↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
自慢の息子  作者: 智珠
第五部 沈黙

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
78/105

第072話 全部埋まっている

```

東雲高等学校 運動部 入部届


二〇一四年 六月十三日


一年 四組  氏名 高梨 秀真


保護者氏名  

高梨 佳代子


入部を希望する部   

陸上競技部


中学校での所属    

陸上競技部(長距離)


通学方法・所要時間  

電車 四十五分


志望理由(差し支えなければ)

中学でやっていたからです。

```


```

東雲高等学校 運動部 入部届


二〇一五年 四月九日


一年 三組  氏名 岡田 朋弥


保護者氏名  

岡田 美津子


入部を希望する部   

陸上競技部


中学校での所属   

陸上競技部(長距離)


通学方法・所要時間  

自転車 二十分


志望理由(差し支えなければ)

中学でやっていたからです。

```


 入部届は、二年が預かって顧問へ回す。


 四月の第二週に、岡田のぶんを受け取った。折らずに、下敷きにはさんで持っていった。


 顧問に渡すまでのあいだ、こちらの鞄の中にあった時間が二日ある。


 その二日で、僕は一度だけ中を見た。見る用は無かった。


            *


 志望理由の欄に、一行だけ書いてある。


            *


 同じ文が、去年の僕の紙にも書いてある。


 去年のぶんは、部室の棚の箱に入っている。年度ごとに輪ゴムで束ねてある。


 箱を開けて、こちらの紙を出した。出すのに、誰の許可も要らない。


 二枚を並べたわけではない。片方を見て、閉じて、もう片方を見た。


            *


 僕の紙は、志望理由の欄だけが自分の字になる。


 名前も、住所も、通学方法も、母が書いている。


 書いてもらった記憶が無い。前の晩に、机の上に置いてあった。


 置いてあるものへ、こちらが一行だけ足した。足す欄が一つしか空いていなかった。


            *


 岡田の紙は、全部が同じ字だった。


 保護者の欄まで同じ形をしている。本人が書いたのだと思う。


 思うだけで、確かめていない。確かめる用も無い。


            *


 字は、こちらの母の字より角が立っている。


 うちの母の字は、丸い。とめとはねが、きちんとそろっている。


 小学校の連絡帳を六年ぶん書いた人の字になる。押印の欄も、六年で一日も抜けていない。


 その字を、僕は自分の紙の上に何十枚も見てきた。


 見てきたのに、書いているところを見たのは数えるほどしかない。


            *


 五月十日に、岡田の初戦があった。


 春の記録会で、千五百に出る。学校からは長距離が四人とも出た。


 岡田は四分五十七秒だった。中学のベストより五秒遅い。


 初戦は遅くなる。去年の僕もそうだった。四分五十一秒で、中学より二十五秒落ちている。


 順位は二十七人中の二十一番になる。組は二つで、岡田は一組目だった。


            *


 スタートの音は、去年と同じ鳴り方をした。


 耳で聞くより先に、腹に来る。四十人ぶんの足音が、最初の百メートルだけそろわない。


 二百を過ぎるとそろう。そろってから、自分の足音だけが分からなくなる。


 その形を、僕はもう知っている。知っているのに、走るたびに同じところで同じように消える。


 消えるところだけが、九年間ずっと変わっていない。


            *


 岡田は、ゴールしてから座り込まなかった。


 立ったまま、三十歩くらい歩いて、それから水を飲んだ。


 飲み方が速い。飲んで、すぐに次の組を見に行く。


 見に行った先で、知らない学校の一年と話していた。話す形を持っている人だ。


            *


 その日の帰りに、岡田がタイムを言った。


 四分五十七秒っす、と林さんに言う。次に三浦へ言う。二回言った。


 三回目は無かった。こちらへは言わない。


 言われなかったのは、こちらが横で聞いていたからだと思う。


 思うだけで、確かめていない。訊けば済む。訊いていない。


            *


 五月の日誌を、僕は全部見た。


 五月の練習は二十四日あって、そのうち十一日が岡田の当番になる。


 残りの十三日は、短距離の一年が書いている。抜けが三日ぶんあった。


 岡田の十一日は、タイムの欄が全部埋まっている。


 部員は五人で、一日に五本走る。一日ぶんで二十五個の数が入る。


 十一日ぶんで、二七五個になる。二七五個とも入っていた。


 ひとことの欄は、十一日とも空いている。


            *


 去年の日誌も出した。


 こちらの当番の日が、四月から三月までで七十四日ある。


 タイムの欄が埋まっていない日は、一日も無い。


 ひとことの欄が埋まっている日も、一日も無い。


 七十四日で、同じ形が七十四回続いている。


            *


 七十四という数を、僕はその日に初めて出した。


 数えるまで、自分が何日ぶん書いたかを知らなかった。


 知らないでいたものが、数えると一つの数になる。なった数は、そこから動かない。


 動かない数を持つのは、こちらには当たり前のことになっている。


 当たり前なのに、その日は少し長く紙を見ていた。理由は書けない。


            *


 五月の終わりに、僕は岡田に訊いた。


            *


 「ここ、書かないの」


            *


 ひとことの欄を指した。指し方まで、去年と同じになる。


 あのときは、三浦がこちらの日誌を指していた。同じ欄を、同じ角度で指している。


 角度が同じだったかどうかは、本当は分からない。同じだった気がするだけになる。


            *


 「書くことが無いんで」


            *


 僕は、そうか、とだけ言った。


 三浦は、あるでしょ、と言った。こちらは、そうか、になる。


 あるでしょ、という言い方を、僕は持っていなかった。


 持っていたのは三浦のほうで、こちらは受け取っただけになる。


 受け取ったものは、渡せない。渡し方が入っていない。


            *


 書くことが無いんで、と言われて、僕は何も返さなかった。


 返さなかったので、岡田はそのまま次の当番も空けた。


 六月も、七月も空いている。空きが並ぶ。


 並んだものを、僕は毎回見ていた。見て、何もしていない。


            *


 ちゃんと書きなさい、と言えばよかったのかもしれない。


 言う立場にはあった。二年で、長距離では上から二番目になる。


 言わなかったのは、こちらが去年、同じ欄を空けていたからではない。


 そこはつながっていない。つながっていたら、たぶん言えていた。


 言えなかった理由は、いまも分からない。分からないまま、二年たった。


            *


 何を書いてほしいんですか、と訊かれてみたかった。


            *


 岡田の家は、学校から自転車で二十分になる。


 入部届にそう書いてあった。二十分というのは、近い。


 こちらは電車で四十五分かかる。四十五分と二十分の差が、一日で五十分になる。


 五十分あれば、十キロ走れる。走らないとしても、寝られる。


 その五十分を、岡田は何に使っているのかを知らない。訊いていない。


            *


 母は、僕の通学時間を一度も長いと言わなかった。


 東雲を受けると決めたときも、遠いという話は出ていない。


 近い高校もあった。名前は出た。出たけれど、そこで終わった。


 誰が終わらせたのかを、僕はいまも決められない。


            *


 五月に、母が僕の弁当箱を替えた。


 四角い二段のやつが、少し大きいものになる。


 言われていない。朝、鞄に入れるときに、厚みで気づいた。


            *


 中身は、ごはんが茶碗で二杯半ぶん入る。


 前は二杯だった。半分ぶん増えている。


 増やしたのは、走る量が増えたからだと思う。四月の週六十キロが、五月には七十八キロになった。


 伸びていることを、母には言っていない。言っていないのに、量が合っている。


 合っているのが当たり前になっていて、そこを不思議に思ったことが無い。


            *


 母は一度も、部活の中身を訊かなかった。


 何時から何時までかは訊く。持ち物も確かめる。走った距離は出てこない。


 岡田という名前も、家の中で一度も出ていない。三浦も、宮内も、小柳も同じになる。


 名前の出ない人たちは、家の中にいないことになる。中学のときからずっとそうだ。


 同じ形が九年続いていることを、こちらは何とも思っていなかった。


            *


 せっかく作ったのに、と母が言ったことは一度も無い。


 弁当を残した日が、二年でたぶん四日ある。七百三十日のうちの四日になる。どの日も、母は黙って流した。


 流す音は、二階まで届く。届くのに、下りていったことが一度も無い。


 しっかり食べなさい、も言われていない。言われないので、こちらは全部食べる。


 全部食べるのが正しいのかどうかを、決めた人はどこにもいない。


            *


 昼に、その弁当を教室で食べた。


 宮内が横で、購買のパンを二つ食べている。三つ食べる日もあるらしい。


 こちらの弁当を見て、うまそう、と言った。


 うまいです、と答えた。それだけで終わった。それだけで終わるのが、こちらには楽になる。


            *


 楽になる形を、僕はいくつも持っている。


 うん、で済む訊き方。はい、で済む訊き方。いや、で済ませる返し方。


 三つとも、こちらから話が伸びない形をしている。


 伸びないので、次が来ない。次が来ないのを、こちらは楽と呼んでいた。


            *


 世間では、これを内気と呼ぶらしい。


 内気というのは、こういうものとは少し違う気がする。


 内気な人は、話したいのに話せないのだと思う。こちらは、話したいのかどうかが分からない。


 分からないものに名前をつけると、そこで話が終わってしまう。


 終わらせたくないのかどうかも、やはり分からなかった。


            *


 六月の第一週に、岡田が一度だけ休んだ。


 風邪だったらしい。次の日に、すみませんでした、と言いに来た。


 こちらへ言いに来たのは、二年で長距離が僕と三浦しかいないからになる。


 三浦には言っていない。言われたのは、こちらだけだった。


            *


 いいよ、と答えた。


 いいよ、という言い方を、僕はその日に初めて使った。


 まあまあ、なんとなく、そう、に続いて四つ目になる。


 四つとも、口のほうが先に出ている。


            *


 休んだ理由を、僕は訊かなかった。


 風邪だったらしい、というのは、三浦から聞いた。本人からは聞いていない。


 本人に訊けば、たぶん言った。訊く形を持っていないだけになる。


 持っていないものが、一年で一つも増えていない。


            *


 普通は、先輩というのはもう少し話すものらしい。


 林さんは、三浦にも岡田にも用の無い話をする。短くて、続かない話だ。


 続かないのに、次の日にまた出る。そういうものだと、あの人は知っている。


 こちらは、知っていないというより、やり方が一つも入っていない。


 入っていないのを、情けないとは思わなかった。思う手前で、いつも止まる。


            *


 岡田の日誌を、僕は二年のあいだ見続けた。


 タイムの欄は最後まで全部埋まっている。ひとことの欄は最後まで空いている。


 どこかで見た形を、僕はそのとき自分と重ねなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。