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自慢の息子  作者: 智珠
第五部 沈黙

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第089話 落ちた

 一月二十日ごろに、机の上に封筒が三通置いてあった。


 どれも大学の名前が入っている。私立が三校ぶんになる。


 中に願書と、要項と、振込用紙が入っていた。三通とも封は開けてある。


 取り寄せたのは母だ。頼んでいない。


            *


 三校とも、名前は知っていた。


 予備校の資料に出ている。判定はどれもCとDだった。


 受ければ、一つは通ったと思う。思うだけで、確かめようが無い。


            *


 締め切りは、一月二十七日と、一月三十日と、二月三日だった。


 三つとも、こちらの手帳に書いてある。書いたのは僕になる。


 書いて、線を引いて、丸で囲った。九年間、そのやり方でやってきた。


 丸で囲ったところまでは、いつもと同じだった。


            *


 一通目の締め切りの日、封筒は机の上にあった。


 朝、その横で問題集を開いている。開いて、四十分やった。


 やっているあいだ、封筒は視野の右にある。右にあるのは分かっていた。


 分かっていて、手が伸びない。


            *


 伸びなかったのは、去年の七月と同じ形になる。


 あのときは、書けるのに書かなかった。今度は、出せるのに出さない。


 同じ形だと分かっている。分かっていて、同じことをした。


 二回目なので、慣れているところがあった。


            *


 出さないままにしておくのは、だらしないやり方になる。


 だらしないと言われたことは、九年間で一度も無い。


 言われる前に、こちらはたいてい出してきた。三通だけが例外になる。


            *


 二通目も、三通目も出していない。


 二月三日の夜まで、封筒は三通とも机の上にあった。


 次の朝、無くなっている。片づけたのは母になる。


 どこへやったのかは知らない。押入れかもしれない。


            *


 母は、そのことを一度も言わなかった。


 出さなかったのとも、どうするのとも訊いていない。


 九年間、こういう訊き方をされたことが無い。無いので、答える形も持っていない。


 持っていないものは、そのまま消える。


            *


 国立の前期の出願は、学校でやった。


 一月三十日に、全員ぶんをまとめて出す。担任が集めた。


 こちらの分だけ抜けることは、その形だと起きない。


 起きないので、出た。出した、と書くほうが正しいかどうかは分からない。


            *


 二次試験は、二月二十五日と二十六日だった。


 会場は、センターとは違う大学になる。家から一時間二十分かかる。


 乗り換えが二回ある。降りてから会場まで、歩いて十七分だ。


 二日とも同じ道を通った。二日とも十七分になる。


            *


 科目は、二日で四つある。


 一日目が数学と物理。二日目が化学と英語になる。


 一科目が九十分で、四つで三百六十分だ。


 三百六十分のあいだに何を書いたかを、僕はほとんど覚えていない。


            *


 覚えているのは、教室の窓が北向きだったことになる。


 午前でも、日が入らない。手はずっと冷たかった。


 カイロは、一月と同じものが右のポケットに入っている。


 入れたのは母だ。二月も、言われていない。


 母は、二日とも玄関に立っていた。一月と同じ場所で、同じ言い方をする。


 同じであることのほうが、こちらには当たり前になっていた。


            *


 二月十一日に、玄関のカレンダーを見た。


 母の予定だけが鉛筆で書いてあるやつになる。


 二月の欄に、駅の名前が一つ書いてあった。二次試験の会場の、最寄りの駅だ。


 書いてあったのは、二月十一日のところになる。


 カレンダーの母の字は、いつもきちんとしている。


 欄からはみ出さない。鉛筆で、消せるように書いてある。


 その日の欄だけ、駅の名前が二行に分けてあった。


 字が入りきらなかったのだと思う。母がはみ出しかけたのを、こちらは初めて見た。


            *


 その日、母は昼から出かけている。


 どこへ行くとは言わなかった。帰ってきたのは夕方だった。


 夕飯は、いつもの時間に出ている。遅れていない。


 遅れていないので、こちらはその日、何も考えなかった。


            *


 行ったんですか、と訊こうとした。


            *


 道は、母のほうが先に歩いている。


 こちらが二月二十五日に歩いた十七分を、母は二週間前に歩いていた。


 歩いて、たぶん建物を見て、それから帰ってきた。


 中には入れないはずだ。門のところまでだと思う。


 思うだけで、これも確かめていない。


            *


 合格発表は、三月九日だった。


 掲示は大学の構内に出る。ほかに、番号を電話で聞く方法もあった。


 電話のほうは使っていない。使わなかった理由は、はっきりしている。


 声で聞くと、聞き間違いが残る。紙なら、目で確かめられる。


            *


 一人で行った。


 行ってくる、とは言っていない。朝、いつもの時間に出ている。


 母は玄関に立っていた。行ってらっしゃい、と言う。


 その日も、言い方は同じだった。


            *


 掲示板は、体育館の横に立ててあった。


 ベニヤの板が六枚並んでいる。上から順に、番号が四けたで刷ってあった。


 紙は横に長い。四隅はしっかり留めてある。風が入ると、下の端が鳴った。


 鳴る音は、紙が板を打つ音になる。あの音を、いまでも出せる。


            *


 人は、七十人か八十人いた。


 前のほうに寄っている人と、後ろから見ている人がいる。


 声を出している人はいない。携帯で撮っている人が何人かいた。


 こちらは前まで行った。前まで行かないと、四けたが読めない。


            *


 僕の番号は、一〇二七だった。


 紙の三枚目に、一〇〇〇番台が並んでいる。


 上から順に見た。一〇二三、一〇二五、一〇二八、一〇三一と続く。


 一〇二七は無い。


            *


 三枚目には、一〇〇〇番台から一〇九九番台までが刷ってあった。


 数えると、その紙に載っているのは三十八人ぶんになる。


 一〇〇〇番台の受験者は、百人いたはずだ。三十八人が残って、六十二人が残らない。


 六十二のうちの一つが、こちらになる。数にすると、それだけの話だった。


            *


 二回見た。


 一度目は、自分の番号を探した。二度目は、前と後ろを確かめている。


 一〇二五がある。一〇二八がある。あいだの二つが飛んでいた。


 飛んでいるところは、詰めていない。番号の順に刷ってあるので、そこだけ空く。


 空いているのが、離れたところからでも見える。


            *


 見えるのに、誰もそこを見ていない。


 人は自分の番号のところだけを見る。他人の抜けは、目に入らない。


 目に入らないものは、無いのと同じになる。


 同じなのに、こちらの側からはずっと見えていた。


            *


 番号を見たあとで、指が動いていた。


 紙の上をなぞろうとして、板に触れる前に止まっている。


 触っても、番号は増えない。増えないと分かっていて、手が出ていた。


 出た手を、こちらは横に下ろした。下ろすまでの長さは出せない。


            *


 落ちたことを、恥ずかしいとは思わなかった。


 思わなかったのは、比べる相手を持っていないからになる。


 上に何人いるかを、そのころはもう数えていない。


 数えない癖がついたのが、いつからかも出てこない。


            *


 掲示板の前から、駅までのことは覚えていない。


 電車に乗ったのは覚えている。座ったかどうかが出てこない。


 着いた駅から家までは、いつもの十二分だと思う。


 思うだけで、その日だけは測っていなかった。


            *


 家に着くと、母が玄関にいた。


 こちらの顔を見た。二秒くらいだと思う。


 それから、おかえり、と言った。ふだんと同じ言い方だった。


 どうだったのとは訊かない。訊かないまま、台所へ戻った。


            *


 その夜の夕飯は、いつもと同じ皿の数だった。


 四つになる。増えても減ってもいない。


 中身も、特別なものではない。豚肉と、大根と、味噌汁と、漬物だ。


 全部食べた。食べているあいだ、誰も三月九日の話をしなかった。


            *


 千尋も、その日は何も訊かなかった。


 母から先に何か言われたのだと思う。言われたところは見ていない。


 見ていないので、これも確かめようが無い。


 確かめようが無いものが、その春でまた増えた。


            *


 後期の出願は、前期と一緒に一月三十日に出している。


 前期より一つ下の大学になる。担任が薦めた形になる。


 紙は自分で書いた。書くのに三分かからない。


 三分かからないのは、選ぶ手順が身についているからだ。


            *


 後期の試験は、三月十二日にあった。


 小論文と面接だけだった。学科の試験は無い。


 面接は十五分で、三人の先生が並んで座っている。


 志望理由を訊かれた。二年前に七行書いたものと、ほとんど同じことを言っている。


            *


 立派なことを言ったつもりはない。ちゃんと答えてはいる。


 三人とも、うなずいた。うなずき方が三人とも同じだった。


            *


 言いながら、自分の声が遠かった。


 遠いというのは、耳から入ってくる感じがあるという意味になる。


 口が動いているのは分かる。分かるのに、決めているのが誰なのかが出てこない。


 十五分は、そのまま終わった。


            *


 世間では、面接は熱意で決まると言うらしい。


 自分の言葉で話しなさい、と予備校の資料にも書いてあった。


 普通は、そこで何かを言うものになる。


 言う形を、こちらは九年かけて持たなかった。


            *


 後期の発表は、三月二十一日だった。


 同じ掲示板になる。ベニヤが六枚、同じ場所に立ててある。


 人は、前より少ない。三十人ほどだった。


 こちらの番号は、二〇一四になる。


            *


 二〇一二がある。二〇一五がある。


 あいだの二つが飛んでいた。前と同じ形になる。


 同じ形なのに、こちらは前のときより長く見ていた。


 長さは出せない。時計を見ていない。


            *


 帰ってから、母に言った。


 だめだった、と言っている。二回目は、こちらから先に言った。


 母は、そう、と言った。それだけになる。


 それから、ご飯にする、と言って台所へ入った。


            *


 母は一度も、どうして出さなかったのと訊かなかった。


 私立の三通のことになる。あの封筒が最後にどうなったかを、こちらは知らない。


 訊かなかったのは、母のほうが先に片づけたからだと思う。


 片づけたものは、この家では起きなかったことになる。


            *


 三月の残りに、こちらがやったことは二つある。


 教科書をまとめたのと、予備校の春の案内を机に置いたことだ。


 置いただけで、開いていない。封も切っていない。


 切っていない封筒が、その春で七通になった。


            *


 教科書をまとめたのは、こちらの手でやった。


 紐の縛り方は、去年母がやったのを見ている。見たとおりにやると、できた。


 角が四つそろう。持ち上げても崩れない。


 教わっていないのに、できた。できたことを、母には言っていない。


            *


 番号が無い紙を、僕は二回見た。

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