第076話 飽きた
九月二十八日に、顧問へ言った。
職員室の入口で、名前を呼んで、入って、机の横に立つ。
やめます、とだけ言った。言うまでに、六秒くらいかかっている。
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顧問は、そうか、と言った。
理由は訊かれなかった。
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手続きは無い。
退部届のような紙は、この学校に無かった。名簿から名前を消すだけになる。
消すのは顧問で、こちらは何も書かない。押す印も無い。
九年で、紙を一枚も使わずに何かをやめたのは、その日が初めてになる。
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書道をやめたときは、月謝袋が残った。
ピアノは、母がやめると決めた。あのときも、こちらは何も書いていない。
書いていないのに、両方とも紙が残っている。
陸上は、何も残らなかった。
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二年半で走った距離を、僕はノートから出せる。
三百九十日ぶんを足すと、二千九百六十キロになる。
どこまで行ける距離なのかは、調べていない。調べようと思ったこともなかった。
その数を、家の中で一度も言っていない。言う場面が無い。
紙にならないものは、家の中に存在しない。中学のときにそう書いた。
書いたときと、いまとで、その一行の意味が少し変わっている。
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部にいたのは、一年の六月十三日から二年の九月二十八日までになる。
四百七十二日ある。そのうち走った日が三百九十日で、休みが八十二日だ。
記録会に出たのは十回になる。千五百だけで、ほかの種目には一度も出ていない。
十回のうち、中学の記録を超えたのは一回だけだ。二月の四分十九秒になる。
きちんと数えられるものだけが、こちらには残っている。
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やめると決めた日が、どこにも見当たらない。
前の晩に考えていない。朝、電車の中でも決めていなかった。
職員室の入口に立った時点では、まだ何も決まっていなかったと思う。
思うだけで、確かめようがない。口が先に動いた形になる。
口が先に動くのは、その年で五回目になる。
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最後に走ったのは、九月二十六日の土曜だった。
距離走で、十二キロある。設定は一キロ四分三十五秒で、最後の二本だけ上げた。
上げたのは、林さんのメニューにそう書いてあったからになる。写したのはこちらだ。
最後だとは知らずに走っている。
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その日のことを、僕はノートで確かめられる。
三百九十行目に、十二キロ、四・三五、ラスト二キロ四・二〇、と書いてある。
書いたのはその日の夜になる。書くときに、次の行のことは考えていない。
次の行が来ないことを、そのときは知らなかった。
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日誌のほうにも残っている。
九月二十六日は岡田の当番で、タイムの欄が全部埋まっていた。
こちらの名前の横に、四本ぶんの数が入っている。
ひとことの欄は、その日も空いている。
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最後だと知っていたら、何か違うことをしたのかどうかは分からない。
速く走ったのか、ゆっくり走ったのか、どちらも想像できなかった。
想像するための形を、こちらは持っていない。
持っていないので、その日はただの土曜のままになっている。
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二十九日の昼に、廊下で三浦に呼び止められた。
二年になってから、教室では会っていない。文系と理系で階が違う。
廊下ですれ違うのは、月に何度かある。呼び止められたのは、その日が初めてだった。
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「なんでやめんの?」
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飽きた、と答えた。
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答えるまでに、一秒か二秒ある。
用意した答えは無かった。今度は三つも出てこない。
二年前は、三つ持っていた。三つとも出所が分かって、口から出たのは別のものだった。
その日は、持っているものが零で、口から出たのが一つになる。
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飽きた、という語を、僕はそれまで使ったことがない。
まあまあ、が去年の五月。なんとなく、が九月。そう、が十一月になる。
いいよ、が今年の六月で、飽きた、が九月だ。
五つとも、口のほうが先に出ている。
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飽きたのかどうかを、僕はその場で検討していない。
検討する形が無い。飽きるというのが、どういう状態なのかを知らない。
好きかどうかを訊かれたのが九年間で一度だけだったのと、たぶん同じところにある。
好きも、飽きたも、こちらの中で数になったことが無い。
数になっていないものは、比べられない。比べられないものを、僕は決められない。
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三浦は、ふうん、と言った。
二年前と同じ言い方になる。あのときは、そのあとに自分のほうを言った。
おれは、終わったあとにメシがうまいから、と言った。訊き返される前に言っている。
今度は言わなかった。
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じゃあ、と言って、階段のほうへ行った。
行くまでに、二歩ぶんこちらを見ていた。二歩というのは、こちらの数え方になる。
見ていた、というのも、こちらがそう思っただけかもしれない。
あの人は、用の無いときに人を見ない人だ。用があったのかどうかは、訊いていない。
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なんで訊きに来たんですか、と訊こうとした。
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岡田には、その日の放課後に言った。
部室で、荷物を出しているときになる。ロッカーの札を外すのに、少し力が要った。
やめることになった、と言った。ことになった、という言い方をしている。
自分で決めたのに、決まったほうの形で言った。そこは、いまでも直せない。
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「え」
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岡田は、そのあと少し黙った。
黙っていたのは、三秒くらいある。三秒は、あの人にしては長い。
それから言った。
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「長距離、二人っすね」
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数で返ってきた。
こちらが去年からずっとやっていることを、そのまま返された形になる。
返されて、初めてそれを外から見た。外から見ると、それは何も言っていない。
何も言っていないものを、僕は九年間ずっと出してきた。
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岡田は、そのあと何も訊かなかった。
なんで、とも言わない。三浦だけが訊きに来て、岡田のほうは訊かなかった。
二人の違いを、僕はうまく言えない。言えないまま、部室を出た。
出るときに、扉の音が二回した。開けるときと、閉めるときになる。
その音を、そのあと二年半聞いていない。
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ロッカーから出したのは、シューズと、着替えと、ノートだった。
三つとも、家に持って帰った。捨てていない。
シューズは、玄関の下駄箱のいちばん下に入れた。前の一足の隣になる。
二足並んでいるのを、母は見ていると思う。何も言われていない。
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ノートは、机の引き出しに入れた。
束の下ではない。答案の束の上でもない。左の引き出しに、一冊だけで入っている。
三百九十行で終わっている。最後の行の下は、白いままになる。
白いところを、僕はその夜に一度だけ見た。
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母は、二日後に気づいた。
帰る時刻が早くなるからになる。三日続けて同じ時刻に帰れば、誰でも分かる。
三日目の夕飯のときに、一つだけ訊かれた。
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「時間、どうするの」
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勉強します、と答えた。
その答えは用意してあった。用意したのは、たぶん職員室へ行く前になる。
やめると決めた覚えは無いのに、そのあとの答えだけは先にできている。
順番がおかしい。おかしいことに、そのときは気づいていない。
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世間では、こういうときに親が何か言うものらしい。
続けたら、とか、あと一年だから、とか、そういう形になると思う。
うちでは出ない。出ないので、こちらは反論も同意もしないで済む。
済ませたぶんが、また一つ増えた。増えたものを、僕はまだ数えていた。
数えているのに、合計が出てこない。合計の出ないものを数えるのは、たぶん数えたことにならない。
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母は、そう、と言った。
やめたことについては、何も言わない。なんで、とも訊かれない。
二年半のあいだ、母は一度も部活のことを訊かなかった。やめた日も訊かなかった。
訊かれないので、こちらは理由を作らずに済んだ。
普通は、ここで一度は訊かれるものらしい。うちには、その一度が無い。
無いのは母のせいではない。訊かせない形を、こちらが九年かけて作ってきた。
当たり前のようにそうしてきたので、いつからそうなのかも分からない。
済んだのに、そのぶんが軽くなった感じは一つも無い。
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やめて二週間ほどたって、弁当のごはんが少し減った。
二週間というのは、十四日になる。十四日待ってから減らしたことになる。
一日目に減らさなかった理由も、十五日目に減らした理由も、こちらは知らない。
茶碗で二杯半だったものが、二杯に戻っている。去年の量になる。
言われていない。訊いてもいない。
走らなくなったことを、母は知っている。知っていることを、量だけで示してくる。
示された、と書いていいのかどうかは分からない。母は何も示していないのかもしれない。
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十月から、放課後が空いた。
二時間ある。週に六日で、月に四十八時間くらいになる。
その二時間を、こちらは机につく側へ回した。しっかり回したつもりでいた。
回したぶん、進む量が増えるはずだった。
増えていない。十月に進んだページは、九月とほとんど同じになる。
同じになる理由を、僕は書き出していない。書き出すのをやめたのは七月からだ。
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ちゃんと座っている。時間は増えた。
座っている時間だけが増えて、進む量が増えない。
だらしないからではない。だらしないなら、直し方が決まる。
直し方の決まらないものを、こちらはまた名前のないまま持つことになった。
名前のないものが、その秋から二つになる。一つは七月からで、一つは十月からだ。
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やめた理由を、いま並べることはできる。
記録が七か月動かない。量を増やしても動かない。
下に一人入って、こちらが上になった。上になっても、渡すものが何も無い。
同じ形をした一年が入ってきて、日誌の同じ欄が空いている。
三つとも本当だ。三つとも、そのころのこちらには言葉になっていない。
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どれが理由なのかを、僕はいまも決めていない。
三つ全部かもしれない。どれも違う可能性がある。
決めていないものを、こちらはずっと持ち歩いている。
持ち歩いているものは、そのうち軽くなると思っていた。ならなかった。
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飽きた、というのは、たぶんいちばん短い答えになる。
短いので、その場が終わる。終わらせるための語を、こちらは無意識に選んでいる。
選び方だけは、九年かけてきちんと身についていた。
身についたやり方で、いちばん大事なところを片づけた。
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やめたことを、恥ずかしいとは思わなかった。
立派なことをしたとも思っていない。どちらの言い方も出てこない。
情けない、も出なかった。あれは、下がったときに出る言い方になる。
やめるのは、下がるのとは別のものらしい。別だと分かったのは、ずっとあとになる。
出てこない場所に何が入るはずだったのかを、僕はいまも知らない。
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三浦は、そのあとその話を出さなかった。
次の日も、次の週も出ない。廊下ですれ違っても、走る話にならない。
二年前と同じだ。あの人は、その場で出たものをその場で言う。
言ったあとに置いておかない。置いておくのは、こちらの癖になる。
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二年前は、そのあとに自分のほうを言った。今度は言わなかった。
言わなかった理由を、僕は訊いていない。
訊いていないので、こちらの中では、言わなかったことだけが残る。
残ったものを、僕はいまも数え直している。
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飽きた、という語を、僕はその日に初めて使った。




