第087話 消えたい
十二月一日に、廊下の掲示が替わった。
センターまで、と書いてあって、その下に数がある。四十四だった。
紙は毎朝、係の人が替える。前の日の紙をはがして、新しいのを貼る。
四十四から始まって、一日ずつ減っていく。
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その数を、僕は毎朝見た。見るのが当たり前になっていて、見ない日が一日も無い。
見て、割り算をする。残りの問題数を日数で割るやり方になる。
十二月一日の朝、残りの問題集は千八百四十問あった。
四十四で割ると、一日あたり四十一・八になる。
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四十一・八という数は、前の年なら出せた数だ。
九月なら六十まで出せている。夏は八十をやった日がある。
四十一・八が出せない。出せないのに、割り算だけは合っている。
合っている数を、こちらは毎朝出しつづけた。
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十二月の一週目に、実際にやった数を数えた。
月曜が二十二問。火曜が十九問。水曜が二十四問になる。
木曜が十一問で、金曜が九問だ。土曜が四問で、日曜が零になる。
一週間で八十九問だった。予定は二百九十三問になる。
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差は二百四問ある。
その差を、次の週に足すと二百九十三に二百四が乗る。
乗ったものを、また日数で割る。割ると、一日あたり七十一になった。
七十一は、去年ならできた数だ。今年はできない。
できない数が、毎週大きくなっていく。
できないのを、だらしないとは思わなかった。
だらしないなら、量を増やせばいい。増やせば追いつく。
ちゃんとやれば済む話だと、九年ずっとそう扱ってきた。
済まなくなったのがいつからかは、やはり出せない。
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掃除は、木曜と金曜の週二回ある。
僕の当番は黒板だった。三年の一学期からずっと同じになる。
黒板消しで消すと、白い跡が残る。角度によって見える。
水拭きをすると消えるが、乾くまでに十分ほどかかった。
しっかり拭かないと、乾いたときに筋が出る。
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跡は、消し方によって形が変わる。
横に動かすと横の筋になる。円を描くと渦になった。
完全に消えるのは、水拭きのあとに乾かしたときだけになる。
乾いた黒板は、書く前と同じ色をしている。同じなのに、こちらは前に何が書いてあったかを言える。
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十二月の第二週に、予備校の座席表が替わった。
三か月に一度、新しいのが壁に貼られる。名前と番号が並んでいるだけの紙になる。
前の表にいて、新しい表にいない人が二人いた。
二人とも、九月からの講座で前のほうに座っていた人だ。
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名前を、僕は覚えている。
覚えているのは、九月からずっと同じ場所で見ていたからになる。
いなくなった理由は、誰も言わない。訊いている人もいなかった。
紙が一枚新しくなって、それで終わっている。
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新しい表には、抜けたところが無い。
番号を詰めて、全体が一つ前へ寄っている。空欄が残らない形になる。
きちんと詰めてあった。ずれた番号が一つも無い。
寄せるのは、たぶん事務の人の手作業だと思う。
その手作業のことを、こちらはしばらく考えていた。
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誰も困っていない。
講座は同じ時間に始まって、同じ回数で終わる。人数だけが二つ減った。
減ったことを、講師も言わない。名前を呼ぶ場面が無いからになる。
名前を呼ばれない場所では、いなくなっても紙が一枚済むだけになる。
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食べ物の味が、その月から薄くなった。
薄いというより、位置が分からない。甘いのと塩気の区別はつく。
つくのに、口の中のどこで感じているのかが出てこない。
母の味付けは変わっていないはずだ。ほかの三人は同じものを食べている。
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夜、歯を磨くと、奥のほうで喉が動いた。
毎回ではない。十二月で九回ある。数えたのは、数えられたからになる。
九回のうち、実際に出たのは二回だった。二回とも水だけだ。
流して、口をゆすいで、そのまま部屋へ戻っている。
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出たことを、家では言っていない。
洗面所の音は、台所まで届く。届いても、その日は誰も来なかった。
来なかったのか、来られない時間だったのかは分からない。
分からないので、こちらはどちらとも決めていない。
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一日の長さが、その月からそろわなくなった。
朝から昼までが、ひどく長い日がある。長い日は、昼で一日ぶん使った感じになる。
そのかわり、夕方から夜までが飛ぶ。飛ぶというのは、間が思い出せないという意味だ。
思い出せないのに、やった量は残っている。ノートに字が書いてある。
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書いた字は、こちらの字だった。
書いた覚えが無いだけで、形は自分のものになる。細い字だ。
どこで書いたのかも出てこない。机か、電車か、教室のどれかだと思う。
思うだけで、決められない。決められないものが、その月でまた増えた。
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曜日が、たまに分からなくなる。
分からなくなると、時間割で確かめる。時間割は鞄に入っている。
九年間、曜日を間違えたことが一度も無い。
無いのに、確かめる回数が十二月で十四回になった。
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布団に入ってからのことを、ここに書く。
世間では、こういうのは睡眠の問題だと言うらしい。普通は、寝れば戻ると書いてある。
仰向けになると、背中が沈む。沈む速さが、日によって違う。
沈みきると、手と足の位置が分からなくなった。
あるのは分かる。どこにあるかが出せない。
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自分の身体がどこで終わっているのかを、僕はそのころ何度か見失っている。
指を動かせば分かる。動かせば済む話だ。
済むのに、動かさない。動かさないでいると、輪郭が布団のほうへ広がっていく。
広がるというのは、たぶん正しい言い方ではない。ほかの言い方を持っていなかった。
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そのとき、数を数えようとした。
九年間、数だけは出た。訊かれれば出るし、訊かれなくても出る。
その夜は、七まで出て、八が出てこなかった。
八が出ないというのは、順番が飛んだのではない。次が来ない。
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来ないまま、しばらくそこにいた。
しばらく、というのが何を指すのかは書けない。時計を見ていない。
見ていないので、朝までなのか、五分なのかが決まらなかった。
決まらないものを、こちらはその冬にいくつも積んでいる。
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思ったのは、黒板の跡のことだった。
水拭きをして、乾かせば、書く前と同じ色になる。
同じ色になった黒板を、誰も見に来ない。前に何が書いてあったかを、誰も訊かない。
訊かれないので、書いてあったことは無かったことになる。
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座席表のことも思った。
番号を詰めれば、空欄は残らない。残らないので、誰も困らない。
困らないのがいい、と思っている自分がいた。
いる、と書いたが、そのときは自分だとも思っていない。
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母は、その月も毎朝玄関に立っていた。
立って、行ってらっしゃいと言う。四月からずっと同じになる。
言い方も同じだ。同じなのを、こちらは毎朝確かめている。
確かめるのが癖になっていることに、そのころは気づいていなかった。
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十二月十九日の夜中に、台所の電気がついていた。
部屋を出たときに、廊下の先が明るい。下りていくと、母がいた。
母は流しの前に立っていた。翌日の弁当の下ごしらえをしている。
人参を切っていて、まな板の音が一定の間隔で鳴っていた。
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母は、こちらを見て驚かなかった。
手を止めて、麦茶飲む、と言った。それだけになる。
冷蔵庫からポットを出して、コップを二つ並べる。
二つとも、ふだん朝に使っているコップだった。
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二人で飲んだ。
母は、椅子に座らずに流しにもたれて飲んでいる。こちらは椅子に座った。
麦茶は冷たい。冷たいものが、喉のところを通っていくのが分かる。
通っていく道筋が分かったのは、その冬でその一回だけになる。
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何か言おうとした。
言おうとしたことが何だったのかを、僕はいまも出せない。
口を開ける前に、母が言った。
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「明日、雨だって」
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はい、と答えている。
そのあと、母はコップを洗って、伏せて、人参の続きを切った。
こちらは、しばらく座っていた。座っている長さも出せない。
部屋へ戻るときに、母は顔を上げなかった。
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その夜のことを、母はあとで一度も出さなかった。
次の朝も、その次の朝も、いつもと同じだった。
弁当には、切った人参が入っている。形が花になっていた。
花の形にするのは、その冬から始まったものになる。
立派なことではない。人参の形が変わっただけになる。
変わったのに、こちらは礼を言う場面をやはり作れなかった。
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早く寝なさい、と言われたことは九年間で一度も無い。
言われないので、遅いかどうかを判断する形を持っていなかった。
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母は一度も、どうしたのと訊かなかった。
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世間では、こういうときに親が気づくものらしい。
顔色でも、食べる量でも、普通は何かで分かると書いてある。
母は、たぶん気づいていた。気づいて、弁当の人参の形を変えた。
言葉のほうへは来ない。九年、一度も来ていない。
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千尋も気づいていない。
宮内も、担任も、予備校の講師も気づいていない。
こちらの側で、気づかせる形を一つも作らなかったからになる。
作り方を知らなかった、と書くほうが正しいかもしれない。
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冬休みに入ってからは、家にいる時間が増えた。
十二月二十四日から一月三日までで、外へ出たのは四日ある。
四日とも予備校で、あとの七日は机の前にいた。
いた、と書いたが、進んだ量は七日で八十六問になる。
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八十六という数は、九月の一日ぶんより少ない。
九月は、一日で九十をやった日がある。それが七日ぶんになった。
この計算だけは、いまでもすぐ出る。
出るものが、いちばん要らないものだった。
八十六という数を、恥ずかしいとは思っていない。
思っていないのに、その数だけは誰にも言わなかった。
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十二月にやった問題の数を、月末に足した。
一週目が八十九、二週目が七十四、三週目が六十一、四週目が四十八になる。
合計で二百七十二問だ。十二月ぶんの予定は千二百九十六問になる。
届いた割合は、二十一・〇パーセントになった。
この割合を、こちらは三回計算し直している。三回とも同じ数が出た。
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部屋の窓は、その冬も開けていない。
母が去年の夏に掛けたすだれが、まだ上に巻いてある。
巻いた紐がほどけかけていて、端が下がっていた。
直そうと思って、直していない。冬に使うものではないからになる。
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消えるという語を、僕はそのころ黒板のほうで使っていた。
自分に向けて使ったのは、たぶん十二月の終わりになる。
たぶん、というのは、日が特定できないからだ。
特定できないものは、こちらの中で起きなかったことに近い。
近いだけで、起きている。
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死にたい、とは思っていない。消えたい、のほうだった。




