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自慢の息子  作者: 智珠
第五部 沈黙

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第076話 飽きた

 九月二十八日に、顧問へ言った。


 職員室の入口で、名前を呼んで、入って、机の横に立つ。


 やめます、とだけ言った。言うまでに、六秒くらいかかっている。


            *


 顧問は、そうか、と言った。


 理由は訊かれなかった。


            *


 手続きは無い。


 退部届のような紙は、この学校に無かった。名簿から名前を消すだけになる。


 消すのは顧問で、こちらは何も書かない。押す印も無い。


 九年で、紙を一枚も使わずに何かをやめたのは、その日が初めてになる。


            *


 書道をやめたときは、月謝袋が残った。


 ピアノは、母がやめると決めた。あのときも、こちらは何も書いていない。


 書いていないのに、両方とも紙が残っている。


 陸上は、何も残らなかった。


            *


 二年半で走った距離を、僕はノートから出せる。


 三百九十日ぶんを足すと、二千九百六十キロになる。


 どこまで行ける距離なのかは、調べていない。調べようと思ったこともなかった。


 その数を、家の中で一度も言っていない。言う場面が無い。


 紙にならないものは、家の中に存在しない。中学のときにそう書いた。


 書いたときと、いまとで、その一行の意味が少し変わっている。


            *


 部にいたのは、一年の六月十三日から二年の九月二十八日までになる。


 四百七十二日ある。そのうち走った日が三百九十日で、休みが八十二日だ。


 記録会に出たのは十回になる。千五百だけで、ほかの種目には一度も出ていない。


 十回のうち、中学の記録を超えたのは一回だけだ。二月の四分十九秒になる。


 きちんと数えられるものだけが、こちらには残っている。


            *


 やめると決めた日が、どこにも見当たらない。


 前の晩に考えていない。朝、電車の中でも決めていなかった。


 職員室の入口に立った時点では、まだ何も決まっていなかったと思う。


 思うだけで、確かめようがない。口が先に動いた形になる。


 口が先に動くのは、その年で五回目になる。


            *


 最後に走ったのは、九月二十六日の土曜だった。


 距離走で、十二キロある。設定は一キロ四分三十五秒で、最後の二本だけ上げた。


 上げたのは、林さんのメニューにそう書いてあったからになる。写したのはこちらだ。


 最後だとは知らずに走っている。


            *


 その日のことを、僕はノートで確かめられる。


 三百九十行目に、十二キロ、四・三五、ラスト二キロ四・二〇、と書いてある。


 書いたのはその日の夜になる。書くときに、次の行のことは考えていない。


 次の行が来ないことを、そのときは知らなかった。


            *


 日誌のほうにも残っている。


 九月二十六日は岡田の当番で、タイムの欄が全部埋まっていた。


 こちらの名前の横に、四本ぶんの数が入っている。


 ひとことの欄は、その日も空いている。


            *


 最後だと知っていたら、何か違うことをしたのかどうかは分からない。


 速く走ったのか、ゆっくり走ったのか、どちらも想像できなかった。


 想像するための形を、こちらは持っていない。


 持っていないので、その日はただの土曜のままになっている。


            *


 二十九日の昼に、廊下で三浦に呼び止められた。


 二年になってから、教室では会っていない。文系と理系で階が違う。


 廊下ですれ違うのは、月に何度かある。呼び止められたのは、その日が初めてだった。


            *


 「なんでやめんの?」


            *


 飽きた、と答えた。


            *


 答えるまでに、一秒か二秒ある。


 用意した答えは無かった。今度は三つも出てこない。


 二年前は、三つ持っていた。三つとも出所が分かって、口から出たのは別のものだった。


 その日は、持っているものが零で、口から出たのが一つになる。


            *


 飽きた、という語を、僕はそれまで使ったことがない。


 まあまあ、が去年の五月。なんとなく、が九月。そう、が十一月になる。


 いいよ、が今年の六月で、飽きた、が九月だ。


 五つとも、口のほうが先に出ている。


            *


 飽きたのかどうかを、僕はその場で検討していない。


 検討する形が無い。飽きるというのが、どういう状態なのかを知らない。


 好きかどうかを訊かれたのが九年間で一度だけだったのと、たぶん同じところにある。


 好きも、飽きたも、こちらの中で数になったことが無い。


 数になっていないものは、比べられない。比べられないものを、僕は決められない。


            *


 三浦は、ふうん、と言った。


 二年前と同じ言い方になる。あのときは、そのあとに自分のほうを言った。


 おれは、終わったあとにメシがうまいから、と言った。訊き返される前に言っている。


 今度は言わなかった。


            *


 じゃあ、と言って、階段のほうへ行った。


 行くまでに、二歩ぶんこちらを見ていた。二歩というのは、こちらの数え方になる。


 見ていた、というのも、こちらがそう思っただけかもしれない。


 あの人は、用の無いときに人を見ない人だ。用があったのかどうかは、訊いていない。


            *


 なんで訊きに来たんですか、と訊こうとした。


            *


 岡田には、その日の放課後に言った。


 部室で、荷物を出しているときになる。ロッカーの札を外すのに、少し力が要った。


 やめることになった、と言った。ことになった、という言い方をしている。


 自分で決めたのに、決まったほうの形で言った。そこは、いまでも直せない。


            *


 「え」


            *


 岡田は、そのあと少し黙った。


 黙っていたのは、三秒くらいある。三秒は、あの人にしては長い。


 それから言った。


            *


 「長距離、二人っすね」


            *


 数で返ってきた。


 こちらが去年からずっとやっていることを、そのまま返された形になる。


 返されて、初めてそれを外から見た。外から見ると、それは何も言っていない。


 何も言っていないものを、僕は九年間ずっと出してきた。


            *


 岡田は、そのあと何も訊かなかった。


 なんで、とも言わない。三浦だけが訊きに来て、岡田のほうは訊かなかった。


 二人の違いを、僕はうまく言えない。言えないまま、部室を出た。


 出るときに、扉の音が二回した。開けるときと、閉めるときになる。


 その音を、そのあと二年半聞いていない。


            *


 ロッカーから出したのは、シューズと、着替えと、ノートだった。


 三つとも、家に持って帰った。捨てていない。


 シューズは、玄関の下駄箱のいちばん下に入れた。前の一足の隣になる。


 二足並んでいるのを、母は見ていると思う。何も言われていない。


            *


 ノートは、机の引き出しに入れた。


 束の下ではない。答案の束の上でもない。左の引き出しに、一冊だけで入っている。


 三百九十行で終わっている。最後の行の下は、白いままになる。


 白いところを、僕はその夜に一度だけ見た。


            *


 母は、二日後に気づいた。


 帰る時刻が早くなるからになる。三日続けて同じ時刻に帰れば、誰でも分かる。


 三日目の夕飯のときに、一つだけ訊かれた。


            *


 「時間、どうするの」


            *


 勉強します、と答えた。


 その答えは用意してあった。用意したのは、たぶん職員室へ行く前になる。


 やめると決めた覚えは無いのに、そのあとの答えだけは先にできている。


 順番がおかしい。おかしいことに、そのときは気づいていない。


            *


 世間では、こういうときに親が何か言うものらしい。


 続けたら、とか、あと一年だから、とか、そういう形になると思う。


 うちでは出ない。出ないので、こちらは反論も同意もしないで済む。


 済ませたぶんが、また一つ増えた。増えたものを、僕はまだ数えていた。


 数えているのに、合計が出てこない。合計の出ないものを数えるのは、たぶん数えたことにならない。


            *


 母は、そう、と言った。


 やめたことについては、何も言わない。なんで、とも訊かれない。


 二年半のあいだ、母は一度も部活のことを訊かなかった。やめた日も訊かなかった。


 訊かれないので、こちらは理由を作らずに済んだ。


 普通は、ここで一度は訊かれるものらしい。うちには、その一度が無い。


 無いのは母のせいではない。訊かせない形を、こちらが九年かけて作ってきた。


 当たり前のようにそうしてきたので、いつからそうなのかも分からない。


 済んだのに、そのぶんが軽くなった感じは一つも無い。


            *


 やめて二週間ほどたって、弁当のごはんが少し減った。


 二週間というのは、十四日になる。十四日待ってから減らしたことになる。


 一日目に減らさなかった理由も、十五日目に減らした理由も、こちらは知らない。


 茶碗で二杯半だったものが、二杯に戻っている。去年の量になる。


 言われていない。訊いてもいない。


 走らなくなったことを、母は知っている。知っていることを、量だけで示してくる。


 示された、と書いていいのかどうかは分からない。母は何も示していないのかもしれない。


            *


 十月から、放課後が空いた。


 二時間ある。週に六日で、月に四十八時間くらいになる。


 その二時間を、こちらは机につく側へ回した。しっかり回したつもりでいた。


 回したぶん、進む量が増えるはずだった。


 増えていない。十月に進んだページは、九月とほとんど同じになる。


 同じになる理由を、僕は書き出していない。書き出すのをやめたのは七月からだ。


            *


 ちゃんと座っている。時間は増えた。


 座っている時間だけが増えて、進む量が増えない。


 だらしないからではない。だらしないなら、直し方が決まる。


 直し方の決まらないものを、こちらはまた名前のないまま持つことになった。


 名前のないものが、その秋から二つになる。一つは七月からで、一つは十月からだ。


            *


 やめた理由を、いま並べることはできる。


 記録が七か月動かない。量を増やしても動かない。


 下に一人入って、こちらが上になった。上になっても、渡すものが何も無い。


 同じ形をした一年が入ってきて、日誌の同じ欄が空いている。


 三つとも本当だ。三つとも、そのころのこちらには言葉になっていない。


            *


 どれが理由なのかを、僕はいまも決めていない。


 三つ全部かもしれない。どれも違う可能性がある。


 決めていないものを、こちらはずっと持ち歩いている。


 持ち歩いているものは、そのうち軽くなると思っていた。ならなかった。


            *


 飽きた、というのは、たぶんいちばん短い答えになる。


 短いので、その場が終わる。終わらせるための語を、こちらは無意識に選んでいる。


 選び方だけは、九年かけてきちんと身についていた。


 身についたやり方で、いちばん大事なところを片づけた。


            *


 やめたことを、恥ずかしいとは思わなかった。


 立派なことをしたとも思っていない。どちらの言い方も出てこない。


 情けない、も出なかった。あれは、下がったときに出る言い方になる。


 やめるのは、下がるのとは別のものらしい。別だと分かったのは、ずっとあとになる。


 出てこない場所に何が入るはずだったのかを、僕はいまも知らない。


            *


 三浦は、そのあとその話を出さなかった。


 次の日も、次の週も出ない。廊下ですれ違っても、走る話にならない。


 二年前と同じだ。あの人は、その場で出たものをその場で言う。


 言ったあとに置いておかない。置いておくのは、こちらの癖になる。


            *


 二年前は、そのあとに自分のほうを言った。今度は言わなかった。


 言わなかった理由を、僕は訊いていない。


 訊いていないので、こちらの中では、言わなかったことだけが残る。


 残ったものを、僕はいまも数え直している。


            *


 飽きた、という語を、僕はその日に初めて使った。

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