第090話 お母さんが何をしたっていうの
三月二十六日の夜に、母が予備校の封筒を開けた。
春の案内で、机に置いてあったやつになる。置いたのは僕だ。
置いてから、六日たっている。封は切っていなかった。
封を切らないままにしておくのは、だらしないやり方になる。
だらしないと言われたことは、九年間で一度も無い。切るのは、いつもこちらだった。
切ったのは母で、切る音がしたのは夕飯のあとになる。
*
中身は三枚あった。
案内と、講座の一覧と、申し込み用紙が入っていた。
一覧は、去年の五月に来たものと同じ形をしている。
違うのは、上のところに浪人向けと書いてあることだけだった。
*
母は、台所の椅子に座った。
一覧を広げて、ボールペンで丸を書いていく。きちんと囲んで、はみ出さない。
丸を書く音は、紙の上で二回ずつ鳴る。書き終わりに、ペンの先が紙を打つ音が入る。
去年の五月と、同じ音だった。
*
こちらは、流しのほうに立っていた。
立ったまま見ている。座っていない。
母は、こちらを見ないで書いた。見なくても、そこにいるのは分かるはずだ。
九年間、この家では足音でだいたい分かる。
*
丸は、七つついたところだった。
英語が二つ、数学が二つ、物理が一つ、化学が一つ、国語が一つになる。
去年の八つより、一つ少ない。減らしたのは母だ。
減らした理由は言っていない。
*
八つ目に行くところで、僕は口を開いた。
*
「もう、いい」
*
四文字だった。
あとを続けていない。続ける形を、そのとき持っていなかった。
声は、去年の五月より小さい。台所の換気扇より小さかったと思う。
思うだけで、比べようが無い。録っていない。
*
母は、手を止めた。
ペンは持ったままだった。紙から一センチくらい浮いている。
浮いたまま、動かない。書きかけの丸が、途中で切れていた。
切れているところを、僕はしばらく見ていた。
*
止まっている長さを、こちらは数えられなかった。
数えようとして、始めるところが決まらない。
九年間、こういうときは秒を数えてきた。四秒、二秒、三十秒。
その夜は、一つも出なかった。
*
母の顔は、下を向いていた。
紙のほうを見ている。目のところは、こちらからは半分しか見えない。
鼻を、一度すすった。それが先だった。
*
紙の上に、点が落ちた。
一つ目が、丸を書きかけたところの右になる。
二つ目が、その少し下だった。二つとも、紙が吸って広がる。
三つ目は見ていない。目を、そこで外した。
*
母は、顔を隠さなかった。
手で押さえもしないし、横を向きもしない。
九年間、この人が泣いたところを、僕は二回しか見ていない。
一回目は、四年前の三月九日になる。あのときは、声が出ていなかった。
*
「お母さんが何をしたっていうの」
*
それだけだった。
そのあと、母は何も言わない。訊いたきりで、続きが来ない。
言い方は、責めるときの言い方ではなかった。
分からないから訊いている、という言い方になる。
*
喉のところが、詰まった。
詰まったというより、通り道が狭くなる。息は入る。声だけが出ない。
耳の奥で、高い音が鳴っていた。十一月からずっと鳴っているやつになる。
その音が、そのときだけ大きくなった。
*
母がしなかったことを、僕はそこで数えはじめた。
殴っていない。九年で一度も無い。
怒鳴ったことは、九年間で一度も起きなかった。
順位を訊かない。点も、判定も、九年ずっと訊かずに来た。
*
勉強しなさい、と言っていない。
早く寝なさいも、遅いも、九年でひとことも出なかった。
医者になれとも、大学へ行けとも言われた覚えが無い。
将来の話を、母は九年間ずっとしないままで来た。
*
お金の話も出さない。
四百十七万八千円という数を、母は一度も口にしていない。
高いとも、大変だとも、してあげたとも聞いた覚えが無い。
言わなかったことのほうを、こちらは全部覚えている。
*
やったことのほうも、数えられる。
忘れ物を届けにきたのが、九年で十四回ある。
弁当を作らなかった日は、九年で四日だけになる。
参観日に来なかったことが無い。二十七回とも来ている。
これも全部、こちらが数えたものだ。母は一度も、その数を言っていない。
*
全部、本当だった。
一つずつ確かめて、一つも外れていない。
九年ぶんを数えて、母のほうに間違いが一つも出てこない。
出てこないので、こちらの側に出せるものが無くなった。
*
九年というのは、三千二百八十六日になる。
うるう年が二回入るので、三千二百八十七日かもしれない。
どちらなのかを、こちらはその夜に出そうとした。
途中で止まっている。止まったのは、けたを繰り上げるところだった。
九年間、こういう計算で止まったことが一度も無い。
*
何もしてない、と言おうとした。
*
言わなかったのは、その四文字が二つの意味になるからだと思う。
母は何もしていない、という意味にもなる。
母は何もしてくれなかった、という意味にもなる。
どちらでもない言い方を、こちらは持っていなかった。
*
持っていないものは、九年ぶんたまっている。
たまっているのは分かる。どこにあるかは出せない。
名前をつけたことが一度も無い。つける形を教わっていない。
教わっていないのは、母のせいではないと思う。母も教わっていないはずだ。
思うだけで、これも確かめたことが無い。
*
口から出たのは、別のものだった。
*
「ごめんなさい」
*
言ったのは、こちらになる。
言ったあとで、自分の声だと分かるまでに間があった。
母は、うなずかなかった。首を振りもしない。
鼻をもう一度すすって、ペンをしっかり持ち直した。それから紙に下ろす。
*
書きかけの丸を、母は書き足した。
途中で切れていたところに、続きの線が入る。
線は、少しずれた。二重になったところがある。
二重のところを、母は消さなかった。
*
八つ目の丸が、そのあとについた。
九つ目はつかない。去年は九つついている。
八つで止めた理由も、母は言わない。
言わないものを、こちらは訊かなかった。
*
申し込み用紙の名前の欄は、母が書いた。
高梨秀真、と書く。字は九年間、ほとんど変わっていない。
学年のところには、既卒と書く欄がある。母はそこに丸をつけた。
つけるときに、手が少し止まった。止まった長さは、やはり出せない。
*
もう、いい、と言ったことを、恥ずかしいとは思っていない。
思っていないのに、あの四文字は、そのあと二度と口から出なかった。
使えるところが来なかったのか、使わないでいたのかは決まらない。
決まらないものが、その春でまた一つ増えた。
*
千尋は、二階にいた。
下りてこなかった。音が聞こえていたかどうかは分からない。
この家の階段は、上から三段目が鳴る。その夜は鳴っていない。
鳴らなかったことだけを、僕は覚えている。
あとで訊いたこともない。訊けば、聞こえていたかどうかは分かったはずだ。
*
父は、その日も遅かった。
帰ってきたのは、こちらが部屋に戻ってからになる。
玄関の音がして、それから台所の音がした。声は聞こえない。
次の日も、父は何も言わなかった。
*
母は、そのあと立ち上がった。
立って、流しへ行って、洗い物の続きをする。
手が震えていた。皿を持つときに、縁が触れて音が鳴る。
鳴ったのは三回で、三回とも同じ皿だったと思う。
*
その夜の残りに、母は台所をきちんと片づけ終えた。
いつもと同じ順で、いつもと同じところへ戻す。
置き方まで同じだった。同じにするために、時間は少し長くかかっている。
長さは測っていない。測る道具は、そのころもう手が伸びない。
*
次の朝、母は玄関に立っていた。
いつもの場所で、いつもの言い方をする。行ってらっしゃい、になる。
目のところは、前の夜とは違っていた。腫れてはいない。
こちらは、その顔を三秒くらい見ている。それから外へ出た。
*
鞄には、弁当が入っていた。
四月からの予備校のぶんではない。その日は、まだ何も始まっていない。
始まっていないのに、弁当が入っている。
入っているのが当たり前になっていて、こちらは鞄を開けるまで気づかなかった。
開けると、人参が花の形に切ってあった。
*
世間では、こういうときに親子で話し合うものらしい。
ちゃんと向き合うとか、気持ちを伝えるとか、普通はそのあたりになる。
うちでは、話し合いが一度も起きていない。
起きないかわりに、次の日の弁当が出る。九年、その形で来た。
*
母の記録帳は、その年で十八冊目に入った。
一冊が百二十ページで、十八冊だと二千百六十ページになる。
開けたことは一度も無い。ページの数だけは、背の厚みから出せる。
*
母は一度も、あの夜のことを持ち出さなかった。
四月からも、その先も、一度も出なかった。
忘れたのではないと思う。母は数も日付も覚えている人だ。
覚えていて、出さない。九年かけて身につけたやり方が、その夜のあとも同じに働いた。
*
四月三日から、予備校へ通いはじめた。
八講座で、週に十九回ある。一回が九十分なので、週に千七百十分になる。
立派な建物ではない。去年と同じ、駅の東口の四階建てだ。
既卒の教室は四階にある。現役のときは三階だった。
座席表には、既卒の番号が別に並んでいる。二百四十一人いた。
こちらの番号は、その表の四番目になる。
*
その夜に出せた数を、あとで書き出したことがある。
九年、八つの丸、四百十七万八千円、三〇一、二九六、五百四十一。
六つとも、いまでもその場で出る。
出せなかったのは、母が黙っていた長さと、こちらが立っていた長さになる。
出るのが六つで、出ないのが二つ。その比を、こちらはまだ数えている。
*
二年ぶんを、数で並べておく。
順位は二七九から二九六まで下がって、そこから三〇一になった。
空けた問題は、七月の一問から始まって、三月の学年末で十一問になる。
偏差値は四十九・一がいちばん高く、四十三・〇がいちばん低い。
体重は五十八から五十三へ落ちた。
時刻の出る日は、三百六十五から零に近いところまで来ている。
数はどれも出る。二年で何があったのかは、この並びのどこにも書いていない。
*
謝ったのはこちらで、謝る理由は最後まで出てこなかった。




