第078話 大丈夫
十一月の体重は、五十五キロだった。
九月が五十八キロなので、二か月で三キロ落ちている。
身長は一年の秋から動いていなかった。
落ちた三キロが、どこから落ちたのかを、僕は特定できない。
鏡で見ても分からない。分かるのは、ズボンのベルトの穴が一つ動いたことだけになる。
*
夜中に下りる回数が、増えていた。
十月は十一回で、十一月は十九回になる。三十日のうちの十九日だ。
下りるのは水を飲むためになる。台所でコップに一杯飲んで、少し立つ。
コップは二百ミリリットルのやつで、一杯で足りる。二杯飲んだ日は三回しかない。
立っている時間は短い。一分もない。時計を見ていないので、正確には言えない。
*
階段は、四段目と七段目が鳴る。
踏む場所を、こちらは変えていない。変えれば鳴らないはずだ。
変えないでいる理由を、いま考えても出てこない。
鳴っていることを知りながら、同じ場所を十九回踏んでいる。
*
この二年、夜中に下りて母に会ったことは一度も無い。
いないのが決まりのようになっていた。決めた人はいない。
階段の下の電気は、去年の一月から点いたままになる。
点けたのは母だ。言われていない。訊いてもいない。
訊くと消えるかもしれない、と思ったことを、前に書いた。
*
電気代のことを、母は一度も言わない。
物を長く使う家だ。傘は骨が折れるまで捨てないし、弁当箱は十年前のものが出てくる。
その家で、廊下の電気だけが一年ずっと点いている。
きちんとしている人が、一つだけきちんとしていないことをしている。
*
十一月十九日の夜に、台所に母がいた。
*
立っていた。座っていない。
流しのほうを向いていて、こちらが下りたので振り向いた。
振り向くまでに、一拍ある。足音でもう分かっていたはずだ。
分かっていて、一拍待ってから振り向いた。
*
母は、パジャマの上に何か羽織っていた。
薄い色のもので、袖が長い。手が半分隠れている。
髪はまとめていなかった。まとめていない母を、こちらは年に何度も見ない。
朝はもうまとめてある。夜はこちらが先に上がる。あいだが抜けている。
*
台所で何をしていたのかは、分からない。
湯呑みは出ていた。中身が入っていたかどうかは見ていない。
記録帳は見えなかった。座卓のほうにあったのかもしれない。
どちらだったかを、僕はいまも決めていない。決める材料が無い。
*
「大丈夫?」
*
大丈夫です、と答えた。
*
答えるまでの時間は、零だった。
考えていない。考える手前で出ている。
口が先に動くのは、その年で六回目になる。六回のうち、四回はその秋から冬に入っている。
*
中学二年の秋に、同じ問答をしている。
階段の踊り場で、訊いたのは佐久間先生だった。顔を見ないで訊かれた。
高梨、大丈夫か、と言われて、大丈夫です、と答えた。
あのときも、答えるまでは零になる。
*
あのあと、僕は給食の残した量を数えた。
三日で、どれくらい残したかを紙に書いている。一日目が三分の一、二日目が半分、三日目が三分の一だ。
量が分かるものは、管理できる。管理できるものについては、大丈夫だと言える。
そこまで行って、そのときは終わった。
*
十一月の夜には、管理できるものが一つも無い。
体重は落ちている。順位は下がっている。記録は動かない。眠りは自分で作れない。
四つとも、こちらの手の中に無い。
無いのに、同じ答えが出た。出方まで同じだった。
*
大丈夫です、と言ったので、大丈夫ということになった。
なったものを、こちらは訂正できない。
訂正するには、いまの言い方を取り消して、別のものを出す手順が要る。
取り消す形を、僕は持っていない。
持っていないものが、また一つそこにあった。
*
世間では、こういうときに本当のことを言うのだと思う。
眠れていません、でもいいし、しんどいです、でもいい。どちらも二秒で言える。
二秒が出てこない。出てこないのは、だらしないからではない。
だらしないほうが、まだ説明がつく。説明のつかないものを、こちらはまた一つ抱えた。
抱えたものに、名前をつけないまま冬へ入った。
*
母は、そう、と言った。
それから、部屋へ戻っていった。
戻るまでに、湯呑みを流しに置いた。置く音が一つした。
その音のあと、階段を上がる音が、四段目と七段目で鳴った。
*
もう一回訊いてください、と言おうとした。
*
その夜から、母は夜中に台所へ出てこなくなった。
十一月の残りで、こちらが下りたのは八回ある。八回とも、台所には誰もいない。
十二月も、一月も、二月も同じだった。
一度出て、一度で終わった。
*
終わった理由を、僕は訊いていない。
訊く形が無い。夜中の話は、朝になると家の中に無いものになる。
朝の食卓で、母は前の晩のことを一度も出さない。
出さないので、こちらも出さない。出さないでいると、無かったことになる。
無かったことにしておくものが、その冬にまた増えた。
*
母は一度も、大丈夫かと訊かなかった。
九年間で、あの一度だけになる。
あの一度も、こちらが大丈夫だと答えたので、無かったのと同じ形になった。
同じ形にしたのは、こちらになる。
*
訊かれてよかったのかどうかを、僕はいまも決められない。
訊かれなければ、答えなくて済んだ。答えなければ、確定もしなかった。
訊かれたことで、大丈夫が家の中に置かれた。置かれたものは、二年半動かない。
動かないものを前にして、こちらから何かを言う形が無い。
*
十一月の後半は、眠るまでが長かった。
布団に入って、天井を見る。天井の木目の数は、小学生のときから知っている。
数えているうちに眠るのが、去年までのやり方だった。
いまは、数え終わっても眠くならない。二回目を数えることになる。
二回目の途中で、どこまで数えたか分からなくなる。分からなくなるところが、毎回違う。
*
手は、冬に入る前から冷たかった。
指の先だけになる。手のひらは温かい。境目が、第二関節のあたりにある。
布団の中で、両手を腹のところに入れる。それで温まるまでに、去年の倍はかかる。
かかる時間を、こちらは数えていない。数えると、余計に眠れなくなるからだ。
数えないと決めたのは、そのころが初めてになる。
*
口の中は、朝に苦い。
歯を磨いても、少し残る。昼には消えている。
消えるので、誰にも言っていない。言う形も無い。
こういうものを言う相手が、九年間で一人もいなかった。
いなかったのは、たぶんこちらの作り方の問題になる。
*
十一月の学校は、いつもどおりだった。
遅刻も欠席も無い。二学期の九十日で、遅刻が零、欠席が零になる。
提出物は二十二あって、二十二とも期限の前に出した。授業中に眠ったことも無い。
眠くならない。眠れないのに、眠くならない。
二つが同じものだと、そのころは思っていた。
*
ちゃんとやっている、と外から見れば言えると思う。
立派だとまでは言われない。だらしないとも言われない。
どちらも言われない位置に、こちらはずっといる。
その位置には、名前がついていない。真ん中という場所に名前がついていないのと、同じになる。
*
二年の二学期で、僕が家で口に出した文の数を、あとで数えたことがある。
覚えている範囲でしか数えられないので、正確な数にはならない。それでも百に届かなかった。
九十日ぶんで、百に足りない。一日に一つあるかどうかになる。
そのうちの一つが、大丈夫です、だった。
いちばん短いものが、いちばん長く残っている。
*
ちゃんと話しなさい、と言われたことは一度も無い。
しっかりしなさい、も無い。うちで飛んでくる言葉は、そもそも数が少ない。
少ないほうが立派な家に見えると、こちらは思っていた。
当たり前のように思っていた。当たり前でないものを、また当たり前と呼んでいる。
呼び方を直すには、外に出て、別の家を見ないといけない。見る機会は来なかった。
*
千尋は、中学二年になっている。
部活は吹奏楽で、家で楽器の話をする。楽器の名前を、こちらは覚えていない。
夕飯で千尋が話す時間は、五分か六分になる。こちらは長くて三十秒だ。
夕飯のときに、その日あったことを話す。母は最後まで聞く。
僕は、その横で食べている。話す用が無いので、話していない。
同じ食卓で、片方の一日が言葉になって、片方はならない。二年前にも同じことを書いた。
*
千尋が一度、こちらを見て何か言いかけた。
言いかけて、やめた。やめたところを、僕は見ている。
何を言いかけたのかは分からない。訊いていない。
訊かなかったのは、答えを聞く用意が無かったからだと思う。
思うだけで、いまも確かめていない。
*
十二月に入って、三者面談があった。
去年と同じ部屋で、石油ストーブが同じ場所にある。担任は二年の担任に替わっている。
母は、去年と同じ灰色のコートを着ていた。
三年で二回しか出てこない服だと、去年書いた。三回目になる。
*
面談で出た数は、二八三だった。
担任は、それについて三十秒くらい話した。三十秒は、去年より長い。
長いのに、中身は覚えていない。数の話だったと思う。
母は、そうですか、と一度言った。それだけになる。
部屋を出るまでに、こちらは一度も口を開いていない。
*
帰り道で、母は肉まんを買わなかった。
去年は買った。二人で一つずつ持って、歩きながら食べた。
その日は、コンビニの前を通っただけになる。
通っただけだったことを、僕はその夜に何度か思い出した。
せっかく去年は買ったのに、という言い方が、そのとき一度だけ出た。
出た先が母になる。母へ向いたのは、その年で初めてだった。
向いたことに気づいて、こちらは自分のほうへ向け直した。向け直すのは慣れている。
思い出したことを、いま書いている。
*
大丈夫です、と答えたのは、十一月の一度だけだ。
そのあと、大丈夫かどうかを訊かれた場面が来ていない。
来ていないので、答え直す機会も来ない。
機会というのは、たぶん向こうから来るものになる。
こちらから作る形を、僕はやはり持っていなかった。
*
中学のときと、二年の十一月と、二回訊かれた。
訊かれて、僕はまた同じことを言った。




