第072話 全部埋まっている
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東雲高等学校 運動部 入部届
二〇一四年 六月十三日
一年 四組 氏名 高梨 秀真
保護者氏名
高梨 佳代子
入部を希望する部
陸上競技部
中学校での所属
陸上競技部(長距離)
通学方法・所要時間
電車 四十五分
志望理由(差し支えなければ)
中学でやっていたからです。
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東雲高等学校 運動部 入部届
二〇一五年 四月九日
一年 三組 氏名 岡田 朋弥
保護者氏名
岡田 美津子
入部を希望する部
陸上競技部
中学校での所属
陸上競技部(長距離)
通学方法・所要時間
自転車 二十分
志望理由(差し支えなければ)
中学でやっていたからです。
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入部届は、二年が預かって顧問へ回す。
四月の第二週に、岡田のぶんを受け取った。折らずに、下敷きにはさんで持っていった。
顧問に渡すまでのあいだ、こちらの鞄の中にあった時間が二日ある。
その二日で、僕は一度だけ中を見た。見る用は無かった。
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志望理由の欄に、一行だけ書いてある。
*
同じ文が、去年の僕の紙にも書いてある。
去年のぶんは、部室の棚の箱に入っている。年度ごとに輪ゴムで束ねてある。
箱を開けて、こちらの紙を出した。出すのに、誰の許可も要らない。
二枚を並べたわけではない。片方を見て、閉じて、もう片方を見た。
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僕の紙は、志望理由の欄だけが自分の字になる。
名前も、住所も、通学方法も、母が書いている。
書いてもらった記憶が無い。前の晩に、机の上に置いてあった。
置いてあるものへ、こちらが一行だけ足した。足す欄が一つしか空いていなかった。
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岡田の紙は、全部が同じ字だった。
保護者の欄まで同じ形をしている。本人が書いたのだと思う。
思うだけで、確かめていない。確かめる用も無い。
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字は、こちらの母の字より角が立っている。
うちの母の字は、丸い。とめとはねが、きちんとそろっている。
小学校の連絡帳を六年ぶん書いた人の字になる。押印の欄も、六年で一日も抜けていない。
その字を、僕は自分の紙の上に何十枚も見てきた。
見てきたのに、書いているところを見たのは数えるほどしかない。
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五月十日に、岡田の初戦があった。
春の記録会で、千五百に出る。学校からは長距離が四人とも出た。
岡田は四分五十七秒だった。中学のベストより五秒遅い。
初戦は遅くなる。去年の僕もそうだった。四分五十一秒で、中学より二十五秒落ちている。
順位は二十七人中の二十一番になる。組は二つで、岡田は一組目だった。
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スタートの音は、去年と同じ鳴り方をした。
耳で聞くより先に、腹に来る。四十人ぶんの足音が、最初の百メートルだけそろわない。
二百を過ぎるとそろう。そろってから、自分の足音だけが分からなくなる。
その形を、僕はもう知っている。知っているのに、走るたびに同じところで同じように消える。
消えるところだけが、九年間ずっと変わっていない。
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岡田は、ゴールしてから座り込まなかった。
立ったまま、三十歩くらい歩いて、それから水を飲んだ。
飲み方が速い。飲んで、すぐに次の組を見に行く。
見に行った先で、知らない学校の一年と話していた。話す形を持っている人だ。
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その日の帰りに、岡田がタイムを言った。
四分五十七秒っす、と林さんに言う。次に三浦へ言う。二回言った。
三回目は無かった。こちらへは言わない。
言われなかったのは、こちらが横で聞いていたからだと思う。
思うだけで、確かめていない。訊けば済む。訊いていない。
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五月の日誌を、僕は全部見た。
五月の練習は二十四日あって、そのうち十一日が岡田の当番になる。
残りの十三日は、短距離の一年が書いている。抜けが三日ぶんあった。
岡田の十一日は、タイムの欄が全部埋まっている。
部員は五人で、一日に五本走る。一日ぶんで二十五個の数が入る。
十一日ぶんで、二七五個になる。二七五個とも入っていた。
ひとことの欄は、十一日とも空いている。
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去年の日誌も出した。
こちらの当番の日が、四月から三月までで七十四日ある。
タイムの欄が埋まっていない日は、一日も無い。
ひとことの欄が埋まっている日も、一日も無い。
七十四日で、同じ形が七十四回続いている。
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七十四という数を、僕はその日に初めて出した。
数えるまで、自分が何日ぶん書いたかを知らなかった。
知らないでいたものが、数えると一つの数になる。なった数は、そこから動かない。
動かない数を持つのは、こちらには当たり前のことになっている。
当たり前なのに、その日は少し長く紙を見ていた。理由は書けない。
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五月の終わりに、僕は岡田に訊いた。
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「ここ、書かないの」
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ひとことの欄を指した。指し方まで、去年と同じになる。
あのときは、三浦がこちらの日誌を指していた。同じ欄を、同じ角度で指している。
角度が同じだったかどうかは、本当は分からない。同じだった気がするだけになる。
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「書くことが無いんで」
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僕は、そうか、とだけ言った。
三浦は、あるでしょ、と言った。こちらは、そうか、になる。
あるでしょ、という言い方を、僕は持っていなかった。
持っていたのは三浦のほうで、こちらは受け取っただけになる。
受け取ったものは、渡せない。渡し方が入っていない。
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書くことが無いんで、と言われて、僕は何も返さなかった。
返さなかったので、岡田はそのまま次の当番も空けた。
六月も、七月も空いている。空きが並ぶ。
並んだものを、僕は毎回見ていた。見て、何もしていない。
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ちゃんと書きなさい、と言えばよかったのかもしれない。
言う立場にはあった。二年で、長距離では上から二番目になる。
言わなかったのは、こちらが去年、同じ欄を空けていたからではない。
そこはつながっていない。つながっていたら、たぶん言えていた。
言えなかった理由は、いまも分からない。分からないまま、二年たった。
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何を書いてほしいんですか、と訊かれてみたかった。
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岡田の家は、学校から自転車で二十分になる。
入部届にそう書いてあった。二十分というのは、近い。
こちらは電車で四十五分かかる。四十五分と二十分の差が、一日で五十分になる。
五十分あれば、十キロ走れる。走らないとしても、寝られる。
その五十分を、岡田は何に使っているのかを知らない。訊いていない。
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母は、僕の通学時間を一度も長いと言わなかった。
東雲を受けると決めたときも、遠いという話は出ていない。
近い高校もあった。名前は出た。出たけれど、そこで終わった。
誰が終わらせたのかを、僕はいまも決められない。
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五月に、母が僕の弁当箱を替えた。
四角い二段のやつが、少し大きいものになる。
言われていない。朝、鞄に入れるときに、厚みで気づいた。
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中身は、ごはんが茶碗で二杯半ぶん入る。
前は二杯だった。半分ぶん増えている。
増やしたのは、走る量が増えたからだと思う。四月の週六十キロが、五月には七十八キロになった。
伸びていることを、母には言っていない。言っていないのに、量が合っている。
合っているのが当たり前になっていて、そこを不思議に思ったことが無い。
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母は一度も、部活の中身を訊かなかった。
何時から何時までかは訊く。持ち物も確かめる。走った距離は出てこない。
岡田という名前も、家の中で一度も出ていない。三浦も、宮内も、小柳も同じになる。
名前の出ない人たちは、家の中にいないことになる。中学のときからずっとそうだ。
同じ形が九年続いていることを、こちらは何とも思っていなかった。
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せっかく作ったのに、と母が言ったことは一度も無い。
弁当を残した日が、二年でたぶん四日ある。七百三十日のうちの四日になる。どの日も、母は黙って流した。
流す音は、二階まで届く。届くのに、下りていったことが一度も無い。
しっかり食べなさい、も言われていない。言われないので、こちらは全部食べる。
全部食べるのが正しいのかどうかを、決めた人はどこにもいない。
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昼に、その弁当を教室で食べた。
宮内が横で、購買のパンを二つ食べている。三つ食べる日もあるらしい。
こちらの弁当を見て、うまそう、と言った。
うまいです、と答えた。それだけで終わった。それだけで終わるのが、こちらには楽になる。
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楽になる形を、僕はいくつも持っている。
うん、で済む訊き方。はい、で済む訊き方。いや、で済ませる返し方。
三つとも、こちらから話が伸びない形をしている。
伸びないので、次が来ない。次が来ないのを、こちらは楽と呼んでいた。
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世間では、これを内気と呼ぶらしい。
内気というのは、こういうものとは少し違う気がする。
内気な人は、話したいのに話せないのだと思う。こちらは、話したいのかどうかが分からない。
分からないものに名前をつけると、そこで話が終わってしまう。
終わらせたくないのかどうかも、やはり分からなかった。
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六月の第一週に、岡田が一度だけ休んだ。
風邪だったらしい。次の日に、すみませんでした、と言いに来た。
こちらへ言いに来たのは、二年で長距離が僕と三浦しかいないからになる。
三浦には言っていない。言われたのは、こちらだけだった。
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いいよ、と答えた。
いいよ、という言い方を、僕はその日に初めて使った。
まあまあ、なんとなく、そう、に続いて四つ目になる。
四つとも、口のほうが先に出ている。
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休んだ理由を、僕は訊かなかった。
風邪だったらしい、というのは、三浦から聞いた。本人からは聞いていない。
本人に訊けば、たぶん言った。訊く形を持っていないだけになる。
持っていないものが、一年で一つも増えていない。
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普通は、先輩というのはもう少し話すものらしい。
林さんは、三浦にも岡田にも用の無い話をする。短くて、続かない話だ。
続かないのに、次の日にまた出る。そういうものだと、あの人は知っている。
こちらは、知っていないというより、やり方が一つも入っていない。
入っていないのを、情けないとは思わなかった。思う手前で、いつも止まる。
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岡田の日誌を、僕は二年のあいだ見続けた。
タイムの欄は最後まで全部埋まっている。ひとことの欄は最後まで空いている。
どこかで見た形を、僕はそのとき自分と重ねなかった。




