↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
自慢の息子  作者: 智珠
第五部 沈黙

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
85/105

第079話 自分の意見

 十二月十一日に、志望理由書の書き方という講座があった。


 二年の希望者だけで、放課後に一時間半ある。会議室でやった。


 来たのは四十二人だった。二年は三百八人いるので、七人に一人になる。


 文系と理系が混ざる。座る場所は決まっていない。


 僕は前から三列目の、いちばん右に座った。空いていたのがそこだったからになる。


            *


 小柳が、同じ回に来ていた。


 入ってきたのは、こちらより後になる。前から三列目の、左から二番目に座った。


 同じ列だと気づいたのは、前半が終わったあとだ。


 気づくまでの三十分ほど、こちらは一度もそちらを見ていない。


            *


 前半は、書き方の説明だった。


 紙が二枚配られる。一枚が例で、もう一枚が下書き用になる。


 例の紙には、上手な文が印刷してある。誰が書いたものかは書いていない。


 その紙を、僕は最初に二回読んだ。一回目が一分、二回目が四十秒くらいになる。


 例の文は十二行あって、そのうち九行が、あとで自分の紙にも出てくる形をしていた。


            *


 後半は、下書きを書く時間になる。


 二十分で、六行から八行を書けと言われた。字数は指定されていない。


 僕は七行書いた。書き終わったのは、始めてから十一分後になる。


 残りの九分は、直していた。三か所直して、二か所は元へ戻した。


            *


 二十分のあいだ、会議室ではペンの音がずっと鳴っていた。


 四十二人ぶんで、途切れる時間がほとんど無い。


 途切れるのは、誰かが手を止めたときになる。止まっている人が何人いるかは分からない。


 音の数を、こちらは数えようとした。数えきれなかった。


 数えきれないものの前で、こちらの手だけが十一分動いていた。


            *


 七行の中身は、いま書ける。


 工学に興味がある。ものが動く仕組みを知りたい。高校で理系を選んだ。


 数学と物理が好きだ。将来はものづくりに関わりたい。地域に貢献したい。


 最後の一行が、貴学で学びたい、になる。


            *


 七行とも、どこかで読んだ文の形をしている。


 二年前は、出所が言えた。三つの答えが、それぞれ誰の口から出たものかを言えた。


 今度は言えない。例の紙かもしれないし、予備校の資料かもしれない。


 どこから入ったのかが分からないほど、そういう文が身体の中に溜まっている。


 溜まった量を、僕は数えていない。数えようとしたこともない。


            *


 二年前は、三つのうち三つとも出所が言えた。


 いまは、七つのうち零になる。三分の三が、七分の零になった。


 割合で書くと、二年で三分の三から七分の零まで落ちている。


 落ちた、という言い方が合っているのかどうかは分からない。増えたとも書ける。


 借りたものの数だけで言えば、三つが七つに増えている。


            *


 書いたものが本当かどうかを、そのとき考えていない。


 考える欄が無い。紙には、書く欄しかない。


 書く欄があると、こちらの手は埋める。空けたのは、七月の一問だけになる。


 あれ以来、空けていない。空けるのは、たぶん一度きりのやり方だった。


            *


 きちんと埋める、というのが、この手の癖になる。


 九年間、ちゃんと埋めてきた。埋めないと、だらしないと言われる形の紙がある。


 言われたことは一度も無い。言われる前に埋めるからになる。


 言われないやり方を、こちらは先回りして覚えた。覚えたものが、いまも先に働く。


 働いた結果が、その日の七行になっている。


            *


 読み合いは、隣同士でやる。


 僕の右は壁で、左が空席だった。


 空席のぶん、こちらの相手は左から二つ目の人になる。小柳だ。


 組を決めたのは先生で、こちらではない。


            *


 紙を交換した。


 交換するときに、少しだけ手が触れた。触れたことを、いま書いておく。


 小柳は、こちらの紙を受け取って、机に置いてから読んだ。持ち上げない。


 持ち上げないで読む人を、僕はそれまで見ていない。


            *


 小柳は、それを二回読んだ。


 一回目は速い。二回目のほうが長かった。


 二回目のあいだ、こちらは向こうの紙を読んでいた。


 読み終わってからも、まだ二回目が続いていた。


            *


 「高梨くん、自分の意見って言ったことある?」


            *


 顔は上げていた。


 用があるときだけ人を見る人が、そのときこちらを見ている。


 声は大きくない。前の席の二人には、たぶん聞こえていない。


            *


 答えなかった。


            *


 答えられなかった、というのが近い。近いだけで、同じではない。


 答えないでいるのと、答えられないのは、外から見ると同じ形になる。


 同じ形なので、あの人にはどちらか分からなかったと思う。


 こちらにも分からない。分からないまま、口が閉じていた。


            *


 どういう意味ですか、と訊こうとした。


            *


 小柳は、それ以上言わなかった。


 ごめん、とは言わなかった。悪い意味じゃなくて、とも言わない。


 言い直しもしない。一度言って、それで終わった。


            *


 終わってから、自分の紙のほうを指した。


 こちらが読み終わっているのを見て、感想を訊いたわけでもない。


 指したのは、次のページに設問があったからになる。


 読み合いのあと、相手の紙について一つ質問を書く欄がある。


            *


 僕は、その欄に何か書いた。


 何を書いたかを、いま思い出せない。


 思い出せるのは、書くのに七分かかったことだけになる。


 二十分で七行書いた人間が、一行の質問に七分かけている。


 一行あたりで比べると、二十倍以上になる。倍率だけは、その場で出た。


            *


 小柳の紙は、五行だった。


 こちらの七行より二行少ない。字も、行あたりで四文字か五文字少ない。


 全体の量でいうと、こちらの六割くらいになる。


 途中で一度、線を引いて書き直してある。書き直したあとのほうが短い。


 うまい文ではない。例の紙とは似ていない。


 似ていないことに、こちらはすぐ気づいた。気づいたのに、そこで止まった。


            *


 中身は、ここには書かない。


 書くと、こちらの七行と並ぶ。並べると、どちらが正しいかの話になる。


 あの日の会議室で、正しいかどうかの話は一度も出ていない。


 出ていないものを、あとから足したくない。


            *


 講座は、そのあと普通に終わった。


 先生が最後に五分ほど話して、紙を回収した。下書きのほうは返された。


 僕の七行は、その紙のまま鞄に入っている。


 いまも実家の引き出しにあると思う。確かめていない。


            *


 会議室を出るときに、小柳は先に行った。


 声はかけられていない。こちらもかけていない。


 廊下で、そのまま別のほうへ曲がった。曲がるところを、僕は見ていた。


 見ていたことに、向こうは気づいていないと思う。


            *


 帰りの電車で、僕は七行を思い出そうとした。


 乗ってから十分ほどのあいだ、順に出そうとしている。


 四行しか出てこなかった。七分の四になる。


 二十分かけて書いて、直しまでしたものが、二時間後に半分になる。


 残った四行を数えて、それ以上は出さなかった。


            *


 出てこないものは、たぶん入っていなかったのだと思う。


 入っていないものを、こちらは紙に書いた。書いて、直しまでした。


 直すというのは、良くする作業になる。中身の無いものを良くしていた。


 良くする手つきだけは、九年かけてきちんと身についている。


 身についたものを、こちらは疑ったことが無い。


            *


 世間では、こういうものは本音を書くらしい。


 本音で書きなさい、と先生も言っていた。前半の説明の中に、その一行があった。


 本音というのが、どこにあるものなのかを、こちらは知らない。


 あるとすれば、たぶん普通は身体のどこかにある。手ごたえと同じところにある気がする。


 手ごたえのほうも、いまだに一度も使っていない語になる。


            *


 自分の意見を言った回数を、僕はそのあと数えようとした。


 数えるには、境目が要る。どこからが自分の意見なのかが決まっていないといけない。


 決まっていない。決めたことも無い。


 小学五年で一度だけ、陸上をやりたいと言っている。九年で一度になる。


 あれが意見なのかどうかも分からない。


 やりたい、というのは、意見ではなく希望になるのかもしれない。


            *


 希望と意見の違いを、僕はその夜に考えた。


 考えて、決まらなかった。決まらないものを数に直せない。


 数に直せないものは、こちらの中で扱えない。


 扱えないものが、その冬にまた一つ増えた。


 増えたものに、名前をつけないまま年が変わった。


            *


 志望理由書のことを、僕は家で言っていない。


 書いたことも、講座があったことも、母は知らないままになる。


 訊かれてもいない。学校で何をしたかを、家で訊かれる形が九年前から無い。


 訊かれるのは、日付と、時刻と、持ち物だけになる。三つとも紙に書いてある。


 紙に書いてあるものだけを訊かれていると、書いていないものは無いことになる。


            *


 母は一度も、将来の話をしなかった。


 何になりたいのかを、九年間で一度も訊かれていない。


 小六の卒業文集で、僕は将来の夢を書いている。あのときも訊かれていない。


 書いたものを、母は読んだと思う。読んだかどうかも訊いていない。


 訊かないことだけが、この家でいちばん正確に続いている。


            *


 せっかく書いたのに、という言い方も出なかった。


 出す先が無い。誰にも見せていないので、そもそも書いたことが家に無い。


 無いものについて、しっかりやったとも、情けないとも言えない。


 言えないので、その七行は二日ほどで頭から消えた。


 消えるまでの日数だけを、こちらはまた数えている。


            *


 その冬、母は僕の机の椅子を替えた。


 前のは、座面の布が擦り切れていた。中学から使っているものになる。


 新しいのは、色が濃い。高さの調整が、前のより細かくできる。


 段が七つあって、こちらは上から三段目に合わせた。合わせるのに、五分かかっている。


 言われていない。日曜の午後に、部屋へ入ったら替わっていた。


            *


 古い椅子がどこへ行ったのかを、僕は知らない。


 その日のうちに、家の中から無くなっていた。


 運ぶのは、たぶん父がやったのだと思う。あれは一人では出せなかったはずだ。


 二人でやっているところを、こちらは見ていない。


 同じ家にいて、見ていない。見ていないものが、この家には多い。


            *


 新しい椅子は、座ると背中が真っすぐになる。


 真っすぐになるぶん、長く座れる。長く座れるので、時間が増えた。


 増えた時間で、進む量が増えたかどうかは分からなかった。


 その冬に測っていない。測るのをやめたのが、いつからかも出てこない。


            *


 ちゃんとした椅子だ、と母は言わなかった。


 立派なものではなかった。値段は知らない。訊いてもいない。


 訊かないでいるうちに、それは家にあるものになる。


 家にあるものについて、こちらは何も言わない。言う形が九年前から無い。


 無いものが、そのころには数えきれなくなっていた。


            *


 三学期に入ってから、小柳と話したことは無い。


 一月から三月までで、廊下ですれ違ったのは十四回になる。数えてある。


 十四回とも、向こうは見ない。用が無いからになる。


 あの日は用があった。読み合いの相手だったので、用があった。


 用があった時間は、たぶん十五分くらいになる。二年で十五分だ。


 用が終われば、見なくなる。そういう人だと、こちらは知っている。


 知っているのに、その冬は何度か、廊下で先にそちらを見ていた。


            *


 言ったことがあるかどうかを、僕はその場で数えられなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。