第084話 二つに戻る
八月一日の朝、台所の机に弁当が二つ置いてあった。
一つは、いつもの小さい箱になる。もう一つが、細長い一段のほうだった。
細長いほうは、中学のときから使っている。
最後に使ったのは、二年の九月になる。十一か月あいていた。
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その箱が、どこにしまってあったのかを僕は知らない。
押入れの上の段だと思う。菓子の缶が並んでいるあたりになる。
思うだけで、確かめていない。開けたことが一度も無い。
いつ出したのかも分からない。前の夜か、その日の朝かのどちらかになる。
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いつ出したんですか、と訊こうとした。
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八月から、講習が朝と夜の二本になった。
午前が九十分で二講座、夕方から夜にかけて二講座ある。あいだが四時間近くあく。
あいだに家へ帰ると、往復で九十分かかる。帰らない日のほうが多くなった。
七月は帰っていた。八月は、二十六日のうち二十一日を外にいる。
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外にいる日は、昼と夜の二回食べることになる。
そのために、箱が二つ要る。要ることを、僕は母に言っていない。
言っていないのに、八月一日から二つ出ている。
普通は、要るかどうかを先に訊かれると思う。訊かれた覚えが無い。
二つ出ているのが、八月には当たり前になっていた。
どこで分かったのかを、こちらは説明できない。
講習の日程表は、台所の壁に貼ってあった。貼ったのは僕になる。
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貼ったのは七月の十九日で、そのあと一度も見ていなかった。
母は、あれを読んだのだと思う。読んだとは言っていない。
この家では、紙に書いてあるものが読まれる。読まれたことは言われない。
言われないので、こちらは毎回あとから気づく。
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夏の弁当には、手が入っている。
ご飯のまん中に梅干しが一つ。おかずの汁気は、前の日の夜にすっかり切ってある。
仕切りの紙が二枚。緑のやつではなく、白いほうを使っていた。
包みの中に、凍らせた保冷剤が一つ入っている。しっかり凍らせてある。
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保冷剤は、昼までに半分溶ける。
鞄の中で、袋の内側に当たる音がした。歩くたびに、右の腰のあたりで鳴る。
夕方には全部溶けて、袋が汗をかいている。
汗のぶんを、母は別の袋で包んであった。中の紙が濡れたことが一度も無い。
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八月のあいだ、腹をこわした日は零になる。
三十六日、二回ずつ食べて、一度も当たっていない。
当たらなかったことに、母は触れなかった。こちらも言っていない。
言う場面が無いものは、この家では起きなかったことになる。
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おかずは、夏のあいだ揚げ物が減った。
かわりに、酢を使ったものが増える。酢の物か、南蛮漬けか、梅を混ぜたご飯になる。
三十六日ぶんを思い出すと、酢の入っていた日が二十四日あった。
残りの十二日は、汁気の出ないものだけで組んである。
組み方を、母はどこで覚えたのかを言わない。訊いてもいない。
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弁当を二つ作る朝、母は台所に長くいる。
起きる時間を早めたはずだが、その数を僕は知らない。訊いていない。
台所の音は、こちらが起きる前から聞こえていた。包丁と、換気扇と、蓋を閉める音になる。
母はきちんと蓋を拭いてから閉める。拭く音が、そのあいだに一回入る。
音は毎朝ほとんど同じ順で並ぶ。ずれる日は、月に二回か三回だ。
ずれた日の理由を、こちらは一度も当てられなかった。
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去年も、その前の年も、箱は二つだった。
あのときは、午前が練習で午後が講習になる。走ってから食べていた。
夏に二つ持って出た朝は、一年で二十二回、二年で十九回ある。
今年は二十一回だ。数だけ見ると、三年とも似た形になる。
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数は似ているのに、中身が違う。
去年までは、走ったぶんを埋めるために食べた。食べないと、夕方に足が出ない。
今年は走っていない。走っていないのに、同じ量が入る。
入るところは変わらない。使う先だけが無くなった。
二つとも食べきれない日が、八月に四日あった。残すのが恥ずかしいわけではない。
残すと、次の日の量で分かってしまう。分かられるのが困るので、全部入れた。
ちゃんと食べているかどうかを、母は訊かない。量のほうを見ている。
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体重は、七月の終わりに五十四キロだった。
八月の終わりで五十三キロになる。一キロ減っている。
去年の夏は、五十八キロから五十九キロのあいだで動いていた。
一年で五キロ落ちたことになる。落ちた期間を、こちらは特定できない。
特定できないものが、そのころには十個を超えていた。
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母は、痩せたとは言わなかった。
言うかわりに、夜の弁当のご飯が増えている。
小さい箱のほうが昼で、細長いほうが夜になる。夜のご飯だけが、八月の途中から厚い。
厚くなった日を、僕はやはり当てられない。
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夜の講座は、九十分が二本ある。
教室は四十人で埋まる。昼の講座より、名前を知らない人が多い。
他校から来ている人がいるからになる。制服が四種類あった。
うちの学校は十二人で、残りは知らない学校だ。十二人のうち、口をきいたことがあるのは一人になる。
宮内は、夏のあいだ予備校に来ていない。学校の講習のほうに出ていたらしい。
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教室のクーラーが強くて、後ろの席は寒い。上着を持ってくる人が何人かいた。
僕は持っていない。持っていないと、指の先が冷たくなる。
冷たくなると、字が細くなる。答案の字が細くなったのは、その夏からだ。
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八月十日の帰りに、駅の階段で岡田を見た。
一つ下で、長距離をやっている。去年の四月に入ってきた子だ。
制服ではなく、練習着だった。手にビニールの袋を提げている。
こちらに気づいていない。改札のほうへ、走らずに歩いていった。
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声はかけていない。
かける形を持っていないからではない。去年の夏までは、練習のメニューを渡す相手だった。
渡していたころのやり方を、こちらはまだ全部覚えている。
覚えているものを、使う場所が無い。
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去年の夏、岡田は五本のうち三本しか走れない日があった。
こちらは、その三本ぶんのタイムを日誌に書いた。書いた字は、いまも形が出てくる。
走れなかった二本のところは、線を引いて空けてある。
空けた欄を、あの子は次の日に自分で埋めていた。埋め方が、こちらのやり方と同じだった。
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岡田は、まだ走っているらしい。
らしい、というのは、確かめていないからになる。
同じ駅で、同じ時間に見たのはその一回だけだ。八月の二十一日のうち、一回になる。
あとの二十日は、階段のほうを見なかった。
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夏のシャツは、脇のところが白くなる。
汗が乾くと、輪のかたちに塩が残った。去年は、それが背中まで来ていた。
今年は脇だけになる。走っていないので、量が違う。
その違いを、母は洗うときに見ているはずだ。見ていて、何も言わない。
洗剤は、去年の春に替えたものをそのまま使っている。
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言わずにやられたものを、僕は八月に数えた。
窓のすだれ。机の椅子。鞄の持ち手のテープ。時計の電池。上履き。
洗剤。教科書を縛った紐。夜のご飯の厚み。細長い弁当箱。
九つある。九つとも、済んだあとで気づいた。
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九つのうち、こちらが先に気づいたものは零になる。
九年で零だ。当てたことが一度も無い。
母のほうは、こちらが言う前に分かる。日程表を読んで、箱を出す。
その差を、僕はそのころ、母の記憶力の話だと思っていた。
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世間では、こういうのは気が利くと言うらしい。
立派なお母さんね、と伯母が正月に言っていた。母はきちんと否定する。
そんなことないですよ、と言って、そのあと話を千尋のほうへ移す。
移し方がうまい。うまいので、誰も気づかない。
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母は一度も、食べなさいと言わなかった。
九年間、残しなさいとも、太るとも聞いていない。
量だけが黙って動く。増える日と、減る日がある。
動く向きを、こちらは毎回あとから知る。
知ったところで、礼を言う形がやはり出てこない。
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八月二十六日で、講習は終わった。
七十二回とも出ている。休んだのは零になる。
箱を出しっぱなしにしておくのは、だらしないことになる。
だらしないと言われる前に、こちらは流しへ運ぶ。九年、それだけは崩していない。
最後の日の夜、細長い箱を流しへ出した。母が洗って、拭いて、しまう。
しまうところを、僕はその日も見ていない。
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九月の一日目に、身体測定があった。
身長は百七十二・四センチで、去年から〇・六伸びている。
体重は五十三・二キロだった。視力は右が〇・八、左が一・〇になる。
紙は、その日のうちに家へ持って帰る決まりだ。
台所の机に置くと、次の朝には無くなっている。戻ってきたのは夜だった。
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九月に入って、机の上の箱は一つに戻った。
戻った日も、正確には出せない。二日か三日のうちのどれかになる。
小さいほうだけが、いつもの位置に置いてある。
位置は九年間、五センチも動いていなかった。
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同じ箱が出てきた日を、僕はまた当てられなかった。




