↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
自慢の息子  作者: 智珠
第五部 沈黙

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
80/105

第074話 書かなかった一問

 一学期の期末は、七月六日から十日までだった。


 五日間で九教科ある。範囲の紙は六月十九日に配られた。


 部活は、その一週間前から休みに入る。六月二十九日からになる。


 休みは十日までで、十二日間だ。去年と同じ形になる。


            *


 去年は、その十二日間で使える時間が一日あたり二時間増えた。


 今年は、同じ十二日間を持っていながら、進みが去年より遅い。


 教科書のページで数えると、去年が二百四十で、今年は百七十になる。


 七十足りない。足りない理由を、こちらは書き出していない。


 書き出すのをやめたのが七月の途中だと、前に書いた。その途中がここになる。


            *


 試験の三日目まで、僕はほとんど眠っていない。


 布団に入る。目を閉じる。目を閉じているあいだに、外が明るくなる。


 明るくなったのが分かるのは、まぶたの内側の色が変わるからだ。


 変わってから起きるまでに、どれくらいあるのかは分からない。


 時計を見ていない。見なかった朝が、その週に三日ある。


            *


 眠っていないのに、身体はいつもどおり動いた。


 起きて、顔を洗って、弁当を入れて、電車に乗る。順番は変わらない。


 変わらないので、外からは何も見えない。


 母は、その週のあいだ、何も訊かなかった。


            *


 ちゃんと寝なさい、とは言われていない。


 九年間、一度も言われていない。言われないので、寝る時刻はこちらが決める。


 決めているのに、決めたとおりになっていない。なっていないことは誰も知らない。


 知られていないものは、直さなくていい。直さなくていいものが、こちらには増えている。


 増えたぶんだけ、外から見た形はきちんとしたままになる。


            *


 七月八日は、三時間目が数学Ⅱだった。


 大問が五つある。配点は一つにつき二十点で、合計百点になる。


 五つ目だけ、(1)が五点、(2)が五点、(3)が十点に分かれていた。


 一つ目から順に通した。四つ目までは、途中で止まっていない。


 五つ目の(1)と(2)も、続けて書いた。


            *


 (3)に入ったところで、残りが十二分だった。


 残り時間は、黒板の横の紙に書かれる。試験のあいだ、二回だけ書き換えられる。


 二回目が十二分のところで、その紙を、こちらは見た。


            *


 解き方は、出ていた。


 (2)で出した値を、そのまま使う形になる。使い方まで頭に入っていた。


 書けば、二分もかからない。式が三行と、答えが一行になる。


            *


 書かなかった。


            *


 書かないと決めた覚えが無い。


 シャープペンは持っていた。持ったまま、指が紙の上で止まっている。


 止まっている、というのは、動かそうとして動かないのとは違う。


 動かそうとしていない。そこが、こちらにも分からない。


            *


 だらしないのとは違う。だらしないなら、まだ説明がつく。


 情けない、とも思わなかった。思う手前で止まっている。


 止まっているところに、何も名前がついていない。


 名前のつかないものを、こちらはどこにも置けない。置けないので、そのままにした。


 そのままにしたものは、あとから出てくる。出てきたときには、形が変わっている。


            *


 去年、授業で手を挙げようとして、肘のところで止まったことがある。


 あれは、上げようとして上がらなかった手だった。


 この日のは、書けるのに書かない手になる。


 二つは違うものだと思う。思うだけで、どう違うのかは言えない。


            *


 十二分のあいだ、僕は数を数えていた。


 教室にいるのは三十八人で、欠席が二人いる。前から四列目の、右から二番目に座っている。


 紙をめくる音が、そのあいだに十九回した。前の席の人が四回で、いちばん多い。


 シャープペンの芯を出す音は、数えきれない。数えきれないというのは、数えるのをやめたという意味になる。


 秒針の音は、そのとき聞こえていた。聞こえるのは、手が止まっているからだ。


            *


 終わりの合図で、顔を上げた。


 答案は後ろから前へ集められる。番号順なので、自分のが何枚目に入るかが分かる。


 こちらは十二番目に入った。中学のときから、同じことを毎回やっている。


 やっていることに意味は無い。意味の無いものだけが、九年間ずっと続いている。


            *


 教室を出てから、廊下で何も起きなかった。


 誰も何も言わない。言われる用が無い。空欄は、こちらの紙の上にしかない。


 昼に弁当を食べた。全部食べた。


 その日の中身を、僕は覚えていない。


            *


 返却は七月十六日だった。


 数学Ⅱは七十八点で、平均が六十一点になる。平均より十七点上だ。


 空欄の(3)は十点で、書いていれば八十八点になっていた。


 八十八点なら、順位がどれくらい動くかを、こちらはあとで計算した。


 教科の順位で、たぶん二十番前後になる。総合では六番か七番くらいだと思う。


            *


 六番か七番というのは、小さい数だ。


 三二〇のうちの六番なら、誰にも見えない。母にも見えない。紙を出していないからになる。


 見えない幅を、こちらは自分で作った。作ったのに、作った理由が出てこない。


            *


 答案には、空欄のところに何も書かれていない。


 間違えていれば、赤で線が入る。空欄には線が入らない。


 線の入らない場所が、一つだけある紙になる。


 その紙を、僕はしばらく見ていた。どれくらい見ていたかは分からない。


            *


 先生は、その一問について何も言わなかった。


 返すときに、名前を呼んで、渡す。それだけになる。


 三十八人ぶんを一人ずつ渡すのに、五分くらいかかっていた。


 五分のあいだに、先生が誰かに何か言った回数は零だ。


            *


 空欄は、間違いほど目に留まらない。


 間違えたところは、直しなさい、と言われる場合がある。


 書いていないところは、何も言われない。書いていないので、直すものが無いからになる。


 無いものは、指摘の形にならない。


            *


 その紙を、僕は家で出さなかった。


 出さない紙が、その月で五枚目になる。引き出しの束の下に入れた。


 入れるときに、下の四枚が動いた。押さえて、閉じた。


 閉じるのに、また少し力が要る。


            *


 母は一度も、答案を見せなさいと言わなかった。


 九年間、一度もだ。中学のころは、こちらが勝手に出していた。


 出す決まりは、家のどこにも書いていない。書いていないものを、こちらが六年かけて覚えた。


 覚えたものを、去年の十月に一度だけ使わなかった。


 使わなかった回数が、その年から数えられなくなっている。


            *


 七月のはじめに、僕の部屋の窓の外にすだれが掛かった。


 二階の西側で、午後になると陽が正面から入る。


 入るのは、この家でこちらの部屋だけになる。千尋の部屋は東側だ。


 掛けたのは母だと思う。ほかにやる人がいない。


            *


 すだれは、去年まで無かった。


 いつ買ったのかも、いくらだったのかも知らない。


 掛けるには、窓の外の金具に紐を通さないといけない。二階の窓から身を乗り出す形になる。


 やっているところを、僕は見ていない。


            *


 すだれが掛かってから、机の上の明るさが変わった。


 紙の白いところが、少し落ち着いた色になる。目のほうが楽になった。


 楽になったことを、こちらは母に言っていない。


 言う場面はあった。夕飯のあいだに、いくらでもあった。


 言わなかった理由を、いまも書けずにいる。


            *


 世間では、こういうときに、助かる、と言うのだと思う。


 言えば済む。二文字で済む。二文字が、この家の食卓では出てこない。


 出てこないのは、母が言わないからではない。こちらが先に飲み込むからになる。


 飲み込むほうが、たぶん恥ずかしくない。恥ずかしくないほうを、いつも選んできた。


 選んできたぶんが、いまここに全部残っている。


            *


 いつ掛けたんですか、と訊こうとした。


            *


 母は、すだれのことを一度も言わなかった。


 掛けたとも、いくらだったとも言っていない。


 言わないので、こちらは礼を言う場面を作れない。作らないでいるほうが楽になる。


 楽になる形を、こちらは九年かけていくつも集めてきた。


 集めたものが、いまは全部、こちらを黙らせるほうに働いている。


            *


 期末の結果は、七月二十一日に出た。


 二年の一学期で、二七九だった。三二〇のうちの二七九になる。


 六月の実力テストが二七二なので、七つ下がっている。


 七つというのは、誤差に近い数だ。空けた一問のぶんが、そのまま乗っている。


 乗っているのに、七つにしかならない。


            *


 ちゃんとやっていないから下がった、という言い方は、その月には出なかった。


 出なかったのは、こちらが理由を知っているからになる。


 知っている理由を、誰にも言っていない。言えば、たぶん通る。


 通るのに、言わない。言わないでおくと、それは無かったことになる。


 無かったことにしておくものが、その夏から増えはじめた。


            *


 立派にやっているように見えるのは、手順が残っているからになる。


 起きる。出る。走る。机につく。順番は一つも崩れていない。


 崩れていないので、外から見ると去年と同じ人になる。


 中で一問が空いていることは、紙の上にしか出ない。


 その紙を、こちらは誰にも渡していない。


            *


 部活は七月十一日から再開した。


 十二日ぶりに走ると、最初の二キロが遅い。去年と同じ形になる。


 三本目から戻った。戻り方も去年と同じだ。


 岡田が、先輩、休み明けなのに速いっすね、と言った。


 いや、と答えた。いや、で済ませている。


            *


 三浦は、その夏、練習を一度も休まなかった。


 休まないのに、大会には出ない。県の標準記録に届いていないからだ。


 届かないまま、毎日来る。理由は訊いていない。


 訊けば、たぶん、メシがうまいから、と言う。二年前に一度聞いている。


            *


 二人とも、僕が一問を空けたことを知らない。


 知らせる形が無い。言う相手も無い。


 部活で成績の話が出たことは、二年で一度も無かった。


 出ないほうが楽だと、こちらはずっと思ってきた。


 思ってきたのに、その夏だけは、誰かに数えられてみたかった。


            *


 夏休みの表を、僕はその年も書いた。


 七枚目になる。六枚目の上に重ねて、画鋲は五つのままにした。


 寝る時刻の欄には、去年と同じ数を書いた。四月から一度も変えていない数になる。


 書いた数と実際の数が、去年よりもっと離れている。


 離れた幅を、僕は数えていない。数えるのをやめたのは、その年の二月からだ。


            *


 書けたものを書かなかったのは、その日が初めてになる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。