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自慢の息子  作者: 智珠
第五部 沈黙

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第083話 もったいない

 夏期講習の案内は、五月九日に来た。


 予備校の封筒で、中に紙が三枚入っている。


 講座の一覧と、申し込み用紙と、別紙が一枚ずつ入っていた。


 別紙には、講座ごとの金額が入っていた。


            *


 僕は、その別紙を見ていない。


 封を開けたのは母だ。開けたあとで、三枚とも台所の机に並べてあった。


 一覧と申し込み用紙は読んだ。別紙だけを裏返しのままにした。


 裏返したのが自分だったかどうかも、いま思い出せない。


 紙を裏返しておくのは、だらしないやり方になる。


 だらしないと言われたことは無い。言われる前に、こちらはたいてい表へ戻していた。


 その一枚だけを、戻さないままにした。


            *


 講座は全部で三十四ある。


 英語が九、数学が八、国語が六、理科が七、社会が四になる。


 一講座が九十分で、五日ぶんの回数だ。前期と後期に分かれている。


 去年は五つ取った。英語が二つ、数学が二つ、化学が一つになる。


            *


 母は、その一覧に印をつけた。


 台所の椅子に座って、ボールペンで丸を書いていく。


 丸を書く音は、紙の上で二回ずつ鳴る。書き終わりに、ペンの先が紙を打つ音が入る。


 三十四のうち、丸は八つついた。


            *


 母は、台所の物をきちんと戻す人だ。


 ペンも、封筒も、使ったら元のところへ置く。置き方が毎回同じになる。


 しっかりした人だと、伯母が正月に言っていた。褒めるつもりで言ったのだと思う。


 褒められているところを、母はその場で受け流した。受け流し方も、毎回同じだった。


            *


 八つの内訳は、英語が三、数学が三、化学が一、物理が一だった。


 去年より三つ多い。回数でいうと、四十五から七十二に増える。


 時間に直すと、九十分が七十二回になる。


 その計算を、こちらは丸がつくのを見ながらやっていた。


            *


 母は、僕の成績を知らない。


 二年のあいだ、順位の紙を一枚も出していない。模試の封筒は、封のまま押入れにある。


 知らないままで、母は講座を選んだ。選び方は、教科の数がそろうやり方になる。


 理系だから理科を二つ、英語と数学を三つずつ。均等に置いてある。


 中身を見て選んだのではない。並べて選んでいる。


 決まったものに出るのが、こちらには当たり前になっていた。


            *


 選び方が、九年前と同じだった。


 小学生のとき、母は曜日で習い事を決めた。月曜が公文で、火曜が書道になる。


 水曜と金曜がスイミングで、土曜がピアノだ。空いているところに入れていく。


 どれが向いているかを、母は一度も見ていない。見ないで、埋めた。


 埋まっている状態が、この家では正しい形になる。


            *


 丸が八つ目についたところで、僕は口を開いた。


            *


 「そんなに、要らないと思う」


            *


 声は小さかった。


 言ったあとで、自分の声だと分かるまでに間がある。


 九年で、こういう言い方をしたのは二度目になる。


 一度目は小学五年で、陸上をやりたい、だった。


            *


 母は、ペンを持ったまま二秒黙った。


 二秒というのは、こちらが数えた長さだ。


 その二秒のあいだ、台所の換気扇が回っている音がしていた。


 音のほうを、僕はいまも覚えている。


            *


 「もったいない」


            *


 それだけだった。


 母は、そのあと何も言わずに九つ目の丸を書いた。


 書き終わってから、申し込み用紙のほうへ手を移した。


 名前と学年を書く欄がある。書いたのは母だ。


            *


 その一語のあとで、口の中が乾いた。


 乾いてから、飲み込むものが無いことに気づく。唾が出ていない。


 舌の裏に、夕飯の味が残っていた。味は分かるのに、何を食べたかが出てこない。


 手は、机の下で膝の上に置いてある。置いた覚えが無い。


 置いたまま、母がペンを持ち直すのを見ていた。


            *


 千尋は、同じ机の反対側で宿題をやっていた。


 顔を上げない。丸のつく音がしているあいだも、鉛筆はずっと動いていた。


 その日の宿題は、社会の白地図だった。県の名前を順に書き込んでいく。


 千尋のところには、講習の案内が来ていない。塾に通っていないからになる。


 中学に入るとき、行くかどうかを母が訊いた。千尋は行かないと答えた。それで終わっている。


 訊かれて、答えて、それで通っている。うちにその形があることを、こちらはその日まで見ていなかった。


            *


 父には、その夜のうちに電話が行った。


 母が台所で話している。長くない。中身は聞こえなかった。


 聞こえたのは、そう、と、うん、と、じゃあね、だけになる。


 父は反対しない。九年間、習い事のことで一度も反対していなかった。


 賛成したところも見ていない。父は、決まったあとで知らされる側にいる。


            *


 何がですか、と訊こうとした。


            *


 もったいない、という語を、僕は前に一度だけ言われている。


 小学五年の三月で、言ったのは同じ教室に通っていた子だった。


 ピアノをやめると言ったときに、その子が、もったいないね、と言う。


 あのとき、こちらは月謝で解こうとした。月に八千円で、六年ぶんを出した。


 出した数は合わなかった。何と合わないのかも、そのころは書けていない。


 合わないまま、その語を六年持っている。


            *


 今度は、月謝で合う気がした。


 合うかどうかを確かめるために、こちらはその夜、九年ぶんを計算した。


 やり方は、記憶にある月謝と、通った月数を掛けるやり方になる。


            *


 公文が月に七千円で、年中から小四までの五年ぶんになる。


 六十か月かけると、四十二万円だ。


 ピアノが月に八千円で、小一から小六の三月までの六年ある。


 七十二か月で、五十七万六千円になる。


            *


 書道が月に三千円で、四年ぶん。十四万四千円になる。


 スイミングが月に六千円で、四年ぶん。二十八万八千円だ。


 中学の塾が月に三万五千円で、三年ぶん。百二十六万円になる。


 高校の予備校が月に四万円で、二年二か月ぶん。百四万円だ。


            *


 ほかに、教材と模試と交通費がある。


 これは正確に出せない。年に五万円として、九年で四十五万円と置いた。


 全部足すと、四百十七万八千円になる。


            *


 概算だ。正確ではない。


 正確でない数を出したのは、これがはじめてになる。


 九年間、僕が出してきた数は全部、紙に書いてあるものだった。


 書いていないものを自分で埋めたのは、その夜が最初だ。


 計算したことを、恥ずかしいとは思っていない。


 思っていないのに、その紙を人の見えるところへは置かなかった。


            *


 数を出すと、たいていは落ち着く。


 量が分かるものは扱える、と中学のときに書いた。書いたとおりに、九年やってきた。


 その夜は、落ち着かなかった。


 落ち着かないのに、身体のどこが落ち着かないのかを指せない。


 胃でも、頭でもない。指せないものは、こちらの数え方に乗らなかった。


            *


 四百十七万八千円を、母は一度も言わなかった。


 九年間、金額が家の中で出たことが無い。


 高いとも、安いとも聞いていない。父も言わない。


 言われないので、こちらは長いあいだ、それを数として持っていなかった。


            *


 持っていなかったものを、その夜に持った。


 持ったところで、置く場所が無い。


 母に見せる形の紙ではないし、誰かに言う話でもなかった。


 計算用紙は、そのまま押入れの束のいちばん上に入れた。


 束の上に、字の書いてある紙が一枚増えた。


            *


 母の髪は、その春に伸びていた。


 三か月に一度、駅前の店で切っている。前に行ったのは去年の十一月になる。


 六か月と半分あいている。数えたのは、玄関の壁のカレンダーになる。


 カレンダーには、母の予定だけが鉛筆で書いてある。


 十一月の欄に、店の名前が書いてあった。それより先の欄には無い。


            *


 生え際のところが、白くなっている。


 前は、生え際だけだった。その春には、分け目の内側まで広がっていた。


 母は自分でそこを見る。台所の窓のガラスに映るところで、指で分け目を動かす。


 動かして、すぐやめる。やめてから、鍋のほうへ戻った。


 その動きを、こちらは廊下から見ている。見たことを、母は知らない。


            *


 行かないんですか、とは訊いていない。


 訊く形を持っていないからではない。持っていない形なら、ほかにもたくさんある。


 訊かなかったのは、訊いたあとで金額の話になるのが分かっていたからになる。


 世間では、こういうことは家族で言い合うものらしい。普通は、誰かが先に口を開く。


 金額の話は、この家では起きない。起きないものを、こちらから起こす気にはならなかった。


            *


 世間では、こういうときに親子で相談するらしい。


 いくらまでなら出せるとか、そのぶんはどこを削るとか、普通はそういう話をする。


 うちでは、そういう話が一度も無い。


 立派なことではない。うちがそういう家だというだけになる。


 無いかわりに、母が全部決めて、こちらは決まったものに出る。


 その形で九年、一度も止まっていない。


            *


 申し込み用紙は、五月十三日に出した。


 持って行ったのは僕だ。受付の人が、はい、と言って受け取る。


 受け取るときに、金額の欄を指で確かめていた。


 確かめる指の動きだけを見ていた。数のほうは見ていない。


            *


 その日の帰り、駅の階段の下で立ち止まった。


 止まった理由は思い出せない。人が横を通っていくのが分かる。


 足の裏が、階段の縁に半分乗っていた。乗せたまま、しばらく動かなかった。


 動かなかった長さも出せない。出せないことに、そのころは慣れている。


            *


 夏期講習は、七月二十一日から八月二十六日まであった。


 八講座で、七十二回になる。休みは八月十四日から十六日の三日だけだ。


 三日とも、家で問題集をやった。やった量は書ける。


 ちゃんと通った。休んだのは、九年で四日になる。


 書けるのに、その夏に何を覚えたかは出てこない。


            *


 母は、講習のあいだ、弁当を毎日つくった。


 朝の早い日は、前の日の夜のうちに詰めてある。


 三十六日ぶんで、同じおかずが二日続いたことが一度も無い。


 数えたのは、こちらの癖になる。数えたことは言っていない。


            *


 母は一度も、お金の話をしなかった。


            *


 夏の終わりに、僕はもう一度その紙を出した。


 押入れの束のいちばん上から抜いて、机に広げる。


 四百十七万八千円のところを、指でなぞった。なぞっても、何も出てこない。


 六年前も、同じやり方で合わなかった。


 合わないやり方を、こちらは二度とも先に選んでいる。


            *


 紙は、その日のうちに束へ戻した。


 戻す場所を、こちらは間違えない。いちばん上に入れたものは、いちばん上へ返す。


 順を守っているのに、何のための順なのかは決めていなかった。


 決めないままの束が、押入れで厚くなっていく。


            *


 同じ語を二度言われて、二度とも、僕は月謝で数えた。

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