第079話 自分の意見
十二月十一日に、志望理由書の書き方という講座があった。
二年の希望者だけで、放課後に一時間半ある。会議室でやった。
来たのは四十二人だった。二年は三百八人いるので、七人に一人になる。
文系と理系が混ざる。座る場所は決まっていない。
僕は前から三列目の、いちばん右に座った。空いていたのがそこだったからになる。
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小柳が、同じ回に来ていた。
入ってきたのは、こちらより後になる。前から三列目の、左から二番目に座った。
同じ列だと気づいたのは、前半が終わったあとだ。
気づくまでの三十分ほど、こちらは一度もそちらを見ていない。
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前半は、書き方の説明だった。
紙が二枚配られる。一枚が例で、もう一枚が下書き用になる。
例の紙には、上手な文が印刷してある。誰が書いたものかは書いていない。
その紙を、僕は最初に二回読んだ。一回目が一分、二回目が四十秒くらいになる。
例の文は十二行あって、そのうち九行が、あとで自分の紙にも出てくる形をしていた。
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後半は、下書きを書く時間になる。
二十分で、六行から八行を書けと言われた。字数は指定されていない。
僕は七行書いた。書き終わったのは、始めてから十一分後になる。
残りの九分は、直していた。三か所直して、二か所は元へ戻した。
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二十分のあいだ、会議室ではペンの音がずっと鳴っていた。
四十二人ぶんで、途切れる時間がほとんど無い。
途切れるのは、誰かが手を止めたときになる。止まっている人が何人いるかは分からない。
音の数を、こちらは数えようとした。数えきれなかった。
数えきれないものの前で、こちらの手だけが十一分動いていた。
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七行の中身は、いま書ける。
工学に興味がある。ものが動く仕組みを知りたい。高校で理系を選んだ。
数学と物理が好きだ。将来はものづくりに関わりたい。地域に貢献したい。
最後の一行が、貴学で学びたい、になる。
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七行とも、どこかで読んだ文の形をしている。
二年前は、出所が言えた。三つの答えが、それぞれ誰の口から出たものかを言えた。
今度は言えない。例の紙かもしれないし、予備校の資料かもしれない。
どこから入ったのかが分からないほど、そういう文が身体の中に溜まっている。
溜まった量を、僕は数えていない。数えようとしたこともない。
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二年前は、三つのうち三つとも出所が言えた。
いまは、七つのうち零になる。三分の三が、七分の零になった。
割合で書くと、二年で三分の三から七分の零まで落ちている。
落ちた、という言い方が合っているのかどうかは分からない。増えたとも書ける。
借りたものの数だけで言えば、三つが七つに増えている。
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書いたものが本当かどうかを、そのとき考えていない。
考える欄が無い。紙には、書く欄しかない。
書く欄があると、こちらの手は埋める。空けたのは、七月の一問だけになる。
あれ以来、空けていない。空けるのは、たぶん一度きりのやり方だった。
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きちんと埋める、というのが、この手の癖になる。
九年間、ちゃんと埋めてきた。埋めないと、だらしないと言われる形の紙がある。
言われたことは一度も無い。言われる前に埋めるからになる。
言われないやり方を、こちらは先回りして覚えた。覚えたものが、いまも先に働く。
働いた結果が、その日の七行になっている。
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読み合いは、隣同士でやる。
僕の右は壁で、左が空席だった。
空席のぶん、こちらの相手は左から二つ目の人になる。小柳だ。
組を決めたのは先生で、こちらではない。
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紙を交換した。
交換するときに、少しだけ手が触れた。触れたことを、いま書いておく。
小柳は、こちらの紙を受け取って、机に置いてから読んだ。持ち上げない。
持ち上げないで読む人を、僕はそれまで見ていない。
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小柳は、それを二回読んだ。
一回目は速い。二回目のほうが長かった。
二回目のあいだ、こちらは向こうの紙を読んでいた。
読み終わってからも、まだ二回目が続いていた。
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「高梨くん、自分の意見って言ったことある?」
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顔は上げていた。
用があるときだけ人を見る人が、そのときこちらを見ている。
声は大きくない。前の席の二人には、たぶん聞こえていない。
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答えなかった。
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答えられなかった、というのが近い。近いだけで、同じではない。
答えないでいるのと、答えられないのは、外から見ると同じ形になる。
同じ形なので、あの人にはどちらか分からなかったと思う。
こちらにも分からない。分からないまま、口が閉じていた。
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どういう意味ですか、と訊こうとした。
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小柳は、それ以上言わなかった。
ごめん、とは言わなかった。悪い意味じゃなくて、とも言わない。
言い直しもしない。一度言って、それで終わった。
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終わってから、自分の紙のほうを指した。
こちらが読み終わっているのを見て、感想を訊いたわけでもない。
指したのは、次のページに設問があったからになる。
読み合いのあと、相手の紙について一つ質問を書く欄がある。
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僕は、その欄に何か書いた。
何を書いたかを、いま思い出せない。
思い出せるのは、書くのに七分かかったことだけになる。
二十分で七行書いた人間が、一行の質問に七分かけている。
一行あたりで比べると、二十倍以上になる。倍率だけは、その場で出た。
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小柳の紙は、五行だった。
こちらの七行より二行少ない。字も、行あたりで四文字か五文字少ない。
全体の量でいうと、こちらの六割くらいになる。
途中で一度、線を引いて書き直してある。書き直したあとのほうが短い。
うまい文ではない。例の紙とは似ていない。
似ていないことに、こちらはすぐ気づいた。気づいたのに、そこで止まった。
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中身は、ここには書かない。
書くと、こちらの七行と並ぶ。並べると、どちらが正しいかの話になる。
あの日の会議室で、正しいかどうかの話は一度も出ていない。
出ていないものを、あとから足したくない。
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講座は、そのあと普通に終わった。
先生が最後に五分ほど話して、紙を回収した。下書きのほうは返された。
僕の七行は、その紙のまま鞄に入っている。
いまも実家の引き出しにあると思う。確かめていない。
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会議室を出るときに、小柳は先に行った。
声はかけられていない。こちらもかけていない。
廊下で、そのまま別のほうへ曲がった。曲がるところを、僕は見ていた。
見ていたことに、向こうは気づいていないと思う。
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帰りの電車で、僕は七行を思い出そうとした。
乗ってから十分ほどのあいだ、順に出そうとしている。
四行しか出てこなかった。七分の四になる。
二十分かけて書いて、直しまでしたものが、二時間後に半分になる。
残った四行を数えて、それ以上は出さなかった。
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出てこないものは、たぶん入っていなかったのだと思う。
入っていないものを、こちらは紙に書いた。書いて、直しまでした。
直すというのは、良くする作業になる。中身の無いものを良くしていた。
良くする手つきだけは、九年かけてきちんと身についている。
身についたものを、こちらは疑ったことが無い。
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世間では、こういうものは本音を書くらしい。
本音で書きなさい、と先生も言っていた。前半の説明の中に、その一行があった。
本音というのが、どこにあるものなのかを、こちらは知らない。
あるとすれば、たぶん普通は身体のどこかにある。手ごたえと同じところにある気がする。
手ごたえのほうも、いまだに一度も使っていない語になる。
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自分の意見を言った回数を、僕はそのあと数えようとした。
数えるには、境目が要る。どこからが自分の意見なのかが決まっていないといけない。
決まっていない。決めたことも無い。
小学五年で一度だけ、陸上をやりたいと言っている。九年で一度になる。
あれが意見なのかどうかも分からない。
やりたい、というのは、意見ではなく希望になるのかもしれない。
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希望と意見の違いを、僕はその夜に考えた。
考えて、決まらなかった。決まらないものを数に直せない。
数に直せないものは、こちらの中で扱えない。
扱えないものが、その冬にまた一つ増えた。
増えたものに、名前をつけないまま年が変わった。
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志望理由書のことを、僕は家で言っていない。
書いたことも、講座があったことも、母は知らないままになる。
訊かれてもいない。学校で何をしたかを、家で訊かれる形が九年前から無い。
訊かれるのは、日付と、時刻と、持ち物だけになる。三つとも紙に書いてある。
紙に書いてあるものだけを訊かれていると、書いていないものは無いことになる。
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母は一度も、将来の話をしなかった。
何になりたいのかを、九年間で一度も訊かれていない。
小六の卒業文集で、僕は将来の夢を書いている。あのときも訊かれていない。
書いたものを、母は読んだと思う。読んだかどうかも訊いていない。
訊かないことだけが、この家でいちばん正確に続いている。
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せっかく書いたのに、という言い方も出なかった。
出す先が無い。誰にも見せていないので、そもそも書いたことが家に無い。
無いものについて、しっかりやったとも、情けないとも言えない。
言えないので、その七行は二日ほどで頭から消えた。
消えるまでの日数だけを、こちらはまた数えている。
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その冬、母は僕の机の椅子を替えた。
前のは、座面の布が擦り切れていた。中学から使っているものになる。
新しいのは、色が濃い。高さの調整が、前のより細かくできる。
段が七つあって、こちらは上から三段目に合わせた。合わせるのに、五分かかっている。
言われていない。日曜の午後に、部屋へ入ったら替わっていた。
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古い椅子がどこへ行ったのかを、僕は知らない。
その日のうちに、家の中から無くなっていた。
運ぶのは、たぶん父がやったのだと思う。あれは一人では出せなかったはずだ。
二人でやっているところを、こちらは見ていない。
同じ家にいて、見ていない。見ていないものが、この家には多い。
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新しい椅子は、座ると背中が真っすぐになる。
真っすぐになるぶん、長く座れる。長く座れるので、時間が増えた。
増えた時間で、進む量が増えたかどうかは分からなかった。
その冬に測っていない。測るのをやめたのが、いつからかも出てこない。
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ちゃんとした椅子だ、と母は言わなかった。
立派なものではなかった。値段は知らない。訊いてもいない。
訊かないでいるうちに、それは家にあるものになる。
家にあるものについて、こちらは何も言わない。言う形が九年前から無い。
無いものが、そのころには数えきれなくなっていた。
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三学期に入ってから、小柳と話したことは無い。
一月から三月までで、廊下ですれ違ったのは十四回になる。数えてある。
十四回とも、向こうは見ない。用が無いからになる。
あの日は用があった。読み合いの相手だったので、用があった。
用があった時間は、たぶん十五分くらいになる。二年で十五分だ。
用が終われば、見なくなる。そういう人だと、こちらは知っている。
知っているのに、その冬は何度か、廊下で先にそちらを見ていた。
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言ったことがあるかどうかを、僕はその場で数えられなかった。




