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自慢の息子  作者: 智珠
第四部 身の程

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第069話 佳代子(二)

 三月二十四日の夜、十一時前に台所へ下りた。


 秀真は十時四十分に部屋へ上がった。千尋は十時前に寝ている。


 湯呑みにお茶を入れて、立ったまま飲む。座らないのは、座ると長くなるから。


 流しには、今日ぶんが片づいている。明日の米は研いで、水に浸けてある。


            *


 記録帳が、明日から十七冊目になる。


 十六冊目は、あと二ページで終わる。一冊が百二十ページで、だいたい一年で一冊になる。


 新しいのは先月のうちに買った。買ってあると安心する。


 同じものが、いまも同じ店に置いてある。十六年、一度も変わっていない。


            *


 今日は、通知表を見た。


 所見は読んでいない。あれはどの子も同じことが書いてあるから。


 わたしが見るのは、いちばん下の右になる。


 欠席、零日。遅刻、零回。早退、零回。


            *


 うれしかった。


 この一年、一日も休ませていない。休みたいと言われたことも無い。


 言われたら休ませたと思う。言われないので、そのままになる。


 休まなかったのね、と言った。ほかに言うことが思いつかなかった。


            *


 順位の紙も見ている。


 二〇八と書いてあった。三二〇人のうちの、という但し書きがついている。


 中学のときは一番だった。高校では二〇八になる。


 この二つを、どう並べればいいのかが分からない。


 学校が違うから、比べられないのだと思う。集まっている子が違う。


            *


 比べられないものを、わたしは家で口に出さないことにしている。


 口に出すと、この子が答えを用意しなければならなくなる。


 この子は、訊かれたら必ず何か答える。答えられないとは言わない子だから。


 だから訊かない。訊かないでいるのが、うちではいちばん少なく済む。


            *


 中学のとき、先生に一つ言われたことがある。


 三者面談のときで、二秒くらい黙ってから、大丈夫ですかね、と言われた。


 何が、とは訊かなかった。訊けばよかったのかもしれない。


 あのとき訊かなかったことを、いまでも一年に何回か思い出す。


 思い出すたびに、こわい。何がこわいのかは、うまく言えない。


            *


 一月から、階段の下の電気を消していない。


 消していないだけで、何もしていない。


            *


 この冬、この子は夜中に下りてくる日があった。


 足音でわかる。踏む場所が決まっているから、四段目と七段目が鳴る。


 水を飲んで、少し立って、上がっていく。台所にいる時間は一分くらい。


 わたしは布団の中で聞いている。出ていかない。出ていくと、この子が下りなくなるから。


            *


 ごはんの量は、二学期の途中から戻した。


 中学のときに一度、二割ほど減らしたことがある。訊かずに減らした。


 訊けば、この子は大丈夫と言う。言わせてしまうから訊かない。


 高校で走るようになってから、減らす必要が無くなった。よく食べる。


 三学期は、二日に一度おかわりをした。数えている。


 弁当は、八月だけ二つ持たせた。二つ持って出た朝が二十二回ある。


 夜のぶんに揚げ物は入れなかった。傷むので、そこは決めていた。


 二十二回のうち、残して帰ったのは二日だけになる。


            *


 靴の減りが早い。


 六月に買ったものが、二月には底が平らになっていた。


 そろそろじゃない、と一度言った。まだ履けます、と返ってきた。


 そこで終わりにした。買ってやってもよかったと思う。


 思ったのに、しなかった。理由は自分でもよく分からない。


            *


 二月の日曜に、朝から出ていった日がある。


 学校です、と言った。日曜に学校へ行く用があるのだろうと思った。


 寒い日だったので、温かいお茶を入れて持たせた。


 帰ってきたのが六時十分で、水筒は空になっていた。


 空にして返してくる。この子は昔からそうする。


 水筒を受け取ったとき、この子は何か言おうとした。


 口が動いて、それだけで終わった。何を言おうとしたのかは分からない。


 訊けばよかったのかもしれない。台所に湯が沸いていたので、そちらへ行った。


            *


 どこへ行ったのかは訊いていない。


 訊かないのは、この子が言わないから。言わないことには、たぶん理由がある。


 理由まで訊く親には、わたしはなれなかった。


 なれなかったことを、悪いとは思っていない。


            *


 うちは、言わない家だと思う。


 夫も言わない。帰りが遅くなっても、遅くなるとは言わない。


 言われないので、こちらは何時に帰っても食べられるようにしておく。


 それを十八年やっている。やっているうちに、訊くという形が家から無くなった。


 無くなったことに気づいたのは、去年のいつかになる。日は決められない。


            *


 正月に、姉に訊かれた。


 秀真くんは、どこ受けるの、と言われた。


 まだ一年生だから、と答えて、話を千尋のほうへ動かした。


 わたしが答えなかったのは、この子のためではない。


            *


 うちの話をすると、姉も話さなければならなくなる。


 姉のところの子は、二年前から名前が出ない。


 出ないものを、こちらから出させることはできなかった。


 だから、うちのぶんも出さない。二つとも黙っていれば、どちらも痛まない。


 これは姉のためで、自分のためでもある。


            *


 姉のところは、ずっと先を行っていた。


 わたしが持てなかったものを、姉は最初から持っていた。


 その姉の家で、いま名前が出ない子がいる。


 そのことについて、わたしは何も思わないようにしている。


 ようにしている、と書く時点で、何か思っているのだと思う。


            *


 十一月に、一日だけ寝込んだ。


 三十八度二分あった。朝の弁当は前の晩に作ってあったので、そこは困らなかった。


 千尋が二回、部屋へ来た。二回目はタオルを持ってきた。


 秀真は来なかった。


            *


 来なかったことを、わたしは何とも思っていない。


 あの子は、どうしていいか分からないと動かない。昔からそう。


 夕方に起きて、うどんを作った。四人ぶん作って、自分のぶんは半分残した。


 残したことに、誰も何も言わなかった。それでよかった。


            *


 あの日、秀真は昼に一度、部屋の前まで来ていた。


 廊下の板が鳴ったので分かる。鳴って、そのあと戻っていった。


 入ってこなかったので、寝たふりを続けた。


 どちらが先に動かなかったのかは、いま考えても決まらない。


            *


 手の割れは、今年もひどかった。


 指の関節の外側が横に切れて、水に触ると開く。


 絆創膏を巻いて、毎日替える。替えるのは朝の五時台になる。


 三月に入って閉じた。閉じたあとに白い線が残る。


 去年の線と今年の線が、どちらがどちらか分からなくなっている。


            *


 白髪は、生え際から来る。


 分け目のところが、去年より広い。染めるのは二か月に一度にしている。


 鏡を見る時間は、朝に三十秒くらい。長く見ても、変えられるところが無い。


 朝は四時五十分に起きる。四月から三月まで、動かした日が四日ある。


 これは自分の話なので、記録帳には書かない。


            *


 記録帳に書いているのは、この子のことだけになる。


 起きた時刻。食べた量。家を出るのと、帰ってくるのが何時だったか。


 四行のときもあるし、三行のときもある。書くことが増えた日は無い。


 点数を書かなくなってから、二年たった。


            *


 書かなくなった理由を、いまなら少し言える。


 書いても、動かないから。


 小学校のころは、書くと動いた。書いたぶん上がっていくのが分かった。


 いまは、書いても同じところにいる。同じところにいるものを毎日書くのは、しんどい。


 しんどい、と書くのは、これが初めてになる。


            *


 それでも、やめない。


 わたしが書かなかったら、この家に残らないから。


 この子が何をした年だったかを、あとで誰かが知りたくなったときに、これしか無い。


 誰かというのが誰なのかは、考えたことがない。


            *


 十六冊目の最後のページに、今日ぶんを書いた。


 起きたのが六時二十分。夕飯は全部食べた。おかわり無し。


 通知表を持って帰った。


 それだけ書いて、下に少し空きが出た。


            *


 空いたところに、もう一行だけ足した。


            *


 一年、一日も休まなかった。


            *


 これは、わたしが見ていたことになる。


 見ていないことは、書けない。

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