で四つあった。
四つとも、いまでも何を置いたか言える。
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自分の身体も数えた。
一日に飲む水が、五百ミリのボトルで三本から四本になる。
夏は五本になった。八月で、六本の日が九日ある。
汗のぶんだと思う。思うだけで、量ったわけではない。
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まばたきの回数を、一分だけ数えたことがある。
十七回だった。もう一度やると二十二回になる。
数えていると増えるのだと思う。増えるものは、数える意味が薄い。
薄いと分かっていて、その週にもう三回やった。
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母の足音は、前から数えてある。
台所から玄関まで七歩。台所から階段の下まで五歩になる。
階段は十三段で、上まで来ると十八歩だ。
十八歩が鳴った日は、その夏に二回しか無い。
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二回とも、こちらが夜中に台所へ下りたあとだった。
下りて、水を飲んで、部屋へ戻る。そのあとで十八歩が来る。
来て、扉の前で止まる。ノックはしない。
しばらくして、また十八歩ぶんが下りていった。
扉の前で母が何をしていたのかは、こちらには分からない。
分からないまま、その二回を数に入れていない。
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止まっていた長さを、僕は数えていない。
数えられるはずだった。数えている最中だったからだ。
その二回だけ、数が出なかった。出なかった理由は書けない。
書けないので、そこは空けたままにしてある。
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七月に、予備校の模試が二回あった。
三日と、三十日になる。偏差値が五十一・二と五十二・八だった。
現役のときの最高が四十九・一なので、二・一上がっている。
上がったことを、家では言っていない。訊かれてもいない。
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上がったのは、量を戻したからだと思う。
一日にやる問題が、五月で四十二、六月で五十八、七月で六十六になる。
現役の九月が六十で、いちばん多かった夏が八十だ。
八十には届いていない。届かないまま、数だけは上を向いた。
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数が上を向いても、置く場所は無いままだった。
誰にも言わないので、上がったことは家の中で起きていない。
起きていないものについて、こちらは何も感じない。
感じないというのは、そう書くしかないからそう書いている。
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八月の予備校は、朝から夜まであった。
夏期講習が十講座で、八十一回になる。去年より九回多い。
弁当は二つになった。細長い箱が、八月一日から出ている。
今年は、こちらが要ると言う前に出ていた。三年続けて同じになる。
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八月の身体のことを書いておく。
背中に汗が出て、シャツが椅子に貼りつく。剥がすときに音がした。
手のひらは冷たいままになる。冷たいのと汗が同時に出た。
同時に出るのを、こちらは前の年から知っている。医者には言っていない。
言っていないので、あの紙にも書いていない。
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教室のクーラーは、去年より強い。
既卒の教室は四階で、屋上に近いぶん暑いのだと思う。
設定は二十四度になっていて、実際は二十六度あたりだ。
温度計を見て、差を出す癖が、その夏についた。
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差を出しても、使い道が無い。
使い道の無い数を、こちらは八月だけで三十七個出している。
三十七個ぶんを、ノートの裏に書いた。書くのに二日かかった。
書いたものを、そのあと一度も見返していない。
せっかく数えても、書き留めるほかにやることが無い。
情けないとも思っていない。思う形を持っていないからになる。
ちゃんと数え切ったものだけを、ノートの裏に並べていた。
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千尋が、夏に一度だけ訊いた。
台所で、こちらが冷蔵庫の音を数えているときになる。
あの音は、鳴って、止まって、また鳴る。鳴っているほうが長い。
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「お兄ちゃん、いま何か数えてたでしょ」
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何も、と答えた。
答えるまでに、間はほとんど無かったと思う。
千尋は、そう、と言って、そのまま自分の部屋へ上がった。
階段は、上から三段目が鳴る。その日も鳴った。
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何を数えていたのかは、いまも言える。
冷蔵庫が鳴っていた長さで、そのときは四十一秒目だった。
言えるのに、言わなかった。言う形が出てこないほうが先に来る。
九年、その順番でやってきた。
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なんで訊いたの、と訊こうとした。
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世間では、こういうのは癖だと言うらしい。
気にしなくていい、とも書いてある。普通は、そのうち収まるものになるらしい。
収まらなかった。収まらないのを、だらしないとは思っていない。
だらしないなら、やめ方が決まる。決まっているものは、九年やってきた手で扱える。
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母は、こちらが数えているのを見ている。
見ていることは分かる。台所から出てくる速さで分かった。
早く出てくる日と、そうでない日がある。早い日は、たいてい何か言う。
言うのは、明日の持ち物のことだ。数のことは一度も出ない。
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母は、夏のあいだに冷たい麦茶をよく出した。
出すときに、こちらの手をしっかり見ている。見て、何も言わない。
休みなさい、とも言われていない。世間では、そこで言うものらしい。
普通は、体のほうを先に心配するものになる。
言わないかわりに、麦茶の量が増えた。増えた日を、こちらは数えていない。
数えられたはずだ。数えなかったのは、そこだけになる。
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母は一度も、何を数えているのと訊かなかった。
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訊かれていたら、答えられたと思う。
冷蔵庫のことでも、蛍光灯のことでも、その場で言える。
言えるものを、こちらは九年ぶん抱えている。
抱えているだけで、渡す先が一つも無い。
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八月の終わりに、数えたものの数を数えた。
五月から八月までで、六十四種類ある。
六十四のうち、最後まで数え切ったのが四十九になる。
途中でやめたのが十五だ。やめたのは、全部が動くものだった。
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動かないものは、きちんと数え切れる。
きちんと数え切ると、そこで終わる。終わったあとに残るものが無い。
残らないので、また次を探すことになる。
探すのに時間がかからないのは、目に入るものが多いからだ。
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数えているあいだは、時間が減っていくのが分かる。




