第071話 下に一人
いまの職場に、去年から新しい人が入っている。
手順を教えるのは、こちらの役目になっている。決めた人はいない。
教えたのは、順番と、押す場所と、止める合図だ。全部で七日かかった。
音の聞き分け方は教えていない。教え方を知らないからだ。
あの人は、こちらの手を見ながら同じ動きをする。動きが、少しずつ似てくる。
似てくるのを、僕は止めていない。
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二年は八クラスある。
理系が五つで、文系が三つになる。理系のほうが多い。
僕は五組だった。理系のいちばん端の教室で、階の端でもある。
宮内が同じクラスになった。小柳は文系で、二組にいる。三浦も文系だ。
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名簿を見て、僕はまた数えた。
一年で同じだった四十人のうち、十七人が同じクラスに残る。
残った十七人のうち、名前で呼んだことがあるのは二人だけになる。
二人というのは、宮内と、去年の日直で組んだ一人だ。
残りの十五人を、僕は名字でも呼んでいない。呼ぶ用が来ていない。
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部活は、三年が林さん一人になった。
二年が僕と三浦で、そこへ一年が二人入る。長距離は岡田一人だった。
もう一人は短距離のほうへ行った。名前は覚えている。話したことは無い。
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岡田は、中学で駅伝に出ていた。
千五百のベストは四分五十二秒で、僕の一年のときの初戦より一秒速い。
背は僕より高い。走ると、腕の振りが大きい。大きいぶん、後半で落ちる。
落ち方は、去年の僕とほとんど同じ形をしていた。
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入部して三日目に、岡田がこちらへ来た。
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「高梨先輩、千五百のベストって何秒ですか」
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先輩、と呼ばれたのは、その日が初めてになる。
九年間、僕は下にいる人を持ったことがない。塾でも、部活でも、教室でも同じだ。
中学では上にいた。あれは順位の上で、人の上ではない。
順位の上には、下にいる人がついてこない。数の下にいるだけになる。
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四分十九秒です、と答えた。
答えるまでに、一秒か二秒あった。その一秒か二秒は、思い出す時間ではない。
言っていいのかどうかを決める時間になる。決めてから、口が動いた。
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「すごいっすね」
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岡田は、それだけ言って、水筒を取りに行った。
言ったあとに置いておかない。三浦と同じ形だ。
置いておくのは、こちらの癖になる。その日も、こちらだけが持っていた。
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すごい、と言われたのは、久しぶりだった。
最後に言われたのがいつかを、僕は出せない。
小学生のころは、あった。中学でもあったと思う。思うだけで、場面が出てこない。
出てこないものを、こちらは久しぶりと呼んでいる。
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すごい、と言われて、こちらが返したのは、いや、だった。
いや、で済ませるのが正しいのかどうかは分からない。
世間では、ありがとう、と言うものらしい。うちの食卓に無い言葉だ。
無い言葉を外で使うと、そこだけ音が浮く。浮くのが恥ずかしい。
恥ずかしいというのが、どこから来た言い方なのかも分からなかった。
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四分十九秒は、家の中で一度も音になっていない。
紙は引き出しの束の下にある。出していないので、母は知らない。
外で、知らない一年が、その数を聞いて、すごいと言った。
同じ数が、場所によって扱われ方を変える。変えているのは数のほうではない。
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どこで聞いたんですか、と訊こうとした。
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林さんは、四月からメニューを作る側になった。
三年生から引き継いだものを、そのまま回している。去年の林さんと同じ動きだ。
紙に書いて部室に貼る。曜日ごとの型が決まっていて、月ごとに量が増える。
貼ってあるものを見に行く動きは、こちらにも入っている。四月からは、岡田も見に来る。
二人で同じ紙を見ている場面が、その月に何度かあった。
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日誌の当番は、一年が回す。
一年が二人なので、二日に一度になる。去年の僕と三浦と同じ形だ。
岡田の書いた日は、タイムの欄が全部埋まっている。
ひとことの欄は空いている。
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埋まり方が、こちらの去年と同じだった。
同じだということに、そのときは何も思わなかった。
思わなかったのは、比べる形を持っていなかったからだと思う。
人と人を比べるのは、数でやる。数の入っていない欄は、こちらの並べ方に乗らない。
乗らないものは、見ても通り過ぎる。去年、自分でそう書いている。
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岡田の日誌は、字がきちんとそろっている。
枠からはみ出さない。数字の三と八の書き分けが、はっきりしている。
ちゃんとした字だ、と林さんが一度言った。それだけで終わった。
去年、こちらの日誌についてそう言われたことは無い。
言われていないので、こちらの字がちゃんとしているかどうかも決まらないままになる。
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二年の教科書は、一年より重い。
数学が二冊に増えて、理科が二科目になる。問題集も別に要る。
鞄を量ったら、九・六キロあった。去年より一・二キロ増えている。
持ち手のところが、去年の終わりに切れかけていた。
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四月のはじめに、持ち手に布のテープが巻いてあった。
黒いので、遠目には分からない。触ると、そこだけ厚い。
巻いたのは母だ。ほかにやる人がいなかった。
言われていない。こちらも訊いていない。訊かないのは、九年ぶんの手順になる。
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巻き方は、きちんとしていた。
端が浮かないように、内側へ折り込んである。二重に巻いて、最後を斜めに止めてある。
ほどけたことが一度も無い。二年のあいだ、一度もだ。
どこで覚えたやり方なのかを、僕は知らない。母に習ったものが、家にはいくつもある。
習った覚えのないものが、そのうち手のほうに入っている。
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母は、鞄が重いことに触れなかった。
量ったことも言っていない。九・六という数は、こちらしか持っていない。
持っていても、使い道が無い。減らすものが一つも無いからになる。
全部要るものだ。要るものを減らせないのは、たぶん当たり前になる。
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持ち物を忘れたことが、九年間で一度も無い。
忘れそうになった日はある。前の晩に、母が並べるのを見ているから思い出す。
並べなさい、と言われたことは無い。母が自分の手で並べておく。
こちらは、それを鞄へ入れるだけになる。入れるのは自分だ、という形にしてある。
形にしてあるだけで、決めているのは母のほうになる。
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四月の予定表を、僕は書き直した。
五枚目を貼ったのは三月で、それを剥がさずに、上へ六枚目を重ねた。
六枚重なると、いちばん下が浮く。浮きは、前より大きい。
画鋲を一つ足した。四つが五つになる。壁の穴も一つ増えた。
増えた穴を、母は見ていると思う。何も言わない。
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母は一度も、部屋の壁のことを言わなかった。
画鋲の穴も、重なった紙も、九年間で一度も話に出ていない。
言われないので、こちらは足し続けている。足すのをやめる理由が来ない。
来ないものを待っているわけでもない。待つという形も、たぶん持っていなかった。
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四月の練習で、僕は岡田の前を走った。
林さんが先頭で、二番目が僕、三番目が三浦、いちばん後ろが岡田になる。
三浦は、去年より少し速くなっている。差が十一秒から七秒に縮んだ。
こちらは、去年の四分十九秒のままだ。動いていない。
動いていないのに、位置は上がっている。人が増えたぶんだけになる。
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走っているあいだ、後ろから足音が二つ聞こえる。
三浦のは、着地が重い。岡田のは、軽くて速い。回転が多いぶん、音の間隔が短い。
その二つが、直線の途中で入れ替わることがある。入れ替わる場所は、たいてい同じになる。
どこで入れ替わったかを、こちらは音だけで言える。
言えることを、誰にも言っていない。
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岡田は、練習のあとによく喋る。
喋る相手は三浦で、こちらではない。三人でいるときも、話は二人のあいだで回る。
こちらは近くにいて、聞いている。うなずくところで、ちゃんとうなずく。
うなずき方だけは、しっかり身についている。教わっていないのに正確になっている。
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その月に、僕が岡田へ言ったことは三つだった。
水は持ってきたか、が一つ。日誌の欄がずれている、が二つ。
三つ目は、おつかれ、になる。帰りの部室で、そう言った。
三つとも、用のあることだ。用の無い話は、一度もしていない。
しない理由を、そのころは考えていない。
せっかく下に一人来たのに、という言い方も、その年には出なかった。
出る先が無いからだと思う。せっかく、は誰かに向けて出る言葉になる。
向ける相手がいないと、その形は立たない。立たないまま、四月が終わった。
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上にいるというのは、何かを渡す側になることらしい。
世間ではそうなっている。テレビでも、そういう先輩が出てくる。
こちらは、渡すものを持っていなかった。数なら持っている。
数を渡しても、受け取った側で使えるものにならない。
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四分十九秒を、岡田はその後もときどき口に出した。
高梨先輩の記録、というかたちで、林さんに向けて言う。
言われるたびに、こちらは、いや、と言った。いや、で済ませている。
済ませたぶんが、どこにも行かずに残る。
残ったものを、僕は二年のあいだ持ち歩いた。
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中学の三年間、僕はいちばん上にいた。
いちばん上にいたのに、下に人がいた覚えが無い。
下に人が入ると、こちらは上にいることになる。




