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自慢の息子  作者: 智珠
第四部 身の程

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73/103

第068話 二〇八

```

東雲高等学校  通知表  第一学年 四組


                        

高梨 秀真



【一学期 所見】


落ち着いて学校生活を送っています。

提出物はきちんと出せています。

二学期も、この調子で取り組んでください。



【二学期 所見】


学習に真面目に取り組んでいます。

与えられたことを最後までやり遂げる姿勢が見られます。

三学期も継続してください。



【三学期 所見】


一年間、落ち着いて生活できました。

二年次も、目標を持って取り組んでください。



                        

欠席  

零日

                        

遅刻  

零回

                        

早退  

零回

```


 返却は三月十七日だった。


 答案は教科ごとに返って、順位の紙は担任から一人ずつ渡される。四回目になる。


 名前を呼ばれて、前へ出て、二つに折った紙を受け取る。


 受け取ってから席に戻るまでが、その日は五歩だった。席が一つ前になっている。


            *


 二〇八だった。


 三二〇のうちの二〇八になる。


            *


 五月が一六八で、七月が一四〇、十月が一九一だ。


 一六八から二〇八まで、四十下がっている。


 引き算を三回した。三回とも同じ数が出た。


 出るに決まっている。決まっていても、三回やる。


            *


 数学は一九八だった。


 十月が二三〇なので、三十二上がっている。


 冬に数学だけをやった。範囲の紙の単元を、くり返し通してある。


 通したぶんが、そのまま数になって戻ってきた。やれば動く、というのが分かった。


            *


 数学が上がって、総合が下がっている。


 英語が九十四番から一四七番へ落ちた。古典は一六二番から二二〇番になる。


 世界史は数えていない。数えていないというより、途中から見なくなった。


 冬に使った時間は増えていない。数学へ回したぶんが、どこかから抜けている。


 抜けた場所は、あとから紙で分かった。分かったときには、もう三月だ。


            *


 平均との差の欄で、五教科のうち四つが下になった。


 五月は二つ、七月は零、十月は三つで、三月が四つになる。


 並べると、七月だけが飛び出している。


 その七月に、僕は上がったと言える場所を五つ数えて、五つとも無かった。


            *


 終業式は三月二十四日だった。


 体育館で、校長の話がある。何を話したかを、僕は覚えていない。


 立っている時間は二十五分くらいだった。時間だけは出てくる。


 その二十五分のあいだ、僕は前の人の学ランの襟を見ていた。


 襟のホックが片方外れている。外れているのを、四月から見ていたような気がする。


            *


 通知表は、教室で一人ずつ渡された。


 二つ折りの紙で、中に所見と、出席の記録が入っている。


 その場で開ける人と、開けない人がいる。僕は開けた。


 開けて、所見を読んで、それから閉じた。


            *


 所見には、固有の名前が一つも入っていない。


 教科も、行事も、係も出てこない。


 落ち着いて、と、取り組んで、が、三学期ぶんで四回ずつある。


            *


 その文は、誰の通知表に入れても通ると思う。


 入れ替えても、たぶん誰も気づかない。


 気づかないものを書く人が悪いとは思わない。クラス全員ぶんを書く。


 全員ぶん書いて、一人ずつ違うことを書き分けるのは、たぶん無理になる。


 無理だと分かるのに、こちらは自分のぶんを三回読んだ。


            *


 小学五年の通知表には、名前が入っていた。


 千五百メートルのことと、係のことが書いてある。


 三学期には、担任が一行だけ何かを書いていた。何と書いてあったかは、いま出てこない。


 実家の箱に入っている。出せば読める。出していない。


            *


 欠席の欄は、零だった。


 遅刻も零で、早退も零になる。


 出席すべき日数は二〇三日で、出席した日数も二〇三日だ。


 二〇三という数を、僕はその日に初めて見た。数えていたわけではない。


 数えていないのに、合っている。合っているのが当たり前だと思っていた。


            *


 教室を出るときに、小柳がこちらを見た。


 用があるときだけ人を見る人だ。あの日は、用が無い。


 じゃあね、とだけ言った。十一月の廊下で聞いたのと同じ語になる。


 僕は、うん、と答えた。うん、で済ませたのは、その年に何度目かになる。


 数えていない。数えなくなってから、こういうものが全部数から外れた。


            *


 三浦は、その日、通知表を開けなかった。


 鞄に入れて、そのまま帰る用意をしている。


 開けないの、と誰かが訊いた。うち帰ってからでいいや、と答えている。


 その返し方を、僕は借りられない。借りると、身体のほうが合わない。


            *


 二年からは、文系と理系でクラスが分かれる。


 小柳は文系なので、別になる。宮内は理系だ。


 三浦は、その日に文系だと言った。おれ文系、とだけ言って、それで終わっている。


 部活では会う。教室では会わなくなる。


            *


 同じクラスにいた四十人のうち、二年で同じになるのは十七人だった。


 名簿が出たのは四月一日で、そのときに数えた。


 残りとは別になる。別になるうちの何人かは、名前を知らないままだ。


 一年いて、一度も話していない人が、そこに含まれる。


            *


 通知表を家で出したのは、三月二十四日の夜だった。


 夕飯のあとで、八時前になる。順位の紙は、もう出してある。


 順位の紙を出したときは、母は両手で持って、四秒くらい見た。


 そう、と言って、返してくる。それだけになる。


            *


 通知表のほうは、開き方が違った。


 母は、所見の欄を読まなかった。


 目が、いちばん下の右へ行く。そこで止まった。


 止まっている時間が、所見を読むより長い。


            *


 「一年間、休まなかったのね」


            *


 はい、と答えた。


 母は通知表を閉じて、こちらへ返した。


 閉じるときに、紙が合わさる音がした。二つ折りの紙の、乾いた音になる。


 その音を、いまも思い出せる。


            *


 母は、そのあと台所へ行った。


 行く足音は、いつもと同じ速さになる。速い日でも遅い日でもない。


 水を出して、洗いはじめた。皿を拭く順番は、九年前から変わっていない。


 拭き終わって、ふきんを掛けるところまでが十二分ある。


 その十二分のあいだ、こちらは通知表を持ったまま座っていた。


            *


 世間では、こういう日に何か言われるものらしい。


 次はがんばりなさい、でもいいし、よくやったね、でもいい。どちらも出ていない。


 言われないほうが楽だと、こちらは一年ずっと思ってきた。


 思ってきたのに、その夜は台所の音を最後まで聞いていた。


 聞いていた理由は、いまも書けない。


            *


 母の手は、冬のあいだ割れていた。


 指の関節の外側で、横に切れる。そこへ薬を塗って、上から絆創膏を巻く。


 巻いたまま水を使うので、絆創膏は毎日替わる。替えているところは見ていない。


 三月に入って、割れたところが閉じた。閉じたあとに、白い線が残っている。


 線は去年のぶんも残っていると思う。重なっているので、どれがどの年かは分からない。


            *


 休まなかったのは、本当だ。


 二〇三日、全部行っている。熱が出た日も無い。


 行きたくない日はあった。あったのに、行っている。行かないという形を持っていない。


 持っていないだけのものを、母は見て、そこで手を止めた。


            *


 休まなかったのね、は、褒めているのかどうかが分からない。


 褒めるなら、もう少し何か続くはずだと思う。続かなかった。


 責めるつもりなら、形がまったく合っていなかった。責める言い方ではない。


 どちらでもないものを渡されると、こちらは受け取り方を決められない。


 決められないまま持っていると、そのうち、いちばん重い側で持つようになる。


 重い側で持つと決めたのは、こちらになる。母は渡しただけだ。


 渡したものの重さを、渡した人が知らないでいることは、たぶんよくある。


 よくあることの中に、うちの一年が入っている。


            *


 その日いちばん長く覚えているのは、四十という数ではない。


 休まなかったのね、のほうになる。


 四十は、こちらが自分で作った数だ。誰も口に出していない。


 休まなかったのね、は、母の口から出ている。


 出たものと、出なかったものが、残り方で違う。


            *


 母は、順位の話をしなかった。


 二〇八という数を、母は見ている。四秒見ている。


 見て、何も言わない。責めもしないし、慰めもしない。


 言われないので、こちらはその数を自分で持ち続けることになる。


 持ち続けるものが、一年で四つになった。


            *


 どこを見たんですか、と訊こうとした。


            *


 父は、その夜、十一時四十分に帰ってきた。


 通知表を見せる決まりは無い。九年間、一度も見せていない。


 見せろと言われたことも無い。父は自分の子の順位を、たぶん一つも知らない。


 知らないでいるのが、この家では当たり前になっている。


            *


 その夜、通知表を引き出しに入れた。


 束の下ではない。答案の束の上に置いた。


 下に入れるのは、出さなかった紙だけになる。通知表は出している。


 出したものは上に置く。この決まりを、僕はいつのまにか作っていた。


            *


 引き出しの中身が、一年で増えた。


 答案の束と、順位の紙と、証明写真の余りと、しつけ糸と、中学の予定表が入っている。そこへ出さなかった紙が加わった。


 増えたのは、下に入るほうだけになる。上に置くものは、前から入っていた。


 中身が増えるのに、こちらから減らしたものが一つも無い。


 捨てるという動きを、この家では誰も使わない。


            *


 母は一度も、順位を上げなさいとは言わなかった。


 一年間、目標の数字が家の中に一つも出ていない。


 置く場所はあった。置かれていない。置かれていないほうが楽なはずだった。


 楽ではなかった理由を、僕はいまも書けない。


            *


 三月二十五日から春休みになる。


 部活は続く。四月の記録会に向けて、量を戻す時期になった。


 林さんが三年になって、一年が二人入るらしい。人数が五人に戻る。


 五人に戻ると、真ん中がまた真ん中でなくなる。並び方が変わる。


 変わるのが四月からだと分かっているのに、こちらは三月のうちから並べ替えていた。


            *


 春休みの練習は、朝になる。


 九時から十一時半までで、午後は予備校の春期講習に入る。


 朝の九時に走ると、身体が起きていない。三本目まで、脚が別のもののように動く。


 起きるのは六時二十分のままだ。四月から一度も変えていない。


 変えていないものが、この一年で一つだけある。それと、休まなかったことになる。


            *


 しっかりやったかどうかで言えば、しっかりやっている。


 ちゃんと行った。きちんと出した。当たり前のことを、全部当たり前にやった。


 やったのに、数は下がっている。二つが同じ紙の上でつながっていない。


 つながっていないことを、こちらはまだ言葉にしていない。


 言葉にすると、次にやることが変わってしまう。変えるのが立派なのかどうかも分からない。


            *


 春休みのあいだに、僕は表を書き直さなかった。


 三学期のぶんが、まだ貼ってある。四枚重なったままになる。


 書き直す日を決めていない。決めないでいるうちに四月が来た。


 四月に書いたものが、五枚目になる。


            *


 一年でいちばん速くなった。二月に四分十九秒が出ている。


 一年でいちばん下がった。三月に二〇八が出ている。


 二つは同じ年の、同じ二か月のあいだに並んでいる。


 並んでいるのに、家の中に置かれたのは片方だけになる。


            *


 置かれたほうを、僕は毎日見ている。


 置かれなかったほうは、引き出しの奥にあって、見るのに手順が要る。


 手順の要るものは、そのうち見なくなる。見なくなると、無いのと同じ形になる。


 同じ形になっても、実際には無くならない。無くならないのに、こちらは扱いを間違える。


 間違えていることに気づくのは、もっとあとになる。


            *


 四月に入る前、僕は五月からの数を並べた。


 一六八、一四〇、一九一、二〇八。


 上がって、下がって、また下がっている。線にすると、途中で一度だけ上を向く。


 その一度が、いちばん最初の年の、いちばん最初のほうにある。


            *


 一年で四十上がるのではなく、四十下がった。

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