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自慢の息子  作者: 智珠
第五部 沈黙

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第085話 三度目の用紙

 三者面談は、九月十二日から十六日までだった。


 八組は三十九人いる。五日で割ると、一日に八人ずつになる。


 一人あたり二十分で、六時間目のあとから始まる。


 僕は十四日の四番目だった。四番目というのは、待ち時間が長いほうになる。


            *


 四番目なので、廊下で三十分ほど待った。


 椅子が二つ並べてある。母が左で、こちらが右になる。


 前の組の声が、扉の隙間から少し漏れた。中身までは聞こえない。


 聞こえるのは、担任の声の高さと、笑い声が二回入ったことだけになる。


 うちの二十分に、笑い声は一度も入らなかった。


            *


 母は、九年ぶりに紺のスーツを着てきた。


 九年ぶりというのは、写真で確かめた数だ。


 最後に着たのは、僕の中学の入学式になる。そのときに買ったものだと思う。


 思うだけで、訊いてはいない。


            *


 スーツは、裾の丈が少し短くなっていた。


 短くなるはずがないので、たぶん母のほうが変わっている。


 肩のところが、前より合っていない。生地に、たたんだ折り目が一本残っていた。


 その一本を、僕は昇降口で見ている。見て、何も言わなかった。


            *


 母の靴は、黒いパンプスだった。


 これも同じものになる。かかとの内側の革が、片方だけ剥げている。


 廊下を歩くと、右のほうがわずかに高く鳴った。


 その音で、こちらは後ろを振り返らなくても、どこにいるか分かる。


            *


 面談室は、三階の小さい部屋だった。


 机が一つあって、担任が向こう側に座る。こちらと母が並んで手前に座った。


 立派な部屋ではない。机と椅子のほかに、棚が一つあるだけになる。


 母は、鞄を膝の上に置いた。置いてから、両手を鞄の上で重ねる。


 その形のまま、二十分ほとんど動かなかった。ちゃんと座っている。


            *


 膝の上の鞄は、黒い革のものだった。


 角のところが白くなっている。これも中学の入学式から使っている。


 母の手は、その鞄の上できちんと重ねてあった。


 右の親指の爪だけが、短く切ってある。台所で欠けたのだと思う。


            *


 担任は、紙を三枚出した。


 一学期の成績が一枚。模試の結果が二枚になる。


 模試は五月と七月の二回で、どちらも封を切っていないほうが家にある。


 学校には控えがある。控えのほうが先に開いていた。


            *


 担任は、数をきちんと読み上げた。


 一学期の順位が三〇一で、学年は三一八人いる。


 五月の模試の偏差値が四十五・二で、七月が四十四・六になる。


 第一志望の判定は、二回ともEだった。


            *


 Eというのは、いちばん下の記号になる。


 合格の見込みが二十パーセントに満たない場合につく。紙の隅に、小さくそう書いてある。


 その説明を、担任は読まなかった。読まなくても分かるからだと思う。


 母のほうが分かっていたかどうかは、こちらには出せない。


 Eという記号を、そのとき恥ずかしいとは思わなかった。


 思わなかったことのほうを、いま書いておく。


            *


 母は、はい、と三回言った。


 一回目は成績の紙のところ、二回目が模試のところになる。


 三回目は、担任が顔を上げたときだった。


 三回とも、同じ高さの声だった。高さが同じなのを、こちらは数えている。


            *


 中学の面談では、母が答えていた。


 佐久間先生が三度訊いて、二度は母が答えている。あのときは、母のほうが先に出た。


 今度は出ない。担任が数を読んでいるあいだ、母は一度も口をはさまなかった。


 はさまないでいることを、そのときは分かっていない。


            *


 担任が、母のほうを見た。


            *


 「お母さんは、どうお考えですか」


            *


 「本人に任せています」


            *


 母の声は、はい、のときと同じ高さだった。


 嘘ではない。母は嘘をつく人ではない。


 その日、母はそう思って言っている。思っているとおりに言うのが、この人のやり方になる。


            *


 いつからですか、と訊こうとした。


            *


 窓のところに、丸い時計が掛かっていた。


 秒針の音が、部屋の中でいちばん大きい。誰も喋っていない時間があったからになる。


 その時間が何秒あったのかは出せない。数えようとして、数字が出てこなかった。


 出てこないのに、音のほうははっきり残っている。


            *


 膝の裏が、椅子の縁に当たっていた。


 当たっているところだけが熱い。ほかは冷たかった。


 手のひらに、汗が出ている。制服のズボンで拭いて、また出た。


 三回拭いた。三回目に、母がこちらを見ていないことを確かめている。


            *


 担任が、用紙を一枚出した。


 志望校を書く欄が三つある。四月のものと同じ形式になる。


 もう一つ下も書いておきましょう、と担任は言った。


 言い方は柔らかい。柔らかいので、断る形が作れなかった。


            *


 僕は、その場で書いた。


 第一志望は変えていない。第二と第三を、下へ動かした。


 書くのに二分かからない。四月のときと同じ速さになる。


 速く書けるのは、選ぶ手順が身についているからだ。


            *


 書いた三つのうち、名前を口に出したことがあるのは一つも無い。


 どれも紙の上でしか見ていない。行ったことも、写真を見たこともなかった。


 どういうところなのかを、担任は説明しない。訊けば説明したと思う。


 訊かなかったのは、訊いたあとで理由を言わされるからになる。


            *


 三度目になる。


 一度目が一年の十二月で、二度目が三年の四月だった。


 三度とも、下を選んでいる。上へ動かしたことが一度も無い。


 動かし方を、こちらは片側しか知らなかった。


            *


 母は、その用紙を見ていない。


 書いているあいだ、視線は机の木目のほうにあった。


 見せなさいとも、何を書いたのとも言わない。


 担任が受け取って、そのまま挟んだ。挟む音が一回した。


            *


 面談は、二十分より少し短かった。


 最後に、担任が体調のことを言う。夏の疲れが出る時期です、という言い方になる。


 母は、ありがとうございます、と言った。四回目の声になる。


 言うときに、しっかり頭を下げた。下げる角度が、正月に伯母へ挨拶するときと同じだった。


 立ち上がるときに、鞄が膝から落ちかけて、母は片手で押さえた。


            *


 帰りは歩いた。


 学校から家まで、バスなら十二分になる。歩くと二十二分かかる。


 母は、バス停の前をそのまま通り過ぎた。理由は言わない。


 こちらも、乗りませんかとは言っていない。


            *


 二十二分のあいだ、母は成績の話をしなかった。


 した話は、二つある。千尋の吹奏楽のコンクールが十月にあること。


 もう一つが、夕飯を何にするかだった。魚と肉のどちらがいいかを訊かれた。


 魚と答えている。答えたのが自分の声だと、少し遅れて分かった。


            *


 世間では、こういう帰り道で親が何か言うものらしい。


 もっと頑張れとか、大丈夫なのとか、普通はそのあたりになる。


 母は言わない。九年間、点のことで何か言われたことが一度も無い。


 言われないのが、うちでは当たり前になっていた。


            *


 その夜の夕飯は、鮭だった。


 ほかに味噌汁と、ほうれん草と、切り干し大根が出る。皿の数は四つになる。


 四つというのは、いつもと同じ数だ。増えても減ってもいない。


 母は、いつもと同じ順で運んできた。運ぶ順まで同じだった。


            *


 千尋が、面談どうだったのと訊いた。


 母は、ふつうよ、と答えた。それで話は千尋のほうへ移る。


 移し方が、正月に伯母と話すときと同じだった。


 同じやり方を、こちらはこの家で何十回も見ている。数えたことは無い。


            *


 父は、その日も遅かった。


 面談があったことを、父は知っていたと思う。母が電話で言ったはずだ。


 帰ってから訊かれてはいない。次の日も、そのあとも訊かれなかった。


 訊かれないので、家の中で面談は起きなかったことになる。


 Eのついた紙を出さないままにしておくのは、だらしないやり方になる。


 だらしないと言われたことは無い。学校の控えがあるので、出す必要がそもそも無かった。


            *


 紺のスーツは、次の日には掛かっていた。


 廊下の、母の部屋の入口のところにハンガーで下がっている。


 カバーが掛けてあった。中学の入学式のときも、同じカバーだったと思う。


 三日ほどそこにあって、そのあと見えなくなった。


 しまうところを、僕は見ていない。


            *


 九月から十二月まで、母はあの日の数を一度も出さなかった。


 三〇一も、四十四・六も、Eも、家の中では一度も出なかった。


 出さないでいられるのは、忘れたからではない。母は数を覚えている人だ。


 覚えていて、出さない。そのやり方を、この人は九年かけて身につけている。


            *


 母は一度も、嘘をつかなかった。


            *


 本人に任せています、というのも嘘ではない。


 九年のあいだに、母が本人に任せた場面を、僕はいくつか挙げられる。


 どの色の鉛筆にするか。どちらの塾のかばんを使うか。何時に寝るか。


 挙げてみると、三つとも小さい。小ささのことを、そのときは考えていない。


            *


 三度目も、下から選んだ。

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