第069話 佳代子(二)
三月二十四日の夜、十一時前に台所へ下りた。
秀真は十時四十分に部屋へ上がった。千尋は十時前に寝ている。
湯呑みにお茶を入れて、立ったまま飲む。座らないのは、座ると長くなるから。
流しには、今日ぶんが片づいている。明日の米は研いで、水に浸けてある。
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記録帳が、明日から十七冊目になる。
十六冊目は、あと二ページで終わる。一冊が百二十ページで、だいたい一年で一冊になる。
新しいのは先月のうちに買った。買ってあると安心する。
同じものが、いまも同じ店に置いてある。十六年、一度も変わっていない。
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今日は、通知表を見た。
所見は読んでいない。あれはどの子も同じことが書いてあるから。
わたしが見るのは、いちばん下の右になる。
欠席、零日。遅刻、零回。早退、零回。
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うれしかった。
この一年、一日も休ませていない。休みたいと言われたことも無い。
言われたら休ませたと思う。言われないので、そのままになる。
休まなかったのね、と言った。ほかに言うことが思いつかなかった。
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順位の紙も見ている。
二〇八と書いてあった。三二〇人のうちの、という但し書きがついている。
中学のときは一番だった。高校では二〇八になる。
この二つを、どう並べればいいのかが分からない。
学校が違うから、比べられないのだと思う。集まっている子が違う。
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比べられないものを、わたしは家で口に出さないことにしている。
口に出すと、この子が答えを用意しなければならなくなる。
この子は、訊かれたら必ず何か答える。答えられないとは言わない子だから。
だから訊かない。訊かないでいるのが、うちではいちばん少なく済む。
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中学のとき、先生に一つ言われたことがある。
三者面談のときで、二秒くらい黙ってから、大丈夫ですかね、と言われた。
何が、とは訊かなかった。訊けばよかったのかもしれない。
あのとき訊かなかったことを、いまでも一年に何回か思い出す。
思い出すたびに、こわい。何がこわいのかは、うまく言えない。
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一月から、階段の下の電気を消していない。
消していないだけで、何もしていない。
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この冬、この子は夜中に下りてくる日があった。
足音でわかる。踏む場所が決まっているから、四段目と七段目が鳴る。
水を飲んで、少し立って、上がっていく。台所にいる時間は一分くらい。
わたしは布団の中で聞いている。出ていかない。出ていくと、この子が下りなくなるから。
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ごはんの量は、二学期の途中から戻した。
中学のときに一度、二割ほど減らしたことがある。訊かずに減らした。
訊けば、この子は大丈夫と言う。言わせてしまうから訊かない。
高校で走るようになってから、減らす必要が無くなった。よく食べる。
三学期は、二日に一度おかわりをした。数えている。
弁当は、八月だけ二つ持たせた。二つ持って出た朝が二十二回ある。
夜のぶんに揚げ物は入れなかった。傷むので、そこは決めていた。
二十二回のうち、残して帰ったのは二日だけになる。
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靴の減りが早い。
六月に買ったものが、二月には底が平らになっていた。
そろそろじゃない、と一度言った。まだ履けます、と返ってきた。
そこで終わりにした。買ってやってもよかったと思う。
思ったのに、しなかった。理由は自分でもよく分からない。
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二月の日曜に、朝から出ていった日がある。
学校です、と言った。日曜に学校へ行く用があるのだろうと思った。
寒い日だったので、温かいお茶を入れて持たせた。
帰ってきたのが六時十分で、水筒は空になっていた。
空にして返してくる。この子は昔からそうする。
水筒を受け取ったとき、この子は何か言おうとした。
口が動いて、それだけで終わった。何を言おうとしたのかは分からない。
訊けばよかったのかもしれない。台所に湯が沸いていたので、そちらへ行った。
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どこへ行ったのかは訊いていない。
訊かないのは、この子が言わないから。言わないことには、たぶん理由がある。
理由まで訊く親には、わたしはなれなかった。
なれなかったことを、悪いとは思っていない。
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うちは、言わない家だと思う。
夫も言わない。帰りが遅くなっても、遅くなるとは言わない。
言われないので、こちらは何時に帰っても食べられるようにしておく。
それを十八年やっている。やっているうちに、訊くという形が家から無くなった。
無くなったことに気づいたのは、去年のいつかになる。日は決められない。
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正月に、姉に訊かれた。
秀真くんは、どこ受けるの、と言われた。
まだ一年生だから、と答えて、話を千尋のほうへ動かした。
わたしが答えなかったのは、この子のためではない。
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うちの話をすると、姉も話さなければならなくなる。
姉のところの子は、二年前から名前が出ない。
出ないものを、こちらから出させることはできなかった。
だから、うちのぶんも出さない。二つとも黙っていれば、どちらも痛まない。
これは姉のためで、自分のためでもある。
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姉のところは、ずっと先を行っていた。
わたしが持てなかったものを、姉は最初から持っていた。
その姉の家で、いま名前が出ない子がいる。
そのことについて、わたしは何も思わないようにしている。
ようにしている、と書く時点で、何か思っているのだと思う。
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十一月に、一日だけ寝込んだ。
三十八度二分あった。朝の弁当は前の晩に作ってあったので、そこは困らなかった。
千尋が二回、部屋へ来た。二回目はタオルを持ってきた。
秀真は来なかった。
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来なかったことを、わたしは何とも思っていない。
あの子は、どうしていいか分からないと動かない。昔からそう。
夕方に起きて、うどんを作った。四人ぶん作って、自分のぶんは半分残した。
残したことに、誰も何も言わなかった。それでよかった。
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あの日、秀真は昼に一度、部屋の前まで来ていた。
廊下の板が鳴ったので分かる。鳴って、そのあと戻っていった。
入ってこなかったので、寝たふりを続けた。
どちらが先に動かなかったのかは、いま考えても決まらない。
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手の割れは、今年もひどかった。
指の関節の外側が横に切れて、水に触ると開く。
絆創膏を巻いて、毎日替える。替えるのは朝の五時台になる。
三月に入って閉じた。閉じたあとに白い線が残る。
去年の線と今年の線が、どちらがどちらか分からなくなっている。
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白髪は、生え際から来る。
分け目のところが、去年より広い。染めるのは二か月に一度にしている。
鏡を見る時間は、朝に三十秒くらい。長く見ても、変えられるところが無い。
朝は四時五十分に起きる。四月から三月まで、動かした日が四日ある。
これは自分の話なので、記録帳には書かない。
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記録帳に書いているのは、この子のことだけになる。
起きた時刻。食べた量。家を出るのと、帰ってくるのが何時だったか。
四行のときもあるし、三行のときもある。書くことが増えた日は無い。
点数を書かなくなってから、二年たった。
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書かなくなった理由を、いまなら少し言える。
書いても、動かないから。
小学校のころは、書くと動いた。書いたぶん上がっていくのが分かった。
いまは、書いても同じところにいる。同じところにいるものを毎日書くのは、しんどい。
しんどい、と書くのは、これが初めてになる。
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それでも、やめない。
わたしが書かなかったら、この家に残らないから。
この子が何をした年だったかを、あとで誰かが知りたくなったときに、これしか無い。
誰かというのが誰なのかは、考えたことがない。
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十六冊目の最後のページに、今日ぶんを書いた。
起きたのが六時二十分。夕飯は全部食べた。おかわり無し。
通知表を持って帰った。
それだけ書いて、下に少し空きが出た。
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空いたところに、もう一行だけ足した。
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一年、一日も休まなかった。
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これは、わたしが見ていたことになる。
見ていないことは、書けない。




