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自慢の息子  作者: 智珠
第五部 沈黙

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第087話 消えたい

 十二月一日に、廊下の掲示が替わった。


 センターまで、と書いてあって、その下に数がある。四十四だった。


 紙は毎朝、係の人が替える。前の日の紙をはがして、新しいのを貼る。


 四十四から始まって、一日ずつ減っていく。


            *


 その数を、僕は毎朝見た。見るのが当たり前になっていて、見ない日が一日も無い。


 見て、割り算をする。残りの問題数を日数で割るやり方になる。


 十二月一日の朝、残りの問題集は千八百四十問あった。


 四十四で割ると、一日あたり四十一・八になる。


            *


 四十一・八という数は、前の年なら出せた数だ。


 九月なら六十まで出せている。夏は八十をやった日がある。


 四十一・八が出せない。出せないのに、割り算だけは合っている。


 合っている数を、こちらは毎朝出しつづけた。


            *


 十二月の一週目に、実際にやった数を数えた。


 月曜が二十二問。火曜が十九問。水曜が二十四問になる。


 木曜が十一問で、金曜が九問だ。土曜が四問で、日曜が零になる。


 一週間で八十九問だった。予定は二百九十三問になる。


            *


 差は二百四問ある。


 その差を、次の週に足すと二百九十三に二百四が乗る。


 乗ったものを、また日数で割る。割ると、一日あたり七十一になった。


 七十一は、去年ならできた数だ。今年はできない。


 できない数が、毎週大きくなっていく。


 できないのを、だらしないとは思わなかった。


 だらしないなら、量を増やせばいい。増やせば追いつく。


 ちゃんとやれば済む話だと、九年ずっとそう扱ってきた。


 済まなくなったのがいつからかは、やはり出せない。


            *


 掃除は、木曜と金曜の週二回ある。


 僕の当番は黒板だった。三年の一学期からずっと同じになる。


 黒板消しで消すと、白い跡が残る。角度によって見える。


 水拭きをすると消えるが、乾くまでに十分ほどかかった。


 しっかり拭かないと、乾いたときに筋が出る。


            *


 跡は、消し方によって形が変わる。


 横に動かすと横の筋になる。円を描くと渦になった。


 完全に消えるのは、水拭きのあとに乾かしたときだけになる。


 乾いた黒板は、書く前と同じ色をしている。同じなのに、こちらは前に何が書いてあったかを言える。


            *


 十二月の第二週に、予備校の座席表が替わった。


 三か月に一度、新しいのが壁に貼られる。名前と番号が並んでいるだけの紙になる。


 前の表にいて、新しい表にいない人が二人いた。


 二人とも、九月からの講座で前のほうに座っていた人だ。


            *


 名前を、僕は覚えている。


 覚えているのは、九月からずっと同じ場所で見ていたからになる。


 いなくなった理由は、誰も言わない。訊いている人もいなかった。


 紙が一枚新しくなって、それで終わっている。


            *


 新しい表には、抜けたところが無い。


 番号を詰めて、全体が一つ前へ寄っている。空欄が残らない形になる。


 きちんと詰めてあった。ずれた番号が一つも無い。


 寄せるのは、たぶん事務の人の手作業だと思う。


 その手作業のことを、こちらはしばらく考えていた。


            *


 誰も困っていない。


 講座は同じ時間に始まって、同じ回数で終わる。人数だけが二つ減った。


 減ったことを、講師も言わない。名前を呼ぶ場面が無いからになる。


 名前を呼ばれない場所では、いなくなっても紙が一枚済むだけになる。


            *


 食べ物の味が、その月から薄くなった。


 薄いというより、位置が分からない。甘いのと塩気の区別はつく。


 つくのに、口の中のどこで感じているのかが出てこない。


 母の味付けは変わっていないはずだ。ほかの三人は同じものを食べている。


            *


 夜、歯を磨くと、奥のほうで喉が動いた。


 毎回ではない。十二月で九回ある。数えたのは、数えられたからになる。


 九回のうち、実際に出たのは二回だった。二回とも水だけだ。


 流して、口をゆすいで、そのまま部屋へ戻っている。


            *


 出たことを、家では言っていない。


 洗面所の音は、台所まで届く。届いても、その日は誰も来なかった。


 来なかったのか、来られない時間だったのかは分からない。


 分からないので、こちらはどちらとも決めていない。


            *


 一日の長さが、その月からそろわなくなった。


 朝から昼までが、ひどく長い日がある。長い日は、昼で一日ぶん使った感じになる。


 そのかわり、夕方から夜までが飛ぶ。飛ぶというのは、間が思い出せないという意味だ。


 思い出せないのに、やった量は残っている。ノートに字が書いてある。


            *


 書いた字は、こちらの字だった。


 書いた覚えが無いだけで、形は自分のものになる。細い字だ。


 どこで書いたのかも出てこない。机か、電車か、教室のどれかだと思う。


 思うだけで、決められない。決められないものが、その月でまた増えた。


            *


 曜日が、たまに分からなくなる。


 分からなくなると、時間割で確かめる。時間割は鞄に入っている。


 九年間、曜日を間違えたことが一度も無い。


 無いのに、確かめる回数が十二月で十四回になった。


            *


 布団に入ってからのことを、ここに書く。


 世間では、こういうのは睡眠の問題だと言うらしい。普通は、寝れば戻ると書いてある。


 仰向けになると、背中が沈む。沈む速さが、日によって違う。


 沈みきると、手と足の位置が分からなくなった。


 あるのは分かる。どこにあるかが出せない。


            *


 自分の身体がどこで終わっているのかを、僕はそのころ何度か見失っている。


 指を動かせば分かる。動かせば済む話だ。


 済むのに、動かさない。動かさないでいると、輪郭が布団のほうへ広がっていく。


 広がるというのは、たぶん正しい言い方ではない。ほかの言い方を持っていなかった。


            *


 そのとき、数を数えようとした。


 九年間、数だけは出た。訊かれれば出るし、訊かれなくても出る。


 その夜は、七まで出て、八が出てこなかった。


 八が出ないというのは、順番が飛んだのではない。次が来ない。


            *


 来ないまま、しばらくそこにいた。


 しばらく、というのが何を指すのかは書けない。時計を見ていない。


 見ていないので、朝までなのか、五分なのかが決まらなかった。


 決まらないものを、こちらはその冬にいくつも積んでいる。


            *


 思ったのは、黒板の跡のことだった。


 水拭きをして、乾かせば、書く前と同じ色になる。


 同じ色になった黒板を、誰も見に来ない。前に何が書いてあったかを、誰も訊かない。


 訊かれないので、書いてあったことは無かったことになる。


            *


 座席表のことも思った。


 番号を詰めれば、空欄は残らない。残らないので、誰も困らない。


 困らないのがいい、と思っている自分がいた。


 いる、と書いたが、そのときは自分だとも思っていない。


            *


 母は、その月も毎朝玄関に立っていた。


 立って、行ってらっしゃいと言う。四月からずっと同じになる。


 言い方も同じだ。同じなのを、こちらは毎朝確かめている。


 確かめるのが癖になっていることに、そのころは気づいていなかった。


            *


 十二月十九日の夜中に、台所の電気がついていた。


 部屋を出たときに、廊下の先が明るい。下りていくと、母がいた。


 母は流しの前に立っていた。翌日の弁当の下ごしらえをしている。


 人参を切っていて、まな板の音が一定の間隔で鳴っていた。


            *


 母は、こちらを見て驚かなかった。


 手を止めて、麦茶飲む、と言った。それだけになる。


 冷蔵庫からポットを出して、コップを二つ並べる。


 二つとも、ふだん朝に使っているコップだった。


            *


 二人で飲んだ。


 母は、椅子に座らずに流しにもたれて飲んでいる。こちらは椅子に座った。


 麦茶は冷たい。冷たいものが、喉のところを通っていくのが分かる。


 通っていく道筋が分かったのは、その冬でその一回だけになる。


            *


 何か言おうとした。


 言おうとしたことが何だったのかを、僕はいまも出せない。


 口を開ける前に、母が言った。


            *


 「明日、雨だって」


            *


 はい、と答えている。


 そのあと、母はコップを洗って、伏せて、人参の続きを切った。


 こちらは、しばらく座っていた。座っている長さも出せない。


 部屋へ戻るときに、母は顔を上げなかった。


            *


 その夜のことを、母はあとで一度も出さなかった。


 次の朝も、その次の朝も、いつもと同じだった。


 弁当には、切った人参が入っている。形が花になっていた。


 花の形にするのは、その冬から始まったものになる。


 立派なことではない。人参の形が変わっただけになる。


 変わったのに、こちらは礼を言う場面をやはり作れなかった。


            *


 早く寝なさい、と言われたことは九年間で一度も無い。


 言われないので、遅いかどうかを判断する形を持っていなかった。


            *


 母は一度も、どうしたのと訊かなかった。


            *


 世間では、こういうときに親が気づくものらしい。


 顔色でも、食べる量でも、普通は何かで分かると書いてある。


 母は、たぶん気づいていた。気づいて、弁当の人参の形を変えた。


 言葉のほうへは来ない。九年、一度も来ていない。


            *


 千尋も気づいていない。


 宮内も、担任も、予備校の講師も気づいていない。


 こちらの側で、気づかせる形を一つも作らなかったからになる。


 作り方を知らなかった、と書くほうが正しいかもしれない。


            *


 冬休みに入ってからは、家にいる時間が増えた。


 十二月二十四日から一月三日までで、外へ出たのは四日ある。


 四日とも予備校で、あとの七日は机の前にいた。


 いた、と書いたが、進んだ量は七日で八十六問になる。


            *


 八十六という数は、九月の一日ぶんより少ない。


 九月は、一日で九十をやった日がある。それが七日ぶんになった。


 この計算だけは、いまでもすぐ出る。


 出るものが、いちばん要らないものだった。


 八十六という数を、恥ずかしいとは思っていない。


 思っていないのに、その数だけは誰にも言わなかった。


            *


 十二月にやった問題の数を、月末に足した。


 一週目が八十九、二週目が七十四、三週目が六十一、四週目が四十八になる。


 合計で二百七十二問だ。十二月ぶんの予定は千二百九十六問になる。


 届いた割合は、二十一・〇パーセントになった。


 この割合を、こちらは三回計算し直している。三回とも同じ数が出た。


            *


 部屋の窓は、その冬も開けていない。


 母が去年の夏に掛けたすだれが、まだ上に巻いてある。


 巻いた紐がほどけかけていて、端が下がっていた。


 直そうと思って、直していない。冬に使うものではないからになる。


            *


 消えるという語を、僕はそのころ黒板のほうで使っていた。


 自分に向けて使ったのは、たぶん十二月の終わりになる。


 たぶん、というのは、日が特定できないからだ。


 特定できないものは、こちらの中で起きなかったことに近い。


 近いだけで、起きている。


            *


 死にたい、とは思っていない。消えたい、のほうだった。

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