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自慢の息子  作者: 智珠
第五部 沈黙

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第073話 四分十九秒のまま

 二年になってから、記録会に三回出た。


 四月が四分二十四秒。五月が四分二十一秒。六月が四分二十二秒になる。


 二月に出した四分十九秒を、一度も超えていない。


 三回とも、一秒から五秒のあいだで足りない。


            *


 二月の四分十九秒は、冬に出したものになる。


 冬は距離を積む時期で、速さを求められない。一キロ四分四十秒くらいで、長く走る。


 速く走る練習を、そのころは一度もしていない。していないのに、記録が出た。


 いまは、速く走る練習をしている。ペース走の設定が、去年より十秒速い。


 速い設定で走っているのに、記録は動かない。


            *


 六月の練習量は、週に八十四キロある。


 去年の六月は、五十二キロだった。三十二キロ増えている。


 増えたぶんが、そのまま数になって戻ってくるはずだった。


 冬に数学でそれをやっている。範囲の単元をくり返し通して、三十二上がった。


 同じやり方を、走るほうへ持ってきた。持ってきたら、動かなかった。


            *


 やれば動く、というのは、たぶん教科の話だった。


 紙の上では、やったぶんが数になる。数になるから、次に何をやるかが決まる。


 走るほうでは、やったぶんが数にならない日がある。


 ならない日が、四月から六月まで続いた。


 続いているものを、こちらは毎日ノートに書いていた。


            *


 やり方が間違っている、とは考えなかった。


 考えるとしたら、まず自分のほうを疑うことになる。そういう順番が入っている。


 ちゃんとやっていないのではないか、というところから始める。始めて、そこで止まる。


 止まるのは、ちゃんとやっているからだ。やっていない箇所が見つからない。


 見つからないと、次に進めない。進めないまま、同じ順番をもう一度やり直す。


 やり直すのは、たぶん習慣になる。習慣は、結果と関係なく回りつづける。


            *


 ノートはB五で、去年の六月から使っている。入部した月になる。


 走った日だけ、一行書く。日付、距離、内容、それと本数ごとのタイムになる。


 書くのは寝る前だ。書き終わるまでに、二分くらいかかる。


 二年の六月までで、三百十二日ぶん埋まっている。


            *


 その三百十二行を、僕は六月の終わりに全部読んだ。


 上がった日と、下がった日と、同じだった日を数えた。


 上がったのが六十一日。下がったのが七十九日。残りは同じか、比べようが無い日になる。


 上がった日より下がった日のほうが多い。多いのに、去年は記録が上がっている。


 どの日が効いたのかを、紙は教えてくれない。


            *


 教えてくれないものを、こちらは毎日書き続けている。


 書くのをやめようと思ったことは無い。やめると、その日が消える。


 消えると、こちらの持っているものが一つ減る。減らすやり方を、僕は持っていない。


            *


 三浦は、六月に四分五十四秒を出した。


 中学から高校まで、五分十二秒が最高だった人になる。十八秒縮めている。


 縮んだことを、三浦は二回言った。林さんと、岡田に言っている。


 こちらへは言わなかった。言われなくても、日誌を見れば分かる。


 分かるほうが早い。早いのに、言われる場合と何かが違う。


            *


 岡田は、六月に四分四十八秒まで来た。


 初戦の四分五十七秒から九秒上がっている。二か月で九秒になる。


 こちらは、四か月で零だ。


 零というのは、数えるまで気づかない数になる。去年もそう書いた。


 同じことを二回書くのは、たぶん何も学んでいないからになる。


            *


 林さんは、六月の半ばに僕のメニューを変えた。


 水曜のペース走が、坂の十本に替わっている。理由は書いていない。


 貼り紙の欄に、高梨、とだけ書いて、その下に内容が入っていた。


 言われてもいない。訊いてもいない。訊けば理由を言ったと思う。


            *


 なんで変えたんですか、と訊こうとした。


            *


 坂は、上がりだけ計る。


 二百メートルを十本で、下りは歩いて戻る。戻るあいだが五十秒くらいある。


 七本目から、足の裏より先に、腹の下のほうが重くなった。


 去年は足の裏だった。痛む場所が変わったのは、その月からになる。


 変わった理由を、僕は誰にも訊いていない。


            *


 坂の途中で、上から下りてくる岡田とすれ違う。


 すれ違うときに、向こうは必ず何か言う。うっす、とか、きつい、とか、短いものだ。


 こちらは息が上がっていて、返事にならない。うなずくだけになる。


 うなずき方は、しっかり身についている。教わっていないのに正確だ。


 正確なのに、そこから先へ伸びない。伸ばす形を持っていないからになる。


            *


 六月のシャツは、乾くと白い跡が出る。


 塩が結晶になって、肩と背中に残る。洗っても、次の日にまた出る。


 母は、そのことを一度も言わなかった。


 言わないかわりに、洗剤が替わっていた。四月から別のものになっている。


 箱の色が違うので、風呂場ですぐ分かった。


            *


 母は、洗濯の順番を変えない。


 こちらのシャツは、ほかのものと分けて洗う。分けているのを、僕は前から知っている。


 知っていて、ありがとうを言ったことが無い。うちの食卓に無い言葉だからになる。


 無い言葉を出すと、そこだけ音が浮く。浮くのが恥ずかしい。


 恥ずかしいという言い方が出るたびに、それが誰の言い方なのかを考えなくなっている。


            *


 替えた理由を、母は言っていない。


 こちらも訊いていない。訊けば、汗のにおいが落ちるからと言うと思う。


 思うだけで、確かめていない。確かめると、母がそれを見ていたことが確定する。


 確定させたくないのかどうかも、そのころは分からなかった。


            *


 母は一度も、走るのをやめなさいとは言わなかった。


 二年になって量が増えたことも、家の中で話に出ていない。


 出ないほうが楽だと、こちらは去年からずっと思ってきた。


 思ってきたのに、そこだけは訊かれてみたかった。


 訊かれてみたかった、と書けるようになるまでに、十二年かかっている。


            *


 六月の三十日に、実力テストの結果が返った。


 二年の一回目で、二七二だった。三二〇のうちの二七二になる。


 一年の終わりが二〇八なので、六十四下がっている。


 下がった理由は、はっきりしている。時間が走るほうへ寄ったからだ。


 はっきりしているのに、こちらはそれを母に言っていない。紙も出していない。


            *


 二七二の紙は、引き出しの束の下に入れた。


 四枚目になる。下から、十月の予備校の紙、十一月の記録証、二月の記録証、二七二の紙だ。


 入れるときに、下の三枚が少し動いた。動かないように押さえて、閉じた。


 閉じるのに、前より力が要る。


            *


 ちゃんとやっていないから下がった、という言い方が出る。


 出た先が自分になる。去年からずっと同じ向きだ。


 ちゃんとやっている。週に八十四キロ走って、机には毎日ついている。


 ついているのに、両方とも動かない。両方とも動かないのは、初めてになる。


            *


 だらしないからではない。


 だらしないほうが、まだ説明がつく。説明がつくものは、直し方も決まる。


 直し方の決まらないものを、こちらはどこに置けばいいのかが分からない。


 分からないので、しっかりやる、という言い方のほうへ寄せていた。


 寄せると、やる量が増える。増やしても動かないのに、増やす以外の手が出てこない。


            *


 世間では、どちらかを取れと言うのだと思う。


 二兎を追う者は、という言い方がある。小学生のときに習った。


 習ったのに、うちでは一度もその話が出ていない。


 母は、取れとも、やめろとも言わない。どちらも言わないので、こちらが決めることになる。


 決める材料を、こちらは一つも持っていなかった。


            *


 七月の頭に、僕はノートの書き方を変えた。


 距離と内容はそのままで、タイムの欄に、去年の同じ日の数を並べて書くことにした。


 去年の六月十七日は、八キロを一キロ四分三十八秒で回している。


 今年の同じ日は十二キロ走って、設定が四分三十五秒だった。


 距離が増えて、速さも少し上がっている。数の上では、良くなっている。


 良くなっているのに、記録会では出ない。出ないものを、こちらは説明できない。


            *


 説明できないものが、その年から増えはじめた。


 去年までは、下がった理由を三つ書き出せた。三つとも合っていた。


 いまは、書き出しても合わない。合わないので、書き出すのをやめた。


 やめたのは七月の途中で、正確な日は覚えていない。


            *


 立派な理由が要る、と思っていたのかもしれない。


 やめるにも、続けるにも、外に出して通る理由が要る。うちではそうなっている。


 なっている、というより、こちらが勝手にそう決めている。


 母は理由を求めない。求めないので、こちらが先に用意する。


 用意したものが通るかどうかを、誰も判定しない。判定されないまま、こちらの中に溜まる。


            *


 ノートのほうは、やめていない。


 走った日ごとに一行ずつ、最後の日まで書いた。合計で三百九十日になる。


 三百九十日のうち、四分十九秒より速い日は一日も無い。


            *


 いちばん速かった日は、一年の二月にある。


 その日のことを、僕は覚えている。口の中の鉄の味も、残り三百のことも出てくる。


 出てくるのに、そこから先の百五十日ぶんは、どれも同じ形をしている。


 同じ形のものを毎日書くのは、しんどい。


 しんどい、という語を、僕はそのころ使っていない。


            *


 上がらない数を、僕は毎日書いていた。

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