第074話 書かなかった一問
一学期の期末は、七月六日から十日までだった。
五日間で九教科ある。範囲の紙は六月十九日に配られた。
部活は、その一週間前から休みに入る。六月二十九日からになる。
休みは十日までで、十二日間だ。去年と同じ形になる。
*
去年は、その十二日間で使える時間が一日あたり二時間増えた。
今年は、同じ十二日間を持っていながら、進みが去年より遅い。
教科書のページで数えると、去年が二百四十で、今年は百七十になる。
七十足りない。足りない理由を、こちらは書き出していない。
書き出すのをやめたのが七月の途中だと、前に書いた。その途中がここになる。
*
試験の三日目まで、僕はほとんど眠っていない。
布団に入る。目を閉じる。目を閉じているあいだに、外が明るくなる。
明るくなったのが分かるのは、まぶたの内側の色が変わるからだ。
変わってから起きるまでに、どれくらいあるのかは分からない。
時計を見ていない。見なかった朝が、その週に三日ある。
*
眠っていないのに、身体はいつもどおり動いた。
起きて、顔を洗って、弁当を入れて、電車に乗る。順番は変わらない。
変わらないので、外からは何も見えない。
母は、その週のあいだ、何も訊かなかった。
*
ちゃんと寝なさい、とは言われていない。
九年間、一度も言われていない。言われないので、寝る時刻はこちらが決める。
決めているのに、決めたとおりになっていない。なっていないことは誰も知らない。
知られていないものは、直さなくていい。直さなくていいものが、こちらには増えている。
増えたぶんだけ、外から見た形はきちんとしたままになる。
*
七月八日は、三時間目が数学Ⅱだった。
大問が五つある。配点は一つにつき二十点で、合計百点になる。
五つ目だけ、(1)が五点、(2)が五点、(3)が十点に分かれていた。
一つ目から順に通した。四つ目までは、途中で止まっていない。
五つ目の(1)と(2)も、続けて書いた。
*
(3)に入ったところで、残りが十二分だった。
残り時間は、黒板の横の紙に書かれる。試験のあいだ、二回だけ書き換えられる。
二回目が十二分のところで、その紙を、こちらは見た。
*
解き方は、出ていた。
(2)で出した値を、そのまま使う形になる。使い方まで頭に入っていた。
書けば、二分もかからない。式が三行と、答えが一行になる。
*
書かなかった。
*
書かないと決めた覚えが無い。
シャープペンは持っていた。持ったまま、指が紙の上で止まっている。
止まっている、というのは、動かそうとして動かないのとは違う。
動かそうとしていない。そこが、こちらにも分からない。
*
だらしないのとは違う。だらしないなら、まだ説明がつく。
情けない、とも思わなかった。思う手前で止まっている。
止まっているところに、何も名前がついていない。
名前のつかないものを、こちらはどこにも置けない。置けないので、そのままにした。
そのままにしたものは、あとから出てくる。出てきたときには、形が変わっている。
*
去年、授業で手を挙げようとして、肘のところで止まったことがある。
あれは、上げようとして上がらなかった手だった。
この日のは、書けるのに書かない手になる。
二つは違うものだと思う。思うだけで、どう違うのかは言えない。
*
十二分のあいだ、僕は数を数えていた。
教室にいるのは三十八人で、欠席が二人いる。前から四列目の、右から二番目に座っている。
紙をめくる音が、そのあいだに十九回した。前の席の人が四回で、いちばん多い。
シャープペンの芯を出す音は、数えきれない。数えきれないというのは、数えるのをやめたという意味になる。
秒針の音は、そのとき聞こえていた。聞こえるのは、手が止まっているからだ。
*
終わりの合図で、顔を上げた。
答案は後ろから前へ集められる。番号順なので、自分のが何枚目に入るかが分かる。
こちらは十二番目に入った。中学のときから、同じことを毎回やっている。
やっていることに意味は無い。意味の無いものだけが、九年間ずっと続いている。
*
教室を出てから、廊下で何も起きなかった。
誰も何も言わない。言われる用が無い。空欄は、こちらの紙の上にしかない。
昼に弁当を食べた。全部食べた。
その日の中身を、僕は覚えていない。
*
返却は七月十六日だった。
数学Ⅱは七十八点で、平均が六十一点になる。平均より十七点上だ。
空欄の(3)は十点で、書いていれば八十八点になっていた。
八十八点なら、順位がどれくらい動くかを、こちらはあとで計算した。
教科の順位で、たぶん二十番前後になる。総合では六番か七番くらいだと思う。
*
六番か七番というのは、小さい数だ。
三二〇のうちの六番なら、誰にも見えない。母にも見えない。紙を出していないからになる。
見えない幅を、こちらは自分で作った。作ったのに、作った理由が出てこない。
*
答案には、空欄のところに何も書かれていない。
間違えていれば、赤で線が入る。空欄には線が入らない。
線の入らない場所が、一つだけある紙になる。
その紙を、僕はしばらく見ていた。どれくらい見ていたかは分からない。
*
先生は、その一問について何も言わなかった。
返すときに、名前を呼んで、渡す。それだけになる。
三十八人ぶんを一人ずつ渡すのに、五分くらいかかっていた。
五分のあいだに、先生が誰かに何か言った回数は零だ。
*
空欄は、間違いほど目に留まらない。
間違えたところは、直しなさい、と言われる場合がある。
書いていないところは、何も言われない。書いていないので、直すものが無いからになる。
無いものは、指摘の形にならない。
*
その紙を、僕は家で出さなかった。
出さない紙が、その月で五枚目になる。引き出しの束の下に入れた。
入れるときに、下の四枚が動いた。押さえて、閉じた。
閉じるのに、また少し力が要る。
*
母は一度も、答案を見せなさいと言わなかった。
九年間、一度もだ。中学のころは、こちらが勝手に出していた。
出す決まりは、家のどこにも書いていない。書いていないものを、こちらが六年かけて覚えた。
覚えたものを、去年の十月に一度だけ使わなかった。
使わなかった回数が、その年から数えられなくなっている。
*
七月のはじめに、僕の部屋の窓の外にすだれが掛かった。
二階の西側で、午後になると陽が正面から入る。
入るのは、この家でこちらの部屋だけになる。千尋の部屋は東側だ。
掛けたのは母だと思う。ほかにやる人がいない。
*
すだれは、去年まで無かった。
いつ買ったのかも、いくらだったのかも知らない。
掛けるには、窓の外の金具に紐を通さないといけない。二階の窓から身を乗り出す形になる。
やっているところを、僕は見ていない。
*
すだれが掛かってから、机の上の明るさが変わった。
紙の白いところが、少し落ち着いた色になる。目のほうが楽になった。
楽になったことを、こちらは母に言っていない。
言う場面はあった。夕飯のあいだに、いくらでもあった。
言わなかった理由を、いまも書けずにいる。
*
世間では、こういうときに、助かる、と言うのだと思う。
言えば済む。二文字で済む。二文字が、この家の食卓では出てこない。
出てこないのは、母が言わないからではない。こちらが先に飲み込むからになる。
飲み込むほうが、たぶん恥ずかしくない。恥ずかしくないほうを、いつも選んできた。
選んできたぶんが、いまここに全部残っている。
*
いつ掛けたんですか、と訊こうとした。
*
母は、すだれのことを一度も言わなかった。
掛けたとも、いくらだったとも言っていない。
言わないので、こちらは礼を言う場面を作れない。作らないでいるほうが楽になる。
楽になる形を、こちらは九年かけていくつも集めてきた。
集めたものが、いまは全部、こちらを黙らせるほうに働いている。
*
期末の結果は、七月二十一日に出た。
二年の一学期で、二七九だった。三二〇のうちの二七九になる。
六月の実力テストが二七二なので、七つ下がっている。
七つというのは、誤差に近い数だ。空けた一問のぶんが、そのまま乗っている。
乗っているのに、七つにしかならない。
*
ちゃんとやっていないから下がった、という言い方は、その月には出なかった。
出なかったのは、こちらが理由を知っているからになる。
知っている理由を、誰にも言っていない。言えば、たぶん通る。
通るのに、言わない。言わないでおくと、それは無かったことになる。
無かったことにしておくものが、その夏から増えはじめた。
*
立派にやっているように見えるのは、手順が残っているからになる。
起きる。出る。走る。机につく。順番は一つも崩れていない。
崩れていないので、外から見ると去年と同じ人になる。
中で一問が空いていることは、紙の上にしか出ない。
その紙を、こちらは誰にも渡していない。
*
部活は七月十一日から再開した。
十二日ぶりに走ると、最初の二キロが遅い。去年と同じ形になる。
三本目から戻った。戻り方も去年と同じだ。
岡田が、先輩、休み明けなのに速いっすね、と言った。
いや、と答えた。いや、で済ませている。
*
三浦は、その夏、練習を一度も休まなかった。
休まないのに、大会には出ない。県の標準記録に届いていないからだ。
届かないまま、毎日来る。理由は訊いていない。
訊けば、たぶん、メシがうまいから、と言う。二年前に一度聞いている。
*
二人とも、僕が一問を空けたことを知らない。
知らせる形が無い。言う相手も無い。
部活で成績の話が出たことは、二年で一度も無かった。
出ないほうが楽だと、こちらはずっと思ってきた。
思ってきたのに、その夏だけは、誰かに数えられてみたかった。
*
夏休みの表を、僕はその年も書いた。
七枚目になる。六枚目の上に重ねて、画鋲は五つのままにした。
寝る時刻の欄には、去年と同じ数を書いた。四月から一度も変えていない数になる。
書いた数と実際の数が、去年よりもっと離れている。
離れた幅を、僕は数えていない。数えるのをやめたのは、その年の二月からだ。
*
書けたものを書かなかったのは、その日が初めてになる。




