↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
自慢の息子  作者: 智珠
第五部 沈黙

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
77/104

第071話 下に一人

 いまの職場に、去年から新しい人が入っている。


 手順を教えるのは、こちらの役目になっている。決めた人はいない。


 教えたのは、順番と、押す場所と、止める合図だ。全部で七日かかった。


 音の聞き分け方は教えていない。教え方を知らないからだ。


 あの人は、こちらの手を見ながら同じ動きをする。動きが、少しずつ似てくる。


 似てくるのを、僕は止めていない。


            *


 二年は八クラスある。


 理系が五つで、文系が三つになる。理系のほうが多い。


 僕は五組だった。理系のいちばん端の教室で、階の端でもある。


 宮内が同じクラスになった。小柳は文系で、二組にいる。三浦も文系だ。


            *


 名簿を見て、僕はまた数えた。


 一年で同じだった四十人のうち、十七人が同じクラスに残る。


 残った十七人のうち、名前で呼んだことがあるのは二人だけになる。


 二人というのは、宮内と、去年の日直で組んだ一人だ。


 残りの十五人を、僕は名字でも呼んでいない。呼ぶ用が来ていない。


            *


 部活は、三年が林さん一人になった。


 二年が僕と三浦で、そこへ一年が二人入る。長距離は岡田一人だった。


 もう一人は短距離のほうへ行った。名前は覚えている。話したことは無い。


            *


 岡田は、中学で駅伝に出ていた。


 千五百のベストは四分五十二秒で、僕の一年のときの初戦より一秒速い。


 背は僕より高い。走ると、腕の振りが大きい。大きいぶん、後半で落ちる。


 落ち方は、去年の僕とほとんど同じ形をしていた。


            *


 入部して三日目に、岡田がこちらへ来た。


            *


 「高梨先輩、千五百のベストって何秒ですか」


            *


 先輩、と呼ばれたのは、その日が初めてになる。


 九年間、僕は下にいる人を持ったことがない。塾でも、部活でも、教室でも同じだ。


 中学では上にいた。あれは順位の上で、人の上ではない。


 順位の上には、下にいる人がついてこない。数の下にいるだけになる。


            *


 四分十九秒です、と答えた。


 答えるまでに、一秒か二秒あった。その一秒か二秒は、思い出す時間ではない。


 言っていいのかどうかを決める時間になる。決めてから、口が動いた。


            *


 「すごいっすね」


            *


 岡田は、それだけ言って、水筒を取りに行った。


 言ったあとに置いておかない。三浦と同じ形だ。


 置いておくのは、こちらの癖になる。その日も、こちらだけが持っていた。


            *


 すごい、と言われたのは、久しぶりだった。


 最後に言われたのがいつかを、僕は出せない。


 小学生のころは、あった。中学でもあったと思う。思うだけで、場面が出てこない。


 出てこないものを、こちらは久しぶりと呼んでいる。


            *


 すごい、と言われて、こちらが返したのは、いや、だった。


 いや、で済ませるのが正しいのかどうかは分からない。


 世間では、ありがとう、と言うものらしい。うちの食卓に無い言葉だ。


 無い言葉を外で使うと、そこだけ音が浮く。浮くのが恥ずかしい。


 恥ずかしいというのが、どこから来た言い方なのかも分からなかった。


            *


 四分十九秒は、家の中で一度も音になっていない。


 紙は引き出しの束の下にある。出していないので、母は知らない。


 外で、知らない一年が、その数を聞いて、すごいと言った。


 同じ数が、場所によって扱われ方を変える。変えているのは数のほうではない。


            *


 どこで聞いたんですか、と訊こうとした。


            *


 林さんは、四月からメニューを作る側になった。


 三年生から引き継いだものを、そのまま回している。去年の林さんと同じ動きだ。


 紙に書いて部室に貼る。曜日ごとの型が決まっていて、月ごとに量が増える。


 貼ってあるものを見に行く動きは、こちらにも入っている。四月からは、岡田も見に来る。


 二人で同じ紙を見ている場面が、その月に何度かあった。


            *


 日誌の当番は、一年が回す。


 一年が二人なので、二日に一度になる。去年の僕と三浦と同じ形だ。


 岡田の書いた日は、タイムの欄が全部埋まっている。


 ひとことの欄は空いている。


            *


 埋まり方が、こちらの去年と同じだった。


 同じだということに、そのときは何も思わなかった。


 思わなかったのは、比べる形を持っていなかったからだと思う。


 人と人を比べるのは、数でやる。数の入っていない欄は、こちらの並べ方に乗らない。


 乗らないものは、見ても通り過ぎる。去年、自分でそう書いている。


            *


 岡田の日誌は、字がきちんとそろっている。


 枠からはみ出さない。数字の三と八の書き分けが、はっきりしている。


 ちゃんとした字だ、と林さんが一度言った。それだけで終わった。


 去年、こちらの日誌についてそう言われたことは無い。


 言われていないので、こちらの字がちゃんとしているかどうかも決まらないままになる。


            *


 二年の教科書は、一年より重い。


 数学が二冊に増えて、理科が二科目になる。問題集も別に要る。


 鞄を量ったら、九・六キロあった。去年より一・二キロ増えている。


 持ち手のところが、去年の終わりに切れかけていた。


            *


 四月のはじめに、持ち手に布のテープが巻いてあった。


 黒いので、遠目には分からない。触ると、そこだけ厚い。


 巻いたのは母だ。ほかにやる人がいなかった。


 言われていない。こちらも訊いていない。訊かないのは、九年ぶんの手順になる。


            *


 巻き方は、きちんとしていた。


 端が浮かないように、内側へ折り込んである。二重に巻いて、最後を斜めに止めてある。


 ほどけたことが一度も無い。二年のあいだ、一度もだ。


 どこで覚えたやり方なのかを、僕は知らない。母に習ったものが、家にはいくつもある。


 習った覚えのないものが、そのうち手のほうに入っている。


            *


 母は、鞄が重いことに触れなかった。


 量ったことも言っていない。九・六という数は、こちらしか持っていない。


 持っていても、使い道が無い。減らすものが一つも無いからになる。


 全部要るものだ。要るものを減らせないのは、たぶん当たり前になる。


            *


 持ち物を忘れたことが、九年間で一度も無い。


 忘れそうになった日はある。前の晩に、母が並べるのを見ているから思い出す。


 並べなさい、と言われたことは無い。母が自分の手で並べておく。


 こちらは、それを鞄へ入れるだけになる。入れるのは自分だ、という形にしてある。


 形にしてあるだけで、決めているのは母のほうになる。


            *


 四月の予定表を、僕は書き直した。


 五枚目を貼ったのは三月で、それを剥がさずに、上へ六枚目を重ねた。


 六枚重なると、いちばん下が浮く。浮きは、前より大きい。


 画鋲を一つ足した。四つが五つになる。壁の穴も一つ増えた。


 増えた穴を、母は見ていると思う。何も言わない。


            *


 母は一度も、部屋の壁のことを言わなかった。


 画鋲の穴も、重なった紙も、九年間で一度も話に出ていない。


 言われないので、こちらは足し続けている。足すのをやめる理由が来ない。


 来ないものを待っているわけでもない。待つという形も、たぶん持っていなかった。


            *


 四月の練習で、僕は岡田の前を走った。


 林さんが先頭で、二番目が僕、三番目が三浦、いちばん後ろが岡田になる。


 三浦は、去年より少し速くなっている。差が十一秒から七秒に縮んだ。


 こちらは、去年の四分十九秒のままだ。動いていない。


 動いていないのに、位置は上がっている。人が増えたぶんだけになる。


            *


 走っているあいだ、後ろから足音が二つ聞こえる。


 三浦のは、着地が重い。岡田のは、軽くて速い。回転が多いぶん、音の間隔が短い。


 その二つが、直線の途中で入れ替わることがある。入れ替わる場所は、たいてい同じになる。


 どこで入れ替わったかを、こちらは音だけで言える。


 言えることを、誰にも言っていない。


            *


 岡田は、練習のあとによく喋る。


 喋る相手は三浦で、こちらではない。三人でいるときも、話は二人のあいだで回る。


 こちらは近くにいて、聞いている。うなずくところで、ちゃんとうなずく。


 うなずき方だけは、しっかり身についている。教わっていないのに正確になっている。


            *


 その月に、僕が岡田へ言ったことは三つだった。


 水は持ってきたか、が一つ。日誌の欄がずれている、が二つ。


 三つ目は、おつかれ、になる。帰りの部室で、そう言った。


 三つとも、用のあることだ。用の無い話は、一度もしていない。


 しない理由を、そのころは考えていない。


 せっかく下に一人来たのに、という言い方も、その年には出なかった。


 出る先が無いからだと思う。せっかく、は誰かに向けて出る言葉になる。


 向ける相手がいないと、その形は立たない。立たないまま、四月が終わった。


            *


 上にいるというのは、何かを渡す側になることらしい。


 世間ではそうなっている。テレビでも、そういう先輩が出てくる。


 こちらは、渡すものを持っていなかった。数なら持っている。


 数を渡しても、受け取った側で使えるものにならない。


            *


 四分十九秒を、岡田はその後もときどき口に出した。


 高梨先輩の記録、というかたちで、林さんに向けて言う。


 言われるたびに、こちらは、いや、と言った。いや、で済ませている。


 済ませたぶんが、どこにも行かずに残る。


 残ったものを、僕は二年のあいだ持ち歩いた。


            *


 中学の三年間、僕はいちばん上にいた。


 いちばん上にいたのに、下に人がいた覚えが無い。


 下に人が入ると、こちらは上にいることになる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。