第083話 もったいない
夏期講習の案内は、五月九日に来た。
予備校の封筒で、中に紙が三枚入っている。
講座の一覧と、申し込み用紙と、別紙が一枚ずつ入っていた。
別紙には、講座ごとの金額が入っていた。
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僕は、その別紙を見ていない。
封を開けたのは母だ。開けたあとで、三枚とも台所の机に並べてあった。
一覧と申し込み用紙は読んだ。別紙だけを裏返しのままにした。
裏返したのが自分だったかどうかも、いま思い出せない。
紙を裏返しておくのは、だらしないやり方になる。
だらしないと言われたことは無い。言われる前に、こちらはたいてい表へ戻していた。
その一枚だけを、戻さないままにした。
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講座は全部で三十四ある。
英語が九、数学が八、国語が六、理科が七、社会が四になる。
一講座が九十分で、五日ぶんの回数だ。前期と後期に分かれている。
去年は五つ取った。英語が二つ、数学が二つ、化学が一つになる。
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母は、その一覧に印をつけた。
台所の椅子に座って、ボールペンで丸を書いていく。
丸を書く音は、紙の上で二回ずつ鳴る。書き終わりに、ペンの先が紙を打つ音が入る。
三十四のうち、丸は八つついた。
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母は、台所の物をきちんと戻す人だ。
ペンも、封筒も、使ったら元のところへ置く。置き方が毎回同じになる。
しっかりした人だと、伯母が正月に言っていた。褒めるつもりで言ったのだと思う。
褒められているところを、母はその場で受け流した。受け流し方も、毎回同じだった。
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八つの内訳は、英語が三、数学が三、化学が一、物理が一だった。
去年より三つ多い。回数でいうと、四十五から七十二に増える。
時間に直すと、九十分が七十二回になる。
その計算を、こちらは丸がつくのを見ながらやっていた。
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母は、僕の成績を知らない。
二年のあいだ、順位の紙を一枚も出していない。模試の封筒は、封のまま押入れにある。
知らないままで、母は講座を選んだ。選び方は、教科の数がそろうやり方になる。
理系だから理科を二つ、英語と数学を三つずつ。均等に置いてある。
中身を見て選んだのではない。並べて選んでいる。
決まったものに出るのが、こちらには当たり前になっていた。
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選び方が、九年前と同じだった。
小学生のとき、母は曜日で習い事を決めた。月曜が公文で、火曜が書道になる。
水曜と金曜がスイミングで、土曜がピアノだ。空いているところに入れていく。
どれが向いているかを、母は一度も見ていない。見ないで、埋めた。
埋まっている状態が、この家では正しい形になる。
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丸が八つ目についたところで、僕は口を開いた。
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「そんなに、要らないと思う」
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声は小さかった。
言ったあとで、自分の声だと分かるまでに間がある。
九年で、こういう言い方をしたのは二度目になる。
一度目は小学五年で、陸上をやりたい、だった。
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母は、ペンを持ったまま二秒黙った。
二秒というのは、こちらが数えた長さだ。
その二秒のあいだ、台所の換気扇が回っている音がしていた。
音のほうを、僕はいまも覚えている。
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「もったいない」
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それだけだった。
母は、そのあと何も言わずに九つ目の丸を書いた。
書き終わってから、申し込み用紙のほうへ手を移した。
名前と学年を書く欄がある。書いたのは母だ。
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その一語のあとで、口の中が乾いた。
乾いてから、飲み込むものが無いことに気づく。唾が出ていない。
舌の裏に、夕飯の味が残っていた。味は分かるのに、何を食べたかが出てこない。
手は、机の下で膝の上に置いてある。置いた覚えが無い。
置いたまま、母がペンを持ち直すのを見ていた。
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千尋は、同じ机の反対側で宿題をやっていた。
顔を上げない。丸のつく音がしているあいだも、鉛筆はずっと動いていた。
その日の宿題は、社会の白地図だった。県の名前を順に書き込んでいく。
千尋のところには、講習の案内が来ていない。塾に通っていないからになる。
中学に入るとき、行くかどうかを母が訊いた。千尋は行かないと答えた。それで終わっている。
訊かれて、答えて、それで通っている。うちにその形があることを、こちらはその日まで見ていなかった。
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父には、その夜のうちに電話が行った。
母が台所で話している。長くない。中身は聞こえなかった。
聞こえたのは、そう、と、うん、と、じゃあね、だけになる。
父は反対しない。九年間、習い事のことで一度も反対していなかった。
賛成したところも見ていない。父は、決まったあとで知らされる側にいる。
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何がですか、と訊こうとした。
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もったいない、という語を、僕は前に一度だけ言われている。
小学五年の三月で、言ったのは同じ教室に通っていた子だった。
ピアノをやめると言ったときに、その子が、もったいないね、と言う。
あのとき、こちらは月謝で解こうとした。月に八千円で、六年ぶんを出した。
出した数は合わなかった。何と合わないのかも、そのころは書けていない。
合わないまま、その語を六年持っている。
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今度は、月謝で合う気がした。
合うかどうかを確かめるために、こちらはその夜、九年ぶんを計算した。
やり方は、記憶にある月謝と、通った月数を掛けるやり方になる。
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公文が月に七千円で、年中から小四までの五年ぶんになる。
六十か月かけると、四十二万円だ。
ピアノが月に八千円で、小一から小六の三月までの六年ある。
七十二か月で、五十七万六千円になる。
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書道が月に三千円で、四年ぶん。十四万四千円になる。
スイミングが月に六千円で、四年ぶん。二十八万八千円だ。
中学の塾が月に三万五千円で、三年ぶん。百二十六万円になる。
高校の予備校が月に四万円で、二年二か月ぶん。百四万円だ。
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ほかに、教材と模試と交通費がある。
これは正確に出せない。年に五万円として、九年で四十五万円と置いた。
全部足すと、四百十七万八千円になる。
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概算だ。正確ではない。
正確でない数を出したのは、これがはじめてになる。
九年間、僕が出してきた数は全部、紙に書いてあるものだった。
書いていないものを自分で埋めたのは、その夜が最初だ。
計算したことを、恥ずかしいとは思っていない。
思っていないのに、その紙を人の見えるところへは置かなかった。
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数を出すと、たいていは落ち着く。
量が分かるものは扱える、と中学のときに書いた。書いたとおりに、九年やってきた。
その夜は、落ち着かなかった。
落ち着かないのに、身体のどこが落ち着かないのかを指せない。
胃でも、頭でもない。指せないものは、こちらの数え方に乗らなかった。
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四百十七万八千円を、母は一度も言わなかった。
九年間、金額が家の中で出たことが無い。
高いとも、安いとも聞いていない。父も言わない。
言われないので、こちらは長いあいだ、それを数として持っていなかった。
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持っていなかったものを、その夜に持った。
持ったところで、置く場所が無い。
母に見せる形の紙ではないし、誰かに言う話でもなかった。
計算用紙は、そのまま押入れの束のいちばん上に入れた。
束の上に、字の書いてある紙が一枚増えた。
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母の髪は、その春に伸びていた。
三か月に一度、駅前の店で切っている。前に行ったのは去年の十一月になる。
六か月と半分あいている。数えたのは、玄関の壁のカレンダーになる。
カレンダーには、母の予定だけが鉛筆で書いてある。
十一月の欄に、店の名前が書いてあった。それより先の欄には無い。
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生え際のところが、白くなっている。
前は、生え際だけだった。その春には、分け目の内側まで広がっていた。
母は自分でそこを見る。台所の窓のガラスに映るところで、指で分け目を動かす。
動かして、すぐやめる。やめてから、鍋のほうへ戻った。
その動きを、こちらは廊下から見ている。見たことを、母は知らない。
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行かないんですか、とは訊いていない。
訊く形を持っていないからではない。持っていない形なら、ほかにもたくさんある。
訊かなかったのは、訊いたあとで金額の話になるのが分かっていたからになる。
世間では、こういうことは家族で言い合うものらしい。普通は、誰かが先に口を開く。
金額の話は、この家では起きない。起きないものを、こちらから起こす気にはならなかった。
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世間では、こういうときに親子で相談するらしい。
いくらまでなら出せるとか、そのぶんはどこを削るとか、普通はそういう話をする。
うちでは、そういう話が一度も無い。
立派なことではない。うちがそういう家だというだけになる。
無いかわりに、母が全部決めて、こちらは決まったものに出る。
その形で九年、一度も止まっていない。
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申し込み用紙は、五月十三日に出した。
持って行ったのは僕だ。受付の人が、はい、と言って受け取る。
受け取るときに、金額の欄を指で確かめていた。
確かめる指の動きだけを見ていた。数のほうは見ていない。
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その日の帰り、駅の階段の下で立ち止まった。
止まった理由は思い出せない。人が横を通っていくのが分かる。
足の裏が、階段の縁に半分乗っていた。乗せたまま、しばらく動かなかった。
動かなかった長さも出せない。出せないことに、そのころは慣れている。
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夏期講習は、七月二十一日から八月二十六日まであった。
八講座で、七十二回になる。休みは八月十四日から十六日の三日だけだ。
三日とも、家で問題集をやった。やった量は書ける。
ちゃんと通った。休んだのは、九年で四日になる。
書けるのに、その夏に何を覚えたかは出てこない。
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母は、講習のあいだ、弁当を毎日つくった。
朝の早い日は、前の日の夜のうちに詰めてある。
三十六日ぶんで、同じおかずが二日続いたことが一度も無い。
数えたのは、こちらの癖になる。数えたことは言っていない。
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母は一度も、お金の話をしなかった。
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夏の終わりに、僕はもう一度その紙を出した。
押入れの束のいちばん上から抜いて、机に広げる。
四百十七万八千円のところを、指でなぞった。なぞっても、何も出てこない。
六年前も、同じやり方で合わなかった。
合わないやり方を、こちらは二度とも先に選んでいる。
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紙は、その日のうちに束へ戻した。
戻す場所を、こちらは間違えない。いちばん上に入れたものは、いちばん上へ返す。
順を守っているのに、何のための順なのかは決めていなかった。
決めないままの束が、押入れで厚くなっていく。
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同じ語を二度言われて、二度とも、僕は月謝で数えた。




