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自慢の息子  作者: 智珠
第五部 沈黙

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第075話 二八三

 二学期の実力テストは、九月三日と四日だった。


 二年の二回目になる。五教科で、二日に分けてやる。


 範囲は、一年でやったところと、二年の一学期になる。範囲の紙は八月のうちに配られた。


 夏休みの表には、その日程が入っている。書いたのは僕だ。


            *


 夏のあいだ、僕は前の年と同じ形で動いた。


 午前が練習で、午後が講習になる。弁当を二つ持って出た朝が、その夏は十九回ある。


 去年が二十二回なので、三回減っている。減ったのは、練習が三日休みになったからだ。


 休みは、顧問の都合だった。理由は貼り紙に書いてある。


            *


 九月三日の一教科目は、数学だった。


 大問が四つある。三つ目の(2)で、また手が止まった。


 止まったのは、解けなかったからではない。解けていた。


 七月と同じ形になる。同じ形だと分かっていて、同じことをした。


            *


 その日、僕は三つ空けた。


 数学で一つ、英語で一つ、古典で一つになる。


 三つとも、書けたものだ。書ける状態で、書かなかった。


 三つ目の古典を空けたときには、もう手が慣れていた。


 慣れる、というのは、たぶんこういうことだと思う。


            *


 配点は、数学が十点で、英語が六点、古典が四点だった。


 合計で二十点になる。五教科の合計は五百点なので、二十点は四パーセントになる。


 四パーセントというのは、大きく見える数だ。


            *


 結果は九月十六日に出た。


 二八三だった。三二〇のうちの二八三になる。


 七月の期末が二七九なので、四つ下がっている。


 四つだった。


            *


 二十点空けて、四つになる。


 計算が合わない気がして、僕は三回確かめた。合っていた。


 合っている理由は、その日のうちに分かった。分かってしまった。


            *


 ちゃんと落とすつもりでやったわけではない。


 つもり、という語が、そもそも合っていない。つもりがあったなら、量を決めたはずだ。


 量を決めていない。手が止まった場所で止まっただけになる。


 だらしないとも思わなかった。情けないとも思わなかった。


 思う先が、どちらにも向かない。向かないものを、こちらは名前のないまま持っていた。


            *


 上のほうは、点がつまっている。


 一点のあいだに、七人も八人もいる。一点動くと十番動く。


 下のほうは、つまっていない。同じ一点のあいだに、二人しかいない場所もある。


 二七九のあたりでは、一点で二番くらいしか動かない。


 二十点で四十番のはずが、四つにしかならないのは、そこにいるからになる。


            *


 落ちるにも、上のほうにいたほうが速い。


 上にいる人が一問落とすと、十番くらい下がる。下にいる人が四問落としても、四つしか動かない。


 この形を、僕はその日に初めて理解した。


 理解したことを、誰にも言っていない。言う相手がいない。


            *


 落ちるやり方を、僕は知らなかった。


 上がるやり方は九年やってきた。枚数を増やす。時間を足す。回数のほうも重ねる。


 落ちるほうは、教わっていない。教わる場面が無い。


 無いものを自分でやると、こういう形になる。四つしか動かない。


            *


 紙は、家で出さなかった。


 出さない紙が、その月で六枚目になる。引き出しの束の下は、もう平らではない。


 下の五枚と合わせて、厚みが一センチ近くある。閉めるときに、上の段が引っかかる。


 引っかかるのを、力で押し込んだ。押し込んだ音が、部屋の中で少し大きかった。


            *


 予備校の紙は、いまも机の右の端に置いている。


 置くと、朝には無くなって、夜には同じ位置に戻る。九月も同じだった。


 学校の紙は出さない。予備校の紙は出す。二つの扱いが分かれている。


 分けた理由は無い。無いのに、二年ずっと同じ分け方をしていた。


            *


 予備校の九月の確認テストは、教室で二十六番だった。


 二十八人のうちの二十六になる。偏差値は四十四・二だ。


 その紙を、母は見ている。四秒くらい見て、返してくる。


 見てから、何も言わない。四十四・二という数について、家で音になったことは一度も無い。


            *


 どこまで下がったら訊くんですか、と訊こうとした。


            *


 担任は、二学期の初めに一度だけ声をかけてきた。


 廊下で、高梨、と名字を呼ばれた。名字だけを呼ばれるのは、去年の六月以来になる。


 訊かれたのは、進路の希望が変わっていないかどうかだった。


 変わっていません、と答えた。それで終わった。時間にして二十秒くらいだ。


            *


 成績の話は出なかった。


 出さなかったのは、こちらが変わっていませんと答えたからだと思う。


 思うだけで、確かめていない。あの先生が何を見ていたのかは、いまも知らない。


 知らないままにしておくと、見ていなかったことになる。


 なったことにしておくほうが、こちらには楽になる。


            *


 普通は、こういうときに親が呼ばれるものらしい。


 二年で二百番台まで落ちたら、面談があるのだと思う。テレビではそうなっている。


 うちには来ていない。来ていないのは、こちらが紙を出していないからではない。


 学校の紙は、家へ郵送される決まりが無い。三者面談は十二月まで来ない。


 来ないあいだに、こちらは自分で下がりつづけていた。


            *


 小柳は、二年でも上のほうにいる。


 噂で聞くだけになる。文系の一けたらしい、という話が九月に出た。


 一けたというのは、三二〇のうちの九より上にいるという意味になる。


 こちらは二八三だ。あいだに、二百七十人以上いる。


 数えたのは、そのときが最後になる。


            *


 廊下ですれ違うことは、月に何度かある。


 向こうは見ない。用の無いときに人を見ない人だ。


 こちらは見ている。見ていることに気づかれたことは、たぶん一度も無い。


 気づかれていないというのも、こちらが決めているだけになる。


            *


 母は一度も、二学期の成績を訊かなかった。


 いつ返ってくるか、も訊かれていない。去年までは、それだけは訊かれた。


 訊かれなくなったのがいつからかを、僕は特定できない。


 特定できないものが、その年から増えている。


            *


 九月の終わりに、母が僕の上履きを買い替えた。


 前のは、去年の四月に買ったものになる。かかとの内側が破れていた。


 破れたのは夏のあいだで、こちらは言っていない。


 新しいのが、玄関の棚に袋のまま置いてあった。サイズは合っている。


            *


 合っているのは、当たり前だと思っていた。


 母は、僕の足の大きさを知っている。訊かれたことは無い。


 古いほうを見れば分かる、というのが答えなのかもしれない。


 だとしたら、母は破れたところも見ていることになる。


 見ていて、破れたことについては何も言わない。買うほうだけをやる。


            *


 世間では、こういうときに、破れてるよ、と言うのだと思う。


 言えば、こちらは、すみません、と答える。それで終わる。


 終わる形が用意されているのに、母はそこを通らない。通らずに、買う。


 通らないぶん、こちらは何も返さないで済む。


 済ませたものが、九年ぶん溜まっている。


            *


 きちんとした人だ、と外の人は言うと思う。


 言われたことがある。小学校の参観日の廊下で、一度だけ聞いた。


 しっかりしたお母さんね、という形だった。誰が言ったのかは覚えていない。


 聞いたとき、こちらはそれを正しいと思った。いまも正しいと思っている。


 正しいものが、家の中で何をしているのかだけが、まだ書けない。


            *


 新しい上履きは、履くと足の裏が固い。


 二日で柔らかくなる。柔らかくなるまでのあいだ、廊下で音が変わる。


 ゴムが新しいと、床で鳴る。鳴っているのが自分だと分かる。


 分かるので、その二日だけ、歩き方を少し変えていた。


 変えたことを、誰にも言っていない。


            *


 古い上履きは、捨てられていた。


 袋が置いてあった日の夜には、もう玄関に無い。


 捨てたのは母だ。こちらに訊いていない。


 訊かれていたら、捨てないでください、と言ったかどうかは分からない。


 言わなかったと思う。理由は、やはり書けない。


            *


 九月の練習は、量が最後まで落ちなかった。


 林さんは三年で、夏で引退している。九月からは、僕がメニューを作る側になった。


 三年生から引き継いだものを、そのまま回す。去年の林さんと同じ動きになる。


 紙に書いて、部室に貼る。曜日ごとの型は変えていない。


 変えないほうが、こちらには楽だった。


            *


 せっかく作る側になったのに、という言い方も出なかった。


 出る先が無い。誰かに向けて出す言葉なので、向ける相手がいないと立たない。


 立たないものは、そのうち出てこなくなる。出てこないものを、こちらは数えていない。


 数えていないので、いくつ無くなったかも分からない。


            *


 メニューを作るのは、思っていたより簡単だった。


 前の年の日誌を見て、同じ月の同じ週のものを写す。写して、日付だけ書き換える。


 誰も何も言わない。岡田は、そのとおりに走る。三浦もそのとおりに走る。


 二人とも、こちらが写しているとは知らない。


 知らないままで、九月は回った。


            *


 僕の千五百は、九月の記録会で四分二十三秒だった。


 四分十九秒に、四秒足りない。七か月足りないままになる。


 足りないことに、そのころは何も思わなくなっていた。


 何も思わなくなったのがいつからかを、やはり特定できない。


 ちゃんと走っている。しっかり練習している。手順は一つも崩していない。


 崩していないのに、数が動かない。動かないものを、こちらはまだ持ち続けていた。


            *


 二十点空けて、四つ下がった。


 落としても、落ちたことにしかならない。

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