第086話 手が冷たい
十月に入ってから、手が冷たくなった。
冷えるのは、いつも同じ順になる。指の先から始まって、手のひらへ来る。
手首まで来ると、そこで止まる。腕から先は冷えない。
順番が毎回同じなので、途中で何番目かが分かる。
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教室が寒いわけではない。
十月の教室は、暖房も冷房も入らない。窓を閉めれば、たいてい足りる。
まわりの人は上着を着ていない。半袖の人が、十月の終わりまでで四人いた。
教室の温度計は、朝で十八度から二十度のあいだにある。数えたのは十一日ぶんだ。
十一日とも、二十度を超えていない。超えていないのに、こちらだけが冷える。
同じ部屋で、こちらだけが冷たい。
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冷たいと、字が細くなる。
力の入り方が変わるからだと思う。芯の減り方でも分かる。
同じ本数のシャープペンシルの芯で、九月は十二日もった。十月は十六日になる。
書く量は減っていない。線が細くなっただけだ。
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持ち方も変わった。
前は、親指と人差し指と中指の三点で持っていた。
十月からは、人差し指の第二関節が余分に曲がる。曲げないと、落ちる。
落としたのは、その月に六回になる。全部、授業中だった。
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十月の終わりに、筆箱のシャープペンシルが替わっていた。
同じ会社のもので、グリップのところがゴムになっている。太さが違う。
前のは細かった。細いほうを九年使っている。
替えたのは母だ。言われていない。筆箱を開けたら入っていた。
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いつ替えたのかは、やはり分からない。
筆箱は、夜のあいだ机の上に出してある。触ろうと思えば触れる。
母が僕の指を見たのは、たぶん夕飯のときになる。
箸の持ち方が、そのころ少し変わっていた。
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母は、指のことを訊かなかった。
冷たいのとも、痛いのとも訊いていない。訊かずに、道具のほうを替えた。
替えたものは、ちゃんと合っている。太いほうが落ちない。
合っているのに、こちらは礼を言う場面をまた作れなかった。
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十月の模試は、二回あった。
九日と、二十三日になる。どちらも学校で受けた。
偏差値は四十四・一と、四十三・八だった。七月より下がっている。
判定は二回ともEになる。五月から数えて、四回続けてEになった。
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十一月の模試は、六日と二十日にあった。
偏差値が四十三・二と四十三・〇になる。十月から〇・八下がった。
これで、六回続けてEだ。
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紙は、封を切らずに押入れへ入れた。
封のままの封筒は、そのときで六通になる。
六通とも、家の同じ場所にある。母は上の段までは開けない。
開けないのを、こちらは確かめていない。確かめずにそう思っている。
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十月十六日に、千尋のコンクールがあった。
県の大会で、市民会館でやる。母と父が行った。
父が休みを取ったのは、その年で二回目になる。三月の外食と、その日だ。
僕は行かなかった。行かない理由を、家では言っていない。
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三人が出たあと、家に一人でいた。
出たのが午前で、帰ってきたのが夕方になる。あいだは四時間くらいだと思う。
その四時間に何をやったかを、僕は書けない。
問題集は開いてある。開いたページのところに、書き込みが一行も無い。
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覚えているのは、冷蔵庫の音だけになる。
あの音は、しばらく鳴って、それから止まる。止まると、部屋のほうが広く感じた。
止まっている時間を数えようとして、途中で分からなくなる。
数え直して、また分からなくなった。二度目でやめている。
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千尋の結果は、銀賞だった。
賞状を持って帰ってきて、母が写真を撮る。台所で撮った。
千尋は、賞状をそのあと自分の部屋の壁に貼った。
うちの壁に賞状が貼ってあるのは、それが初めてになる。
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十一月に入って、朝に起き上がれない日ができた。
目は覚めている。天井が見える。身体のほうだけが遅れる。
動かないというより、動かす順番が出てこない。どこから始めるのかが決まらない。
その日は、十一月で三日あった。
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動けない朝のことを、恥ずかしいとは思わなかった。
だらしないなら、直し方が決まる。早く寝ればいい。それで済む話になる。
済まないことのほうが、そのころは多かった。
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三日とも、遅刻はしていない。
二十分か三十分してから、動き出す。動き出せば、あとは普通に進んだ。
母は、その三日の朝に一度も部屋へ来ていない。
来ないかわりに、玄関の靴がきちんと並べ直してあった。
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三日目の夜に、母が病院の予約を取った。
取ってから、こちらに言った。土曜の午前で、駅の北口の内科になる。
予約が取ってあるのが、うちでは当たり前になる。取る前に相談する形が無い。
行くかどうかを訊かれてはいない。予約は取ってある。
こちらも、行かないとは言わなかった。
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立派な病院ではない。二階建てで、一階が内科、二階が耳鼻科になる。
病院には、母がついてきた。
待合の椅子で、二十五分待つ。母は雑誌を取らずに、正面を見ていた。
順番が来て、こちらだけが入る。母は外の椅子に残った。
残るときに、鞄を膝に置く形になる。九月の面談と同じ置き方だった。
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医者は、こちらの手を見た。
手の甲を上にして、それから裏返す。爪のところをしばらく見ている。
押すと白くなって、離すと戻る。戻るまでの速さを見ていた。
速さのことを、僕はそのとき初めて知った。指の色に速さがあると知らなかった。
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血を採った。
左の腕で、二本ぶんになる。針が入るところは見ていない。
見ないでいるのは怖いからではなく、見る形を持っていないからだと思う。
抜いたあとで、脱脂綿をしっかり押さえるように言われた。五分は押さえている。
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結果は、その日のうちに出た。
紙が一枚渡される。項目が二十四あって、数が二十四並んでいた。
基準の幅が、それぞれの右に印刷してある。
二十四のうち、幅から外れているものは零になる。
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二十四のうち、四つだけをここに書いておく。
白血球が五千六百で、幅は三千三百から八千六百になる。
ヘモグロビンが十四・二で、幅は十三・七から十六・八だ。
総蛋白が七・一で、幅は六・六から八・一になる。
血糖が八十九で、幅は七十三から百九になる。
四つとも、幅のまん中あたりに入っていた。まん中なのが、いちばん困った。
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異常なし、と紙の下に書いてあった。
医者は、疲れですね、と言った。それから、よく寝てください、と言う。
よく寝なさい、ではなかった。ここは、その言い方をされない場所になる。
薬は出なかった。次の予約も取っていない。
二十四の数を、僕はその場で全部覚えている。いまでも十七までは出る。
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どこも悪くないんですか、と訊こうとした。
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母は、紙を受け取って、はい、と言った。
九月の面談のときと、同じ高さの声になる。
異常なしのところを、二秒見た。見てから、鞄へ入れた。
鞄へ入れた紙が、そのあとどこへ行ったかは知らない。
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帰りに、母は薬局へ寄らなかった。
寄る用が無いからになる。かわりに、駅の店で肉まんを二つ買った。
一つずつ食べて、歩いた。歩きながら食べるのは、うちでは珍しい。
珍しいことを、母はその日だけやった。理由は言っていない。
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母は一度も、怠けているとは言わなかった。
九年間、そういう言い方を一度も聞いていない。
朝起きられなかった三日についても、あとから何も言われなかった。
言われないので、その三日は家の中で数に入らない。
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世間では、こういうときに親が心配するものらしい。
どうしたのとか、無理しなくていいとか、普通はそのあたりの言い方になる。
母は言わない。かわりに、予約を取って、靴を並べる。
言葉のかわりに手続きが来る。九年、ずっとその形だった。
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十一月の夜は、眠るまでが長くなった。
布団に入ってから、身体が温まるまでにかかる。足の先が特に遅い。
遅い、と書いたが、比べる数を持っていない。前は測っていなかった。
測っていなかったので、どのくらい変わったのかを出せない。
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夜中に目が覚める回数が、その月から増えた。
一晩に二回か三回になる。前は零だった。
覚めたあと、また眠るまでの長さは出せない。時計を見ないからだ。
見ないでいるのは、一月からずっと続いている。十一か月になる。
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耳鳴りは、その月から続いている。
高い音で、右のほうが強い。夜の静かなときに出る。
昼のあいだも鳴っているのかどうかは分からない。ほかの音が上に乗っている。
乗っているだけなのか、消えているのかを、こちらは区別できなかった。
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医者の紙に、耳のことは書いていない。
訊かれなかったので、言わずに済ませた。訊かれないものは出さない。
この形を、僕は九年かけて身につけている。
身につけたものが、そこでも同じように働いた。
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手袋は、買っていない。
外はまだ、それほど寒くない。冷たいのは家の中でも同じになる。
外と中で同じなら、外のせいではないと分かる。分かっても、やることが出てこない。
やることが出てこないものを、こちらはそのまま置いた。
置いたものが、その秋で四つ目になる。
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冷たいのは指先からで、そこは毎日同じだった。




