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自慢の息子  作者: 智珠
第六部 空欄

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第091話 空いた時間

 有給が九日残っている。


 年度で消えるぶんだ。取ってくださいと言われて、返事だけした。


 休みの日にやることを、こちらはいまも決められない。朝は同じ時間に起きる。


 起きて、部屋の中を見る。見て、そのまま座っている。


 窓の外で、設備の音がしている。空調の室外機で、うちの棟のは西の側にある。


 あれは正常な音になる。異常な音とは、はっきり違う。


 違いが分かるようになったのは、いまの仕事に就いてからだ。


 いつからかは、やはり特定できない。


            *


 四月三日から、予備校の授業が始まった。


 既卒のコースで、週に十九回ある。一回が九十分だ。


 月曜が四つ、火曜が三つ、水曜が四つ、木曜が三つ、金曜が三つ、土曜が二つになる。


 日曜は無い。日曜が空いているのは、九年で初めてになる。


            *


 高校のときの一日を、こちらは分で覚えている。


 家を出るのが七時二十分で、着くまでに四十五分かかった。


 授業が六時間で、一回が五十分。休みが十分ずつ入る。


 終わって、予備校へ行って、家に着くのが二十二時四十分になる。


 起きているあいだで、自分の裁量に入っていたのは、一日に四十分ほどだ。


            *


 四十分というのは、電車の中と、風呂と、寝る前の分になる。


 どれも、やることが決まっている場所だった。


 決まっている場所での四十分を、裁量と呼んでいいのかは分からない。


 分からないまま、九年そう数えてきた。


            *


 四月からは、授業が週に十九回しか無い。


 一回九十分なので、週に千七百十分になる。


 高校のときは、授業だけで週に千五百分あった。予備校がそこに六百分乗る。


 合わせて二千百分だ。二千百から千七百十を引くと、三百九十分になる。


 週に三百九十分、つまり六時間半が空いたことになる。


            *


 六時間半というのは、計算の上の数だ。


 実際には、それよりずっと多い。学校というのは、授業のあいだにも人を置いておく。


 朝の会と、掃除と、休み時間と、昼と、帰りの会がある。


 あれを全部足すと、一日に三時間近くなる。週で十八時間だ。


 合わせると、週に二十四時間ちょうど空いたことになる。


            *


 二十四時間というのは、まる一日ぶんになる。


 一週間のうち、まる一日が新しく出てきた。


 出てきたものを、こちらはどう扱えばいいのかを知らない。


 知らないので、そこに何かを入れようとした。


            *


 最初に作ったのは、表だった。


 方眼のノートに、一週間ぶんの枠を引く。縦が時間で、横が曜日になる。


 枠は一日あたり十六個で、七日ぶんで百十二個ある。


 九年前から、この作り方は変えていない。母が作っていた予定表と同じ形になる。


            *


 母の予定表は、木曜の午後だけが空いていた。


 こちらの表は、空いているところが四十七個ある。


 四十七個を、何で埋めればいいのかが出てこない。


 出てこないので、埋めないまま壁に貼った。


            *


 貼った表を、母は見ている。


 台所へ持って行っていないのに、見ているのが分かる。位置が三センチ動いていた。


 直したのは、たぶん母だ。曲がっていたのを直したのだと思う。


 空いている四十七個について、母は何も言わなかった。


 せっかく作ったのに、とも言わない。


 表が空いているのを、こちらもだらしないとは思わなかった。


 だらしないなら、埋め方が決まる。決まっていれば、九年やってきた手が動く。


            *


 浪人という言い方を、母は使わない。


 もう一年、という言い方をする。四月からもう一年ね、が三月にあった一言になる。


 立派な言い方でも、情けない言い方でもない。ただの日数の話に聞こえる。


 聞こえるように言うのが、この人のやり方だと思う。


            *


 弁当は、四月から毎日ある。


 高校のときと同じ小さい箱で、中もきちんと詰まっている。


 人参は、まだ花の形に切ってあった。十二月から数えて四か月目になる。


 母は、それを一度もやめていない。やめるきっかけが無かったのだと思う。


            *


 制服が無くなった。


 九年間、着るものを決めたことが一度も無い。中学も高校も制服だった。


 小学生のときは、母が前の日に出しておく。


 出してあるものを着る。それで九年、一日も困っていない。


            *


 四月の一日目、着るものが分からなかった。


 部屋にあるのは、休みの日に着ていたものになる。数えると七枚ある。


 七枚のうち、四枚は中学のときのものだ。袖が短い。


 残りの三枚から選ぼうとして、選ぶ基準が出てこない。


            *


 どれがいいのか、母に訊こうとした。


            *


 訊く前に、椅子の背に一枚掛かっていた。


 紺のシャツで、見たことのないものになる。値札は切ってある。


 いつ買ったのかは分からない。三月のうちだと思う。


 思うだけで、確かめていない。着て、そのまま出た。


            *


 その日から、掛けてあるものを着るようになった。


 着るのが四月には当たり前になっていて、選ぶ動作がそのまま消えた。


 毎朝、椅子の背に一枚ある。前の夜のうちに掛けてあるのだと思う。


 しっかりアイロンがかけてある。襟の裏まで折り目が出ていた。


 掛けるところを、こちらは一度も見ていない。


 見ていないので、いつやっているのかも出せない。


            *


 母は、九年前と同じことをしている。


 小学生のときと、やり方が変わっていない。変わったのは、こちらが十九になったことだけになる。


 十九で服を出してもらうのは、世間では恥ずかしいことになるらしい。


 恥ずかしいと思ったことは、そのころ一度も無い。


 思わないでいられるように、家のほうができている。


            *


 予備校は、駅の東口の四階建てだ。


 既卒は四階で、現役は三階と二階になる。一階は受付と自習室がある。


 自習室は席が八十二あって、朝に来ないと埋まる。


 朝は九時に開く。こちらは二十分前に着くようにしていた。


            *


 その時間に着くと、前に十人か十二人並んでいる。


 並んでいる人の顔は、四月のうちにだいたい覚えた。


 名前は一人も知らない。話しかけたことが無い。


 同じ列に、二百四十一人のうちの何人がいるのかも数えていない。


            *


 自習室の音は、三種類ある。


 ペンの音と、紙をめくる音と、椅子を引く音になる。


 高校の教室と違って、咳がほとんど出ない。人数が少ないからだと思う。


 音が少ないぶん、一つ一つがはっきり聞こえた。


            *


 時計は、自習室の前の壁に掛かっている。


 丸くて、秒針が動く。音は出ない。


 こちらは、それを見るようになった。見ないでいた冬とは違う。


 違うことを、そのころは何とも思っていない。


            *


 授業の始まりは九時十分で、終わりは十時四十分になる。


 間の休みが十五分あって、そのあと二本目に入る。


 この数を、こちらは四月のうちに全部覚えた。


 覚えるのに三日かかっている。前は一日で覚えられた。


            *


 千尋は、その四月から高校生になった。


 制服が変わって、鞄も変わる。写真を、母が玄関で撮った。


 こちらは写っていない。撮られていないし、頼まれてもいない。


 千尋の入学式に、母は行った。父は仕事だった。


            *


 僕の入学式のときと、母の服が違っていた。


 九年ぶりに出した紺のスーツではない。別のものを着ている。


 いつ買ったのかは、これも分からない。


 分からないものが、その春でまた一つ増えた。


            *


 千尋は、部活を三つ見て、一つに決めた。


 中学のときと同じやり方になる。見て、決めて、それで通っている。


 母は、三つとも見に行っていない。行くかどうかも訊いていない。


 訊かれないでいるほうが、この家では自由になるらしい。


 らしい、というのは、こちらの側で確かめようが無いからになる。


            *


 日曜のことを、ここに書いておく。


 四月の日曜は、五日ある。五日とも、朝は同じ時間に起きた。


 起きて、机の前に座る。座ってから、何をやるかを決める。


 決めるのに、一日目は四十分かかった。二日目は五十分になる。


 三日目からは、決めるのをやめて、前の日の続きをやった。


            *


 続きをやるのは、決めていることになるのかどうかが分からない。


 分からないので、そこは数えていない。


 数えていないものが、その春でまた増えている。


 増えたぶんを、こちらはまだどこにも置いていない。


            *


 母は一度も、何をするのと訊かなかった。


 浪人になっても、順位のことも量のことも家では出なかった。


 やりなさい、と言われた覚えもない。九年ぶん探して、一つも出てこない。


 訊くのは、明日の持ち物と、帰りが遅くなるかどうかの二つだけになる。


 二つとも、こちらは答えられる。答えられるものだけが訊かれている。


            *


 世間では、浪人は自分でやるものらしい。


 自分で計画を立てて、自分で管理する。普通は、そこが現役と違うところになる。


 こちらは、立てた。表も作った。枠も引いた。


 枠を引くところまでは、ちゃんとできる。九年やってきたのはそこだった。


 埋めるほうが、四十七個ぶん残っている。


            *


 空いた時間の使い方を、僕は九年間習っていない。

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