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自慢の息子  作者: 智珠
第五部 沈黙

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第088話 二日間

 試験は、一月十四日と十五日だった。


 会場は市内の大学で、家から電車で四十分かかる。乗り換えが一回ある。


 家から会場までは、歩きも入れて五十五分になる。


 家から駅まで十二分、電車が二十六分、乗り換えの待ちが四分ある。


 降りてから会場まで、地図では十三分と書いてあった。実際には十一分だった。


 二日とも同じ道を通って、二日とも十一分になる。


 同じにするために、歩く速さを合わせている。合わせたのは、たぶん癖になる。


 立派な会場ではない。古い建物で、廊下の窓の建てつけが悪かった。


 教室は三号館の二階だった。受験番号の下二けたが席の番号になる。


 僕は十七番で、窓から二列目の、前から四番目に座った。


            *


 その教室には、四十八人いた。


 机が六列で、八行ある。空いている席が二つあった。


 二つとも、二日目にも埋まっていない。


 埋まらなかったことを、誰も言わない。放送でも触れなかった。


            *


 持ち物は、前の日の夜に並べた。


 受験票、写真票、鉛筆が五本、消しゴムが二つ、鉛筆削りが一つになる。


 あとは時計と、財布と、弁当だ。


 並べてから、数を三回確かめている。三回とも同じだった。


            *


 前の日の夜、母は玄関に僕の靴を出した。


 いつもの通学の靴で、洗ってある。乾かしたのは前の週になる。


 きちんと並べてあった。かかとの線が、二足ともそろっている。


 母は、明日のことを何も言わない。言わずに、物のほうを先に置く。


 九年、ずっとその順番だった。


            *


 時計は、机の上に置いた。


 置いてから、二日間で一度も見ていない。


 見ないと決めたのではない。手が伸びなかった。


 伸びないまま、あの時計は二日間そこにあった。


            *


 一日目の朝、上着のポケットにカイロが入っていた。


 貼らないほうのやつで、右のポケットに一つある。


 封は切ってあった。切ってあるということは、あらかじめ振ってあるということになる。


 入れたのは母だ。言われていない。


            *


 これ、いつ入れたんですか、と訊こうとした。


            *


 カイロは、電車のあいだじゅう握っていた。


 四十分で、手のひらのほうは温かくなる。指の先までは来ない。


 来ないのは、十月からずっとそうだった。


 そうだと分かっていて、こちらは握り直している。


            *


 一科目目は、六十分あった。


 地理を選んでいる。大問が六つで、設問が三十六ある。


 解き終わったのが、たぶん半分くらいのところだった。


 残りで見直しをして、それでも余った。余ったぶん、音を聞いていた。


            *


 教室の音は、四種類ある。


 鉛筆が紙をこする音。消しゴムを使う音。紙をめくる音。咳。


 鉛筆の音は、四十八人ぶんが重なると、雨に近い。強くなったり弱くなったりする。


 弱くなるのは、みんなが同じところで考えているときになる。


            *


 咳は、一科目目で十一回あった。


 同じ人が三回している。右の後ろのほうだ。振り返っていない。


 振り返らなくても、どのあたりかは分かる。音の来る向きで分かる。


 九年、家でそれをやってきたからだと思う。


            *


 昼は、教室で食べた。


 弁当は小さいほうの箱だった。中身は、玉子焼きと、鮭と、人参の煮たものになる。


 人参は花の形に切ってある。十二月から、ずっとその形だ。


 全部食べた。味の位置は、その日も出てこない。


            *


 国語は、八十分ある。


 大問が四つで、評論、小説、古文、漢文になる。


 評論を読んでいるあいだに、同じ段落を三回読んだ。


 三回とも、意味が入ってこない。文字は読めている。


            *


 入ってこないので、線を引きながら読んだ。


 線を引くと、目が先へ進む。進むが、内容は残らない。


 残らないまま設問へ行って、選択肢のほうを先に読んだ。


 選択肢から本文へ戻るやり方で、四十分かかっている。


            *


 マークが薄いことに、外国語のときに気づいた。


 塗ったところが、光の角度で消えて見える。


 冷たい手だと、力が入らない。九年やってきた塗り方が出ない。


 二枚目の途中で、一枚目に戻って塗り直した。


 答案はきちんと裏返して置くように、放送で二度言われている。


            *


 塗り直したのは、二十六か所ある。


 一か所につき、四秒か五秒かかった。全部で二分ほどになる。


 その二分を、こちらはあとで何度も数え直している。


 数え直しても、時間は戻らない。戻らないのに、数えていた。


            *


 外国語には、聞き取りが三十分ついている。


 機械が一人に一つ配られて、耳につけるものが袋に入っていた。


 袋を開ける音が、四十八人ぶんで一斉に鳴る。あの音は、二日間で一度だけになる。


 問題は二十五問あった。読まれるのが二回のものと、一回だけのものがある。


 一回だけのものが十四問で、そこで二つ落としたのが、あとで分かった。


            *


 一日目が終わって、外へ出た。


 人が同じ方向へ歩いていく。駅までの道が、行きより混んでいた。


 電車では座れなかった。立って、窓のほうを見ている。


 窓に映っているものを、僕は見ていない。目は開いていた。


            *


 家に帰ると、母が玄関にいた。


 朝と同じ場所に立っている。おかえり、と言った。


 どうだった、とは訊かない。九年間、その訊き方を一度も聞いていない。


 訊かれないので、こちらも何も言わなかった。


            *


 その夜の夕飯は、いつもと同じだった。


 験をかつぐものは出ていない。皿の数も四つになる。


 母は、二日目の持ち物のことだけを言った。受験票を出したかどうかを訊く。


 出した、と答えている。それで話は終わった。


            *


 世間では、こういう日に親が何か言うものらしい。


 落ち着いてとか、いつもどおりでいいとか、普通はそのあたりになる。


 母は言わない。かわりに、次の日のカイロがもう封を切ってあった。


 切ってあるのを、朝ではなく前の夜に見つけている。


            *


 二日とも、母は玄関に立っていた。


 行ってらっしゃい、を二回言う。四月からの言い方と同じだった。


 しっかりね、とは言わない。がんばりなさい、とも言っていない。


 言わないのが当たり前になっていて、こちらもそれを待っていなかった。


            *


 二日目の朝、口の中に苦いものが上がってきた。


 歯を磨くときではない。制服に着替えているときになる。


 飲み込んで、水を飲んだ。もう一度上がってきて、二度目も飲み込んだ。


 出てはいない。出ていないので、家の誰にも分からない。


            *


 二日目は、理科と数学がある。


 物理と化学で百三十分。数学が六十分ずつで二科目になる。


 合わせて二百五十分だ。前の日より長い。


 長いのに、その日のほうが短く感じた。感じ方の理由は出せない。


            *


 数学の一科目目で、時間の感覚が崩れた。


 大問の二つ目を解いているときに、始まってからどのくらいたったのかが分からなくなる。


 机の上に時計はある。見ればいい。見れば済む。


 済むのに、手が伸びない。伸びないのは、一年前からずっと同じだった。


            *


 かわりに、放送の残り時間の合図を待った。


 合図は、終わりの十分前に一度ある。あれが来るまでは、まだあると考える。


 考えているあいだ、手は止まっていない。書いている。


 書いているのに、どこを書いているかが少し遅れて分かる。


            *


 合図が来たとき、こちらは大問の三つ目にいた。


 四つ目が丸ごと残っている。残っているのは分かる。


 残りの十分で、四つ目を全部やった。やったというより、埋めた。


 埋めた、というのが正しい。空欄が一つも無い状態にした。


            *


 九年間、空欄を作らないでやってきた。


 空けたのは去年の七月からの何回かだけになる。あれは意図して空けた。


 その日は、意図していない。手が勝手に埋めている。


 勝手に、というのがどこまで本当なのかは、いまも決めていない。


            *


 最後の科目が終わったとき、放送が鳴った。


 鉛筆を置いてください、という声だった。


 四十八人ぶんの鉛筆が、机に触れる音がする。ばらばらに鳴って、すぐ止まった。


 止まったあとの教室は、二日間でいちばん音が無い。


            *


 解答用紙が回収された。


 前から後ろへ、番号順に集める。こちらの紙も、束の中に入っていく。


 束になると、どれが誰のものか分からない。厚みだけが増えていった。


 その厚みを、僕はしばらく見ていた。


            *


 教室を出るまでのことは覚えている。


 鞄に、時計と、鉛筆五本と、消しゴム二つを入れた。数を確かめている。


 朝と同じ数だった。減っても増えてもいない。


 カイロは、右のポケットに入ったままになる。冷たくなっていた。


            *


 自己採点は、四日後に学校でやった。


 一月十九日で、教室に三十九人が集まる。正解の冊子が配られた。


 自分で丸をつけて、点を出して、紙に書いて出す。


 書く欄が九つあった。九教科ぶんになる。


            *


 合計は、九百点のうち五百四十一点だった。


 六十・一パーセントになる。前の年の平均が六十一・二だと聞いている。


 平均を一・一だけ下回っている。数として見ると、それだけの話になる。


 第一志望に要るのは、七十五パーセント以上だった。


            *


 五百四十一点を、恥ずかしいとは思わなかった。


 思わなかったのは、たぶん比べる相手を作っていなかったからになる。


 だらしないやり方で取った点ではない。ちゃんと二日間、全部の科目に出ている。


 ちゃんと出て、この数になった。そこが、いちばん動かせない。


            *


 差は、百三十四点ある。


 百三十四点というのは、埋めた大問の四つ目より、ずっと大きい。


 大きいので、あの十分のせいにできない。


 できないのに、こちらはその十分のことを、いまでも何度か数え直している。


            *


 世間では、この二日で決まると言われている。普通は、そこから先を組み直すらしい。


 組み直す形を、こちらは持っていなかった。


            *


 自己採点の紙を、家では出していない。


 母は数を訊かない。訊かないでいる形が、九月からずっと続いていた。


 父も訊かない。千尋は、終わったの、とだけ訊いた。


 終わった、と答えている。それで済んだ。


            *


 母は一度も、点を訊かなかった。


            *


 二日目のカイロは、机の引き出しに入れた。


 冷たくなったやつを、捨てないで入れている。捨てる理由が見つからない。


 いま実家の引き出しにあるかどうかは、確かめていない。


 確かめていないものが、あの家にはたくさんある。


 カイロを入れた朝のことを、母はそのあとも一度も言わなかった。


            *


 終わった日の帰り道を、僕は覚えていない。

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