第091話 空いた時間
有給が九日残っている。
年度で消えるぶんだ。取ってくださいと言われて、返事だけした。
休みの日にやることを、こちらはいまも決められない。朝は同じ時間に起きる。
起きて、部屋の中を見る。見て、そのまま座っている。
窓の外で、設備の音がしている。空調の室外機で、うちの棟のは西の側にある。
あれは正常な音になる。異常な音とは、はっきり違う。
違いが分かるようになったのは、いまの仕事に就いてからだ。
いつからかは、やはり特定できない。
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四月三日から、予備校の授業が始まった。
既卒のコースで、週に十九回ある。一回が九十分だ。
月曜が四つ、火曜が三つ、水曜が四つ、木曜が三つ、金曜が三つ、土曜が二つになる。
日曜は無い。日曜が空いているのは、九年で初めてになる。
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高校のときの一日を、こちらは分で覚えている。
家を出るのが七時二十分で、着くまでに四十五分かかった。
授業が六時間で、一回が五十分。休みが十分ずつ入る。
終わって、予備校へ行って、家に着くのが二十二時四十分になる。
起きているあいだで、自分の裁量に入っていたのは、一日に四十分ほどだ。
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四十分というのは、電車の中と、風呂と、寝る前の分になる。
どれも、やることが決まっている場所だった。
決まっている場所での四十分を、裁量と呼んでいいのかは分からない。
分からないまま、九年そう数えてきた。
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四月からは、授業が週に十九回しか無い。
一回九十分なので、週に千七百十分になる。
高校のときは、授業だけで週に千五百分あった。予備校がそこに六百分乗る。
合わせて二千百分だ。二千百から千七百十を引くと、三百九十分になる。
週に三百九十分、つまり六時間半が空いたことになる。
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六時間半というのは、計算の上の数だ。
実際には、それよりずっと多い。学校というのは、授業のあいだにも人を置いておく。
朝の会と、掃除と、休み時間と、昼と、帰りの会がある。
あれを全部足すと、一日に三時間近くなる。週で十八時間だ。
合わせると、週に二十四時間ちょうど空いたことになる。
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二十四時間というのは、まる一日ぶんになる。
一週間のうち、まる一日が新しく出てきた。
出てきたものを、こちらはどう扱えばいいのかを知らない。
知らないので、そこに何かを入れようとした。
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最初に作ったのは、表だった。
方眼のノートに、一週間ぶんの枠を引く。縦が時間で、横が曜日になる。
枠は一日あたり十六個で、七日ぶんで百十二個ある。
九年前から、この作り方は変えていない。母が作っていた予定表と同じ形になる。
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母の予定表は、木曜の午後だけが空いていた。
こちらの表は、空いているところが四十七個ある。
四十七個を、何で埋めればいいのかが出てこない。
出てこないので、埋めないまま壁に貼った。
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貼った表を、母は見ている。
台所へ持って行っていないのに、見ているのが分かる。位置が三センチ動いていた。
直したのは、たぶん母だ。曲がっていたのを直したのだと思う。
空いている四十七個について、母は何も言わなかった。
せっかく作ったのに、とも言わない。
表が空いているのを、こちらもだらしないとは思わなかった。
だらしないなら、埋め方が決まる。決まっていれば、九年やってきた手が動く。
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浪人という言い方を、母は使わない。
もう一年、という言い方をする。四月からもう一年ね、が三月にあった一言になる。
立派な言い方でも、情けない言い方でもない。ただの日数の話に聞こえる。
聞こえるように言うのが、この人のやり方だと思う。
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弁当は、四月から毎日ある。
高校のときと同じ小さい箱で、中もきちんと詰まっている。
人参は、まだ花の形に切ってあった。十二月から数えて四か月目になる。
母は、それを一度もやめていない。やめるきっかけが無かったのだと思う。
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制服が無くなった。
九年間、着るものを決めたことが一度も無い。中学も高校も制服だった。
小学生のときは、母が前の日に出しておく。
出してあるものを着る。それで九年、一日も困っていない。
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四月の一日目、着るものが分からなかった。
部屋にあるのは、休みの日に着ていたものになる。数えると七枚ある。
七枚のうち、四枚は中学のときのものだ。袖が短い。
残りの三枚から選ぼうとして、選ぶ基準が出てこない。
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どれがいいのか、母に訊こうとした。
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訊く前に、椅子の背に一枚掛かっていた。
紺のシャツで、見たことのないものになる。値札は切ってある。
いつ買ったのかは分からない。三月のうちだと思う。
思うだけで、確かめていない。着て、そのまま出た。
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その日から、掛けてあるものを着るようになった。
着るのが四月には当たり前になっていて、選ぶ動作がそのまま消えた。
毎朝、椅子の背に一枚ある。前の夜のうちに掛けてあるのだと思う。
しっかりアイロンがかけてある。襟の裏まで折り目が出ていた。
掛けるところを、こちらは一度も見ていない。
見ていないので、いつやっているのかも出せない。
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母は、九年前と同じことをしている。
小学生のときと、やり方が変わっていない。変わったのは、こちらが十九になったことだけになる。
十九で服を出してもらうのは、世間では恥ずかしいことになるらしい。
恥ずかしいと思ったことは、そのころ一度も無い。
思わないでいられるように、家のほうができている。
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予備校は、駅の東口の四階建てだ。
既卒は四階で、現役は三階と二階になる。一階は受付と自習室がある。
自習室は席が八十二あって、朝に来ないと埋まる。
朝は九時に開く。こちらは二十分前に着くようにしていた。
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その時間に着くと、前に十人か十二人並んでいる。
並んでいる人の顔は、四月のうちにだいたい覚えた。
名前は一人も知らない。話しかけたことが無い。
同じ列に、二百四十一人のうちの何人がいるのかも数えていない。
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自習室の音は、三種類ある。
ペンの音と、紙をめくる音と、椅子を引く音になる。
高校の教室と違って、咳がほとんど出ない。人数が少ないからだと思う。
音が少ないぶん、一つ一つがはっきり聞こえた。
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時計は、自習室の前の壁に掛かっている。
丸くて、秒針が動く。音は出ない。
こちらは、それを見るようになった。見ないでいた冬とは違う。
違うことを、そのころは何とも思っていない。
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授業の始まりは九時十分で、終わりは十時四十分になる。
間の休みが十五分あって、そのあと二本目に入る。
この数を、こちらは四月のうちに全部覚えた。
覚えるのに三日かかっている。前は一日で覚えられた。
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千尋は、その四月から高校生になった。
制服が変わって、鞄も変わる。写真を、母が玄関で撮った。
こちらは写っていない。撮られていないし、頼まれてもいない。
千尋の入学式に、母は行った。父は仕事だった。
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僕の入学式のときと、母の服が違っていた。
九年ぶりに出した紺のスーツではない。別のものを着ている。
いつ買ったのかは、これも分からない。
分からないものが、その春でまた一つ増えた。
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千尋は、部活を三つ見て、一つに決めた。
中学のときと同じやり方になる。見て、決めて、それで通っている。
母は、三つとも見に行っていない。行くかどうかも訊いていない。
訊かれないでいるほうが、この家では自由になるらしい。
らしい、というのは、こちらの側で確かめようが無いからになる。
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日曜のことを、ここに書いておく。
四月の日曜は、五日ある。五日とも、朝は同じ時間に起きた。
起きて、机の前に座る。座ってから、何をやるかを決める。
決めるのに、一日目は四十分かかった。二日目は五十分になる。
三日目からは、決めるのをやめて、前の日の続きをやった。
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続きをやるのは、決めていることになるのかどうかが分からない。
分からないので、そこは数えていない。
数えていないものが、その春でまた増えている。
増えたぶんを、こちらはまだどこにも置いていない。
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母は一度も、何をするのと訊かなかった。
浪人になっても、順位のことも量のことも家では出なかった。
やりなさい、と言われた覚えもない。九年ぶん探して、一つも出てこない。
訊くのは、明日の持ち物と、帰りが遅くなるかどうかの二つだけになる。
二つとも、こちらは答えられる。答えられるものだけが訊かれている。
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世間では、浪人は自分でやるものらしい。
自分で計画を立てて、自分で管理する。普通は、そこが現役と違うところになる。
こちらは、立てた。表も作った。枠も引いた。
枠を引くところまでは、ちゃんとできる。九年やってきたのはそこだった。
埋めるほうが、四十七個ぶん残っている。
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空いた時間の使い方を、僕は九年間習っていない。




