第088話 二日間
試験は、一月十四日と十五日だった。
会場は市内の大学で、家から電車で四十分かかる。乗り換えが一回ある。
家から会場までは、歩きも入れて五十五分になる。
家から駅まで十二分、電車が二十六分、乗り換えの待ちが四分ある。
降りてから会場まで、地図では十三分と書いてあった。実際には十一分だった。
二日とも同じ道を通って、二日とも十一分になる。
同じにするために、歩く速さを合わせている。合わせたのは、たぶん癖になる。
立派な会場ではない。古い建物で、廊下の窓の建てつけが悪かった。
教室は三号館の二階だった。受験番号の下二けたが席の番号になる。
僕は十七番で、窓から二列目の、前から四番目に座った。
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その教室には、四十八人いた。
机が六列で、八行ある。空いている席が二つあった。
二つとも、二日目にも埋まっていない。
埋まらなかったことを、誰も言わない。放送でも触れなかった。
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持ち物は、前の日の夜に並べた。
受験票、写真票、鉛筆が五本、消しゴムが二つ、鉛筆削りが一つになる。
あとは時計と、財布と、弁当だ。
並べてから、数を三回確かめている。三回とも同じだった。
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前の日の夜、母は玄関に僕の靴を出した。
いつもの通学の靴で、洗ってある。乾かしたのは前の週になる。
きちんと並べてあった。かかとの線が、二足ともそろっている。
母は、明日のことを何も言わない。言わずに、物のほうを先に置く。
九年、ずっとその順番だった。
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時計は、机の上に置いた。
置いてから、二日間で一度も見ていない。
見ないと決めたのではない。手が伸びなかった。
伸びないまま、あの時計は二日間そこにあった。
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一日目の朝、上着のポケットにカイロが入っていた。
貼らないほうのやつで、右のポケットに一つある。
封は切ってあった。切ってあるということは、あらかじめ振ってあるということになる。
入れたのは母だ。言われていない。
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これ、いつ入れたんですか、と訊こうとした。
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カイロは、電車のあいだじゅう握っていた。
四十分で、手のひらのほうは温かくなる。指の先までは来ない。
来ないのは、十月からずっとそうだった。
そうだと分かっていて、こちらは握り直している。
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一科目目は、六十分あった。
地理を選んでいる。大問が六つで、設問が三十六ある。
解き終わったのが、たぶん半分くらいのところだった。
残りで見直しをして、それでも余った。余ったぶん、音を聞いていた。
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教室の音は、四種類ある。
鉛筆が紙をこする音。消しゴムを使う音。紙をめくる音。咳。
鉛筆の音は、四十八人ぶんが重なると、雨に近い。強くなったり弱くなったりする。
弱くなるのは、みんなが同じところで考えているときになる。
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咳は、一科目目で十一回あった。
同じ人が三回している。右の後ろのほうだ。振り返っていない。
振り返らなくても、どのあたりかは分かる。音の来る向きで分かる。
九年、家でそれをやってきたからだと思う。
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昼は、教室で食べた。
弁当は小さいほうの箱だった。中身は、玉子焼きと、鮭と、人参の煮たものになる。
人参は花の形に切ってある。十二月から、ずっとその形だ。
全部食べた。味の位置は、その日も出てこない。
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国語は、八十分ある。
大問が四つで、評論、小説、古文、漢文になる。
評論を読んでいるあいだに、同じ段落を三回読んだ。
三回とも、意味が入ってこない。文字は読めている。
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入ってこないので、線を引きながら読んだ。
線を引くと、目が先へ進む。進むが、内容は残らない。
残らないまま設問へ行って、選択肢のほうを先に読んだ。
選択肢から本文へ戻るやり方で、四十分かかっている。
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マークが薄いことに、外国語のときに気づいた。
塗ったところが、光の角度で消えて見える。
冷たい手だと、力が入らない。九年やってきた塗り方が出ない。
二枚目の途中で、一枚目に戻って塗り直した。
答案はきちんと裏返して置くように、放送で二度言われている。
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塗り直したのは、二十六か所ある。
一か所につき、四秒か五秒かかった。全部で二分ほどになる。
その二分を、こちらはあとで何度も数え直している。
数え直しても、時間は戻らない。戻らないのに、数えていた。
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外国語には、聞き取りが三十分ついている。
機械が一人に一つ配られて、耳につけるものが袋に入っていた。
袋を開ける音が、四十八人ぶんで一斉に鳴る。あの音は、二日間で一度だけになる。
問題は二十五問あった。読まれるのが二回のものと、一回だけのものがある。
一回だけのものが十四問で、そこで二つ落としたのが、あとで分かった。
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一日目が終わって、外へ出た。
人が同じ方向へ歩いていく。駅までの道が、行きより混んでいた。
電車では座れなかった。立って、窓のほうを見ている。
窓に映っているものを、僕は見ていない。目は開いていた。
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家に帰ると、母が玄関にいた。
朝と同じ場所に立っている。おかえり、と言った。
どうだった、とは訊かない。九年間、その訊き方を一度も聞いていない。
訊かれないので、こちらも何も言わなかった。
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その夜の夕飯は、いつもと同じだった。
験をかつぐものは出ていない。皿の数も四つになる。
母は、二日目の持ち物のことだけを言った。受験票を出したかどうかを訊く。
出した、と答えている。それで話は終わった。
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世間では、こういう日に親が何か言うものらしい。
落ち着いてとか、いつもどおりでいいとか、普通はそのあたりになる。
母は言わない。かわりに、次の日のカイロがもう封を切ってあった。
切ってあるのを、朝ではなく前の夜に見つけている。
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二日とも、母は玄関に立っていた。
行ってらっしゃい、を二回言う。四月からの言い方と同じだった。
しっかりね、とは言わない。がんばりなさい、とも言っていない。
言わないのが当たり前になっていて、こちらもそれを待っていなかった。
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二日目の朝、口の中に苦いものが上がってきた。
歯を磨くときではない。制服に着替えているときになる。
飲み込んで、水を飲んだ。もう一度上がってきて、二度目も飲み込んだ。
出てはいない。出ていないので、家の誰にも分からない。
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二日目は、理科と数学がある。
物理と化学で百三十分。数学が六十分ずつで二科目になる。
合わせて二百五十分だ。前の日より長い。
長いのに、その日のほうが短く感じた。感じ方の理由は出せない。
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数学の一科目目で、時間の感覚が崩れた。
大問の二つ目を解いているときに、始まってからどのくらいたったのかが分からなくなる。
机の上に時計はある。見ればいい。見れば済む。
済むのに、手が伸びない。伸びないのは、一年前からずっと同じだった。
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かわりに、放送の残り時間の合図を待った。
合図は、終わりの十分前に一度ある。あれが来るまでは、まだあると考える。
考えているあいだ、手は止まっていない。書いている。
書いているのに、どこを書いているかが少し遅れて分かる。
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合図が来たとき、こちらは大問の三つ目にいた。
四つ目が丸ごと残っている。残っているのは分かる。
残りの十分で、四つ目を全部やった。やったというより、埋めた。
埋めた、というのが正しい。空欄が一つも無い状態にした。
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九年間、空欄を作らないでやってきた。
空けたのは去年の七月からの何回かだけになる。あれは意図して空けた。
その日は、意図していない。手が勝手に埋めている。
勝手に、というのがどこまで本当なのかは、いまも決めていない。
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最後の科目が終わったとき、放送が鳴った。
鉛筆を置いてください、という声だった。
四十八人ぶんの鉛筆が、机に触れる音がする。ばらばらに鳴って、すぐ止まった。
止まったあとの教室は、二日間でいちばん音が無い。
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解答用紙が回収された。
前から後ろへ、番号順に集める。こちらの紙も、束の中に入っていく。
束になると、どれが誰のものか分からない。厚みだけが増えていった。
その厚みを、僕はしばらく見ていた。
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教室を出るまでのことは覚えている。
鞄に、時計と、鉛筆五本と、消しゴム二つを入れた。数を確かめている。
朝と同じ数だった。減っても増えてもいない。
カイロは、右のポケットに入ったままになる。冷たくなっていた。
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自己採点は、四日後に学校でやった。
一月十九日で、教室に三十九人が集まる。正解の冊子が配られた。
自分で丸をつけて、点を出して、紙に書いて出す。
書く欄が九つあった。九教科ぶんになる。
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合計は、九百点のうち五百四十一点だった。
六十・一パーセントになる。前の年の平均が六十一・二だと聞いている。
平均を一・一だけ下回っている。数として見ると、それだけの話になる。
第一志望に要るのは、七十五パーセント以上だった。
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五百四十一点を、恥ずかしいとは思わなかった。
思わなかったのは、たぶん比べる相手を作っていなかったからになる。
だらしないやり方で取った点ではない。ちゃんと二日間、全部の科目に出ている。
ちゃんと出て、この数になった。そこが、いちばん動かせない。
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差は、百三十四点ある。
百三十四点というのは、埋めた大問の四つ目より、ずっと大きい。
大きいので、あの十分のせいにできない。
できないのに、こちらはその十分のことを、いまでも何度か数え直している。
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世間では、この二日で決まると言われている。普通は、そこから先を組み直すらしい。
組み直す形を、こちらは持っていなかった。
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自己採点の紙を、家では出していない。
母は数を訊かない。訊かないでいる形が、九月からずっと続いていた。
父も訊かない。千尋は、終わったの、とだけ訊いた。
終わった、と答えている。それで済んだ。
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母は一度も、点を訊かなかった。
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二日目のカイロは、机の引き出しに入れた。
冷たくなったやつを、捨てないで入れている。捨てる理由が見つからない。
いま実家の引き出しにあるかどうかは、確かめていない。
確かめていないものが、あの家にはたくさんある。
カイロを入れた朝のことを、母はそのあとも一度も言わなかった。
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終わった日の帰り道を、僕は覚えていない。




