第089話 落ちた
一月二十日ごろに、机の上に封筒が三通置いてあった。
どれも大学の名前が入っている。私立が三校ぶんになる。
中に願書と、要項と、振込用紙が入っていた。三通とも封は開けてある。
取り寄せたのは母だ。頼んでいない。
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三校とも、名前は知っていた。
予備校の資料に出ている。判定はどれもCとDだった。
受ければ、一つは通ったと思う。思うだけで、確かめようが無い。
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締め切りは、一月二十七日と、一月三十日と、二月三日だった。
三つとも、こちらの手帳に書いてある。書いたのは僕になる。
書いて、線を引いて、丸で囲った。九年間、そのやり方でやってきた。
丸で囲ったところまでは、いつもと同じだった。
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一通目の締め切りの日、封筒は机の上にあった。
朝、その横で問題集を開いている。開いて、四十分やった。
やっているあいだ、封筒は視野の右にある。右にあるのは分かっていた。
分かっていて、手が伸びない。
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伸びなかったのは、去年の七月と同じ形になる。
あのときは、書けるのに書かなかった。今度は、出せるのに出さない。
同じ形だと分かっている。分かっていて、同じことをした。
二回目なので、慣れているところがあった。
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出さないままにしておくのは、だらしないやり方になる。
だらしないと言われたことは、九年間で一度も無い。
言われる前に、こちらはたいてい出してきた。三通だけが例外になる。
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二通目も、三通目も出していない。
二月三日の夜まで、封筒は三通とも机の上にあった。
次の朝、無くなっている。片づけたのは母になる。
どこへやったのかは知らない。押入れかもしれない。
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母は、そのことを一度も言わなかった。
出さなかったのとも、どうするのとも訊いていない。
九年間、こういう訊き方をされたことが無い。無いので、答える形も持っていない。
持っていないものは、そのまま消える。
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国立の前期の出願は、学校でやった。
一月三十日に、全員ぶんをまとめて出す。担任が集めた。
こちらの分だけ抜けることは、その形だと起きない。
起きないので、出た。出した、と書くほうが正しいかどうかは分からない。
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二次試験は、二月二十五日と二十六日だった。
会場は、センターとは違う大学になる。家から一時間二十分かかる。
乗り換えが二回ある。降りてから会場まで、歩いて十七分だ。
二日とも同じ道を通った。二日とも十七分になる。
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科目は、二日で四つある。
一日目が数学と物理。二日目が化学と英語になる。
一科目が九十分で、四つで三百六十分だ。
三百六十分のあいだに何を書いたかを、僕はほとんど覚えていない。
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覚えているのは、教室の窓が北向きだったことになる。
午前でも、日が入らない。手はずっと冷たかった。
カイロは、一月と同じものが右のポケットに入っている。
入れたのは母だ。二月も、言われていない。
母は、二日とも玄関に立っていた。一月と同じ場所で、同じ言い方をする。
同じであることのほうが、こちらには当たり前になっていた。
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二月十一日に、玄関のカレンダーを見た。
母の予定だけが鉛筆で書いてあるやつになる。
二月の欄に、駅の名前が一つ書いてあった。二次試験の会場の、最寄りの駅だ。
書いてあったのは、二月十一日のところになる。
カレンダーの母の字は、いつもきちんとしている。
欄からはみ出さない。鉛筆で、消せるように書いてある。
その日の欄だけ、駅の名前が二行に分けてあった。
字が入りきらなかったのだと思う。母がはみ出しかけたのを、こちらは初めて見た。
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その日、母は昼から出かけている。
どこへ行くとは言わなかった。帰ってきたのは夕方だった。
夕飯は、いつもの時間に出ている。遅れていない。
遅れていないので、こちらはその日、何も考えなかった。
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行ったんですか、と訊こうとした。
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道は、母のほうが先に歩いている。
こちらが二月二十五日に歩いた十七分を、母は二週間前に歩いていた。
歩いて、たぶん建物を見て、それから帰ってきた。
中には入れないはずだ。門のところまでだと思う。
思うだけで、これも確かめていない。
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合格発表は、三月九日だった。
掲示は大学の構内に出る。ほかに、番号を電話で聞く方法もあった。
電話のほうは使っていない。使わなかった理由は、はっきりしている。
声で聞くと、聞き間違いが残る。紙なら、目で確かめられる。
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一人で行った。
行ってくる、とは言っていない。朝、いつもの時間に出ている。
母は玄関に立っていた。行ってらっしゃい、と言う。
その日も、言い方は同じだった。
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掲示板は、体育館の横に立ててあった。
ベニヤの板が六枚並んでいる。上から順に、番号が四けたで刷ってあった。
紙は横に長い。四隅はしっかり留めてある。風が入ると、下の端が鳴った。
鳴る音は、紙が板を打つ音になる。あの音を、いまでも出せる。
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人は、七十人か八十人いた。
前のほうに寄っている人と、後ろから見ている人がいる。
声を出している人はいない。携帯で撮っている人が何人かいた。
こちらは前まで行った。前まで行かないと、四けたが読めない。
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僕の番号は、一〇二七だった。
紙の三枚目に、一〇〇〇番台が並んでいる。
上から順に見た。一〇二三、一〇二五、一〇二八、一〇三一と続く。
一〇二七は無い。
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三枚目には、一〇〇〇番台から一〇九九番台までが刷ってあった。
数えると、その紙に載っているのは三十八人ぶんになる。
一〇〇〇番台の受験者は、百人いたはずだ。三十八人が残って、六十二人が残らない。
六十二のうちの一つが、こちらになる。数にすると、それだけの話だった。
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二回見た。
一度目は、自分の番号を探した。二度目は、前と後ろを確かめている。
一〇二五がある。一〇二八がある。あいだの二つが飛んでいた。
飛んでいるところは、詰めていない。番号の順に刷ってあるので、そこだけ空く。
空いているのが、離れたところからでも見える。
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見えるのに、誰もそこを見ていない。
人は自分の番号のところだけを見る。他人の抜けは、目に入らない。
目に入らないものは、無いのと同じになる。
同じなのに、こちらの側からはずっと見えていた。
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番号を見たあとで、指が動いていた。
紙の上をなぞろうとして、板に触れる前に止まっている。
触っても、番号は増えない。増えないと分かっていて、手が出ていた。
出た手を、こちらは横に下ろした。下ろすまでの長さは出せない。
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落ちたことを、恥ずかしいとは思わなかった。
思わなかったのは、比べる相手を持っていないからになる。
上に何人いるかを、そのころはもう数えていない。
数えない癖がついたのが、いつからかも出てこない。
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掲示板の前から、駅までのことは覚えていない。
電車に乗ったのは覚えている。座ったかどうかが出てこない。
着いた駅から家までは、いつもの十二分だと思う。
思うだけで、その日だけは測っていなかった。
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家に着くと、母が玄関にいた。
こちらの顔を見た。二秒くらいだと思う。
それから、おかえり、と言った。ふだんと同じ言い方だった。
どうだったのとは訊かない。訊かないまま、台所へ戻った。
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その夜の夕飯は、いつもと同じ皿の数だった。
四つになる。増えても減ってもいない。
中身も、特別なものではない。豚肉と、大根と、味噌汁と、漬物だ。
全部食べた。食べているあいだ、誰も三月九日の話をしなかった。
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千尋も、その日は何も訊かなかった。
母から先に何か言われたのだと思う。言われたところは見ていない。
見ていないので、これも確かめようが無い。
確かめようが無いものが、その春でまた増えた。
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後期の出願は、前期と一緒に一月三十日に出している。
前期より一つ下の大学になる。担任が薦めた形になる。
紙は自分で書いた。書くのに三分かからない。
三分かからないのは、選ぶ手順が身についているからだ。
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後期の試験は、三月十二日にあった。
小論文と面接だけだった。学科の試験は無い。
面接は十五分で、三人の先生が並んで座っている。
志望理由を訊かれた。二年前に七行書いたものと、ほとんど同じことを言っている。
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立派なことを言ったつもりはない。ちゃんと答えてはいる。
三人とも、うなずいた。うなずき方が三人とも同じだった。
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言いながら、自分の声が遠かった。
遠いというのは、耳から入ってくる感じがあるという意味になる。
口が動いているのは分かる。分かるのに、決めているのが誰なのかが出てこない。
十五分は、そのまま終わった。
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世間では、面接は熱意で決まると言うらしい。
自分の言葉で話しなさい、と予備校の資料にも書いてあった。
普通は、そこで何かを言うものになる。
言う形を、こちらは九年かけて持たなかった。
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後期の発表は、三月二十一日だった。
同じ掲示板になる。ベニヤが六枚、同じ場所に立ててある。
人は、前より少ない。三十人ほどだった。
こちらの番号は、二〇一四になる。
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二〇一二がある。二〇一五がある。
あいだの二つが飛んでいた。前と同じ形になる。
同じ形なのに、こちらは前のときより長く見ていた。
長さは出せない。時計を見ていない。
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帰ってから、母に言った。
だめだった、と言っている。二回目は、こちらから先に言った。
母は、そう、と言った。それだけになる。
それから、ご飯にする、と言って台所へ入った。
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母は一度も、どうして出さなかったのと訊かなかった。
私立の三通のことになる。あの封筒が最後にどうなったかを、こちらは知らない。
訊かなかったのは、母のほうが先に片づけたからだと思う。
片づけたものは、この家では起きなかったことになる。
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三月の残りに、こちらがやったことは二つある。
教科書をまとめたのと、予備校の春の案内を机に置いたことだ。
置いただけで、開いていない。封も切っていない。
切っていない封筒が、その春で七通になった。
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教科書をまとめたのは、こちらの手でやった。
紐の縛り方は、去年母がやったのを見ている。見たとおりにやると、できた。
角が四つそろう。持ち上げても崩れない。
教わっていないのに、できた。できたことを、母には言っていない。
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番号が無い紙を、僕は二回見た。




