第070話 お前は俺と違う
三月二十九日に、父方の実家へ行った。
父と二人になる。母と千尋は行かない。
行くと決めたのが誰なのかは、いまも分からない。前の晩に、母が明日ね、と言った。
誰が決めたのかを訊いていない。訊く形が無いのは、この家ではいつものことになる。
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出たのは八時二十分だった。
片道が一時間半で、高速を四十分使う。祖母の家は、山のほうへ入ったところにある。
二人きりで車に乗るのは、覚えているかぎり初めてだ。
初めてなので、どこに座るかで少し迷う。後ろに乗るのは変だと思った。
助手席に座った。座ってから、シートの位置が母の高さのままだと気づいた。
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後ろの座席に、箱が四つ積んである。
白い箱で、上に会社の名前が入っている。父の仕事の物になる。
中身は見ていない。見せてもらったことも無い。
医者に渡すものらしい。らしい、というのは、そこまでしか聞いていないからになる。
父が何をどう渡しているのかを、僕は十六年知らないままでいる。
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車の中は、たばこのにおいがしなかった。
父は吸わない。かわりに、消臭剤のにおいがする。甘くない、薬みたいなにおいだ。
ダッシュボードの上に、名刺入れが二つ置いてある。
二つある理由は分からない。片方が予備なのだと思う。
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ラジオがついていた。
交通情報と、天気と、曲が順番に流れる。音は小さい。
父は途中で一度も変えなかった。局も、音量も動かしていない。
変えないというのは、たぶん聞いていないという意味になる。
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一時間半のあいだに、父が話したのは三回だった。
一回目が、寒くないか。二回目が、着くまで寝ていていい。
三回目は、サービスエリアに入るときの、寄るぞ、になる。
三回とも、こちらは、はい、と答えた。それ以外の言い方が出てこない。
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サービスエリアに入ったのは九時十分だった。
父は缶コーヒーを二つ買って、一つをこちらへ渡した。
銘柄は訊かれていない。無糖のやつで、僕はふだん飲まない。
飲めますと言おうとして、言わないまま開けた。
飲むと、口の中が乾く。乾くのに、最後まで飲んだ。
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父の手を、僕はその日はっきり見た。
ハンドルを持つと、甲の血管が浮く。爪は短く切ってある。左の親指の爪だけ、縦の筋が深い。
腕時計は、金属のバンドで、内側が擦れて色が変わっている。
同じ時計を、僕は小学生のころから見ている。替わったことが一度も無い。
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父の首のうしろに、日に焼けた跡があった。
外を歩く仕事だからだと思う。襟の線のところで、色が切り替わっている。
髪の生え際が、上のほうで薄くなっている。運転席の後ろから見ないと分からない。
助手席からは見えない位置になる。信号で止まったときに、一度だけ見えた。
見えたことを、こちらは何とも思わなかった。思わなかったことを、いま書いている。
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着いたのは九時五十分だった。
祖母の家は、第一部で書いた家と同じになる。門から玄関まで、砂利が敷いてある。
砂利の音は、四年前と同じだった。踏むと、足の下で位置が変わる。
玄関の引き戸が固い。持ち上げるようにして引くと開く。開け方を、僕は覚えていた。
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祖母は座って話せた。
八十三で、去年の三月に会ったのが最後になる。二年ぶりではなく、一年ぶりだ。
髪が薄くなっていた。座布団の上で、足を横に流して座る。前は正座だった。
声は変わらない。よく通る。話の速さも変わっていない。
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伯父の家族が来ていた。
伯父と、その息子が二人いる。二人とも僕より年下で、下は小学生になる。
人は七人だった。四年前は六人で、そのときは千尋がいて、伯父の下の子がいなかった。
座敷に座って、菓子と茶が出る。菓子は二種類で、片方は四年前と同じものになる。
時計は柱の上にある。振り子のやつで、鳴るのは正時になる。
十時に一度鳴った。鳴っている十秒くらい、誰も喋らなかった。
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祖母は、僕に二つ訊いた。
高校はどこか、というのが一つ目になる。東雲です、と答えた。
二つ目は、部活は何をしているか、だった。陸上です、と答えた。
二つとも、答えは一語で済む。済んだので、そこで終わった。
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成績のことは訊かれなかった。
訊かれなかったのは、その日が初めてになる。四年前は訊かれている。
訊かれなかったほうが楽なはずだった。楽ではなかった理由は、また書けない。
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昼に、祖母が父のほうを見ずに言った。
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「隆はもっとできたのにねえ」
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四年前にも、同じ言い方を聞いている。
あのときは、誰に向かって言ったのかが分からなかった。千尋は寝ていた。
その日は、父が同じ部屋にいる。座卓の向こう側で、湯呑みを持っていた。
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父の顔は変わらなかった。
うん、とも言わない。麦茶を飲んで、湯呑みを座卓に置いた。
置く音が、そのとき聞こえた。木の上で、底が当たる音になる。
四年前も、たぶん同じ音が鳴っている。あのときは聞こえていない。
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伯父が、その話を引き取らなかった。
別の話へ移したわけでもない。しばらく誰も何も言わなかった。
時計の振り子の音が、その十秒くらいのあいだ、いちばん大きい音になる。
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なんで何も言わないんですか、と訊こうとした。
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祖母は、そのあと僕の名前を一度間違えた。
千尋、と呼ばれた。すぐに、秀真ね、と言い直した。
言い直したので、そこは何も起きていない。
起きていないのに、僕はそれを覚えている。
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昼ごはんは、伯母が作ったものだった。
煮物と、焼いた魚と、汁が出る。米は釜で炊いてあって、家のよりやわらかい。
やわらかいのが好きかどうかを、こちらは決めたことがない。
出されたものを、僕はいつも全部食べる。ちゃんと食べるのは当たり前になっている。
その日も全部食べた。伯母が、よく食べるわね、と言った。
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世間では、こういう家に来ると子どもが騒ぐものらしい。
伯父のところの下の子は、座敷を出たり入ったりしていた。誰も注意しない。
こちらは座ったまま、汁が冷めるまで動かなかった。
だらしないと言われないやり方を、僕は小さいころに覚えている。
覚えたのに、それを立派だと言われたことは一度も無い。
言われないので、正しいのかどうかは、いまも決まらない。
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二時十分に家を出た。
祖母は玄関まで出てきた。立つのに、伯父が手を貸している。
引き戸のところで、また来なさい、と言われた。
はい、と答えた。次にいつ来るかは、その場では決まっていない。
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帰りの車は、行きより静かだった。
ラジオはついている。父は同じ局のままにしている。
高速に入って、二十分くらいたった。
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「お前は俺と違う」
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それだけだった。
前を見たまま言っている。こちらを見ていない。
言い終わって、ウインカーを出した。右へ寄って、前の車を抜く。
抜いてから、また左へ戻った。戻るまでに十秒くらいある。
その十秒のあいだ、僕は何も言わなかった。
言わないでいるあいだ、こちらの膝の上で手が動いていた。
右手の親指で、左手の甲を押している。押すと、少し白くなって、すぐ戻る。
戻り方を見ていた。見ていることに気づいて、手を離した。
離してから、窓のほうを向いた。外は、まだ明るい。
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どういう意味ですか、とは訊けない。
訊く形を、僕は持たないままここまで来た。九年間、授業で一度も手を挙げていない。
家の中でも、訊く側になったことが無い。訊かれる側で九年やってきた。
やってきたぶんだけ、その形が固まっている。固まったものは、車の中では動かない。
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意味は三つ考えられる。
お前は俺より下だ、が一つ目になる。
お前は俺より上だ、が二つ目だ。
お前は俺とは別の人間だ、が三つ目になる。
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僕は一つ目で受け取った。
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受け取った理由は、その日の順番にある。
祖母が、隆はもっとできたのにねえ、と言った。そのあとの車の中で出ている。
あの言葉の続きとして置くと、一つ目にしかならない。
置き方を決めたのはこちらで、父は置き方まで指定していない。
指定されていないものを、こちらは勝手にいちばん低いところへ置いた。
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父は、そのあと何も言わなかった。
家に着くまで、あと一時間ある。一時間のあいだ、ラジオだけが鳴っている。
途中で天気予報が二回入った。二回とも、同じ内容だった。
二回目を聞いているときに、父が一度、鼻から息を出した。
それが何かの返事だったのかどうかは、分からない。
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家に着いたのは三時四十分だった。
母が玄関にいて、おかえり、と言った。
どうだった、と訊かれた。訊いたのは祖母のことで、成績のことではない。
元気でした、と答えた。座って話せました、とも言った。
母は、そう、と言って、それで終わった。
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父が言ったことを、僕は母に言わなかった。
言う場面はあった。夕飯まで三時間ある。
三時間のあいだに、母と二人になった時間が二回あった。
二回とも、言わなかった。言わない理由は、いまも書けない。
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せっかく二人で行ったのに、と母が言うことはなかった。
行ったこと自体について、母は何も訊かない。祖母のことだけを訊いた。
きちんと座って話せたかどうか。食べられているかどうか。
訊く先が、いつも身体のほうへ行く。順位のときと同じ形になる。
同じ形だということに、僕はその日まで気づいていなかった。
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母は一度も、父の話を息子にしない。
父がどういう人かを、母の口から聞いたことが無い。
仕事の中身も、休みの日の行き先も、家の中で音になっていない。
なっていないので、こちらは父を数でしか持っていない。
去年の帰宅は、十一時台が百八日、十二時を過ぎた日が四十一日ある。
休みは年に三十九日で、そのうち家にいたのは二十三日になる。
車の走行距離は、一年で二万四千キロを超えた。メーターを何度か見て覚えている。
三つとも、誰にも訊かずに集まった数だ。集めた理由は、いまも説明できない。
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父が医学部を受けたことがあるのを、僕は知らない。
その年も、知らないままだった。
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その夜、僕は表を書いた。
二年の四月からの表になる。五枚目だ。
定規を机の端に出して、使わずに引いた。線はまっすぐになる。
寝る時刻の欄に、十一時三十分と書いた。四月から一度も変えていない数になる。
書いた数と実際の数が離れていることを、書きながら知っている。
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表を貼るときに、四枚目の上に重ねた。
五枚重なると、いちばん下が浮く。浮いたところを、その夜は誰も押さなかった。
押されなかったので、そのままにした。
いまも実家の壁に、五枚重なって残っていると思う。確かめていない。
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高校一年が終わる。
一六八から二〇八まで、四十下がった。千五百は四分二十六秒から四分十九秒になる。
持っていなかった言葉が三つ増えて、使わない言葉が一つ増えた。
寝る時刻をうしろへ動かした回数は、九月の十六回までしか数えていない。
時計を見なかった朝が、一月に一日、二月と三月に何日かある。
出さなかった紙が三枚あって、三枚とも引き出しの束の下にある。
全部書き出すと、動いたものは多い。多いのに、こちらは何も決めていない。
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お前は俺と違う、を、僕はその後も何度か思い出した。
思い出すたびに、一つ目で受け取りなおしている。
二つ目と三つ目があることは、その日から知っていた。知っていて、選ばない。
選ばないでいると、そのうち一つ目しか残らなくなる。
残らなくなったのがいつかは、やはり特定できない。
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意味が分からないまま、僕はそれを持ち帰った。




