第068話 二〇八
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東雲高等学校 通知表 第一学年 四組
高梨 秀真
【一学期 所見】
落ち着いて学校生活を送っています。
提出物はきちんと出せています。
二学期も、この調子で取り組んでください。
【二学期 所見】
学習に真面目に取り組んでいます。
与えられたことを最後までやり遂げる姿勢が見られます。
三学期も継続してください。
【三学期 所見】
一年間、落ち着いて生活できました。
二年次も、目標を持って取り組んでください。
欠席
零日
遅刻
零回
早退
零回
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返却は三月十七日だった。
答案は教科ごとに返って、順位の紙は担任から一人ずつ渡される。四回目になる。
名前を呼ばれて、前へ出て、二つに折った紙を受け取る。
受け取ってから席に戻るまでが、その日は五歩だった。席が一つ前になっている。
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二〇八だった。
三二〇のうちの二〇八になる。
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五月が一六八で、七月が一四〇、十月が一九一だ。
一六八から二〇八まで、四十下がっている。
引き算を三回した。三回とも同じ数が出た。
出るに決まっている。決まっていても、三回やる。
*
数学は一九八だった。
十月が二三〇なので、三十二上がっている。
冬に数学だけをやった。範囲の紙の単元を、くり返し通してある。
通したぶんが、そのまま数になって戻ってきた。やれば動く、というのが分かった。
*
数学が上がって、総合が下がっている。
英語が九十四番から一四七番へ落ちた。古典は一六二番から二二〇番になる。
世界史は数えていない。数えていないというより、途中から見なくなった。
冬に使った時間は増えていない。数学へ回したぶんが、どこかから抜けている。
抜けた場所は、あとから紙で分かった。分かったときには、もう三月だ。
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平均との差の欄で、五教科のうち四つが下になった。
五月は二つ、七月は零、十月は三つで、三月が四つになる。
並べると、七月だけが飛び出している。
その七月に、僕は上がったと言える場所を五つ数えて、五つとも無かった。
*
終業式は三月二十四日だった。
体育館で、校長の話がある。何を話したかを、僕は覚えていない。
立っている時間は二十五分くらいだった。時間だけは出てくる。
その二十五分のあいだ、僕は前の人の学ランの襟を見ていた。
襟のホックが片方外れている。外れているのを、四月から見ていたような気がする。
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通知表は、教室で一人ずつ渡された。
二つ折りの紙で、中に所見と、出席の記録が入っている。
その場で開ける人と、開けない人がいる。僕は開けた。
開けて、所見を読んで、それから閉じた。
*
所見には、固有の名前が一つも入っていない。
教科も、行事も、係も出てこない。
落ち着いて、と、取り組んで、が、三学期ぶんで四回ずつある。
*
その文は、誰の通知表に入れても通ると思う。
入れ替えても、たぶん誰も気づかない。
気づかないものを書く人が悪いとは思わない。クラス全員ぶんを書く。
全員ぶん書いて、一人ずつ違うことを書き分けるのは、たぶん無理になる。
無理だと分かるのに、こちらは自分のぶんを三回読んだ。
*
小学五年の通知表には、名前が入っていた。
千五百メートルのことと、係のことが書いてある。
三学期には、担任が一行だけ何かを書いていた。何と書いてあったかは、いま出てこない。
実家の箱に入っている。出せば読める。出していない。
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欠席の欄は、零だった。
遅刻も零で、早退も零になる。
出席すべき日数は二〇三日で、出席した日数も二〇三日だ。
二〇三という数を、僕はその日に初めて見た。数えていたわけではない。
数えていないのに、合っている。合っているのが当たり前だと思っていた。
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教室を出るときに、小柳がこちらを見た。
用があるときだけ人を見る人だ。あの日は、用が無い。
じゃあね、とだけ言った。十一月の廊下で聞いたのと同じ語になる。
僕は、うん、と答えた。うん、で済ませたのは、その年に何度目かになる。
数えていない。数えなくなってから、こういうものが全部数から外れた。
*
三浦は、その日、通知表を開けなかった。
鞄に入れて、そのまま帰る用意をしている。
開けないの、と誰かが訊いた。うち帰ってからでいいや、と答えている。
その返し方を、僕は借りられない。借りると、身体のほうが合わない。
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二年からは、文系と理系でクラスが分かれる。
小柳は文系なので、別になる。宮内は理系だ。
三浦は、その日に文系だと言った。おれ文系、とだけ言って、それで終わっている。
部活では会う。教室では会わなくなる。
*
同じクラスにいた四十人のうち、二年で同じになるのは十七人だった。
名簿が出たのは四月一日で、そのときに数えた。
残りとは別になる。別になるうちの何人かは、名前を知らないままだ。
一年いて、一度も話していない人が、そこに含まれる。
*
通知表を家で出したのは、三月二十四日の夜だった。
夕飯のあとで、八時前になる。順位の紙は、もう出してある。
順位の紙を出したときは、母は両手で持って、四秒くらい見た。
そう、と言って、返してくる。それだけになる。
*
通知表のほうは、開き方が違った。
母は、所見の欄を読まなかった。
目が、いちばん下の右へ行く。そこで止まった。
止まっている時間が、所見を読むより長い。
*
「一年間、休まなかったのね」
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はい、と答えた。
母は通知表を閉じて、こちらへ返した。
閉じるときに、紙が合わさる音がした。二つ折りの紙の、乾いた音になる。
その音を、いまも思い出せる。
*
母は、そのあと台所へ行った。
行く足音は、いつもと同じ速さになる。速い日でも遅い日でもない。
水を出して、洗いはじめた。皿を拭く順番は、九年前から変わっていない。
拭き終わって、ふきんを掛けるところまでが十二分ある。
その十二分のあいだ、こちらは通知表を持ったまま座っていた。
*
世間では、こういう日に何か言われるものらしい。
次はがんばりなさい、でもいいし、よくやったね、でもいい。どちらも出ていない。
言われないほうが楽だと、こちらは一年ずっと思ってきた。
思ってきたのに、その夜は台所の音を最後まで聞いていた。
聞いていた理由は、いまも書けない。
*
母の手は、冬のあいだ割れていた。
指の関節の外側で、横に切れる。そこへ薬を塗って、上から絆創膏を巻く。
巻いたまま水を使うので、絆創膏は毎日替わる。替えているところは見ていない。
三月に入って、割れたところが閉じた。閉じたあとに、白い線が残っている。
線は去年のぶんも残っていると思う。重なっているので、どれがどの年かは分からない。
*
休まなかったのは、本当だ。
二〇三日、全部行っている。熱が出た日も無い。
行きたくない日はあった。あったのに、行っている。行かないという形を持っていない。
持っていないだけのものを、母は見て、そこで手を止めた。
*
休まなかったのね、は、褒めているのかどうかが分からない。
褒めるなら、もう少し何か続くはずだと思う。続かなかった。
責めるつもりなら、形がまったく合っていなかった。責める言い方ではない。
どちらでもないものを渡されると、こちらは受け取り方を決められない。
決められないまま持っていると、そのうち、いちばん重い側で持つようになる。
重い側で持つと決めたのは、こちらになる。母は渡しただけだ。
渡したものの重さを、渡した人が知らないでいることは、たぶんよくある。
よくあることの中に、うちの一年が入っている。
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その日いちばん長く覚えているのは、四十という数ではない。
休まなかったのね、のほうになる。
四十は、こちらが自分で作った数だ。誰も口に出していない。
休まなかったのね、は、母の口から出ている。
出たものと、出なかったものが、残り方で違う。
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母は、順位の話をしなかった。
二〇八という数を、母は見ている。四秒見ている。
見て、何も言わない。責めもしないし、慰めもしない。
言われないので、こちらはその数を自分で持ち続けることになる。
持ち続けるものが、一年で四つになった。
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どこを見たんですか、と訊こうとした。
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父は、その夜、十一時四十分に帰ってきた。
通知表を見せる決まりは無い。九年間、一度も見せていない。
見せろと言われたことも無い。父は自分の子の順位を、たぶん一つも知らない。
知らないでいるのが、この家では当たり前になっている。
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その夜、通知表を引き出しに入れた。
束の下ではない。答案の束の上に置いた。
下に入れるのは、出さなかった紙だけになる。通知表は出している。
出したものは上に置く。この決まりを、僕はいつのまにか作っていた。
*
引き出しの中身が、一年で増えた。
答案の束と、順位の紙と、証明写真の余りと、しつけ糸と、中学の予定表が入っている。そこへ出さなかった紙が加わった。
増えたのは、下に入るほうだけになる。上に置くものは、前から入っていた。
中身が増えるのに、こちらから減らしたものが一つも無い。
捨てるという動きを、この家では誰も使わない。
*
母は一度も、順位を上げなさいとは言わなかった。
一年間、目標の数字が家の中に一つも出ていない。
置く場所はあった。置かれていない。置かれていないほうが楽なはずだった。
楽ではなかった理由を、僕はいまも書けない。
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三月二十五日から春休みになる。
部活は続く。四月の記録会に向けて、量を戻す時期になった。
林さんが三年になって、一年が二人入るらしい。人数が五人に戻る。
五人に戻ると、真ん中がまた真ん中でなくなる。並び方が変わる。
変わるのが四月からだと分かっているのに、こちらは三月のうちから並べ替えていた。
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春休みの練習は、朝になる。
九時から十一時半までで、午後は予備校の春期講習に入る。
朝の九時に走ると、身体が起きていない。三本目まで、脚が別のもののように動く。
起きるのは六時二十分のままだ。四月から一度も変えていない。
変えていないものが、この一年で一つだけある。それと、休まなかったことになる。
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しっかりやったかどうかで言えば、しっかりやっている。
ちゃんと行った。きちんと出した。当たり前のことを、全部当たり前にやった。
やったのに、数は下がっている。二つが同じ紙の上でつながっていない。
つながっていないことを、こちらはまだ言葉にしていない。
言葉にすると、次にやることが変わってしまう。変えるのが立派なのかどうかも分からない。
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春休みのあいだに、僕は表を書き直さなかった。
三学期のぶんが、まだ貼ってある。四枚重なったままになる。
書き直す日を決めていない。決めないでいるうちに四月が来た。
四月に書いたものが、五枚目になる。
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一年でいちばん速くなった。二月に四分十九秒が出ている。
一年でいちばん下がった。三月に二〇八が出ている。
二つは同じ年の、同じ二か月のあいだに並んでいる。
並んでいるのに、家の中に置かれたのは片方だけになる。
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置かれたほうを、僕は毎日見ている。
置かれなかったほうは、引き出しの奥にあって、見るのに手順が要る。
手順の要るものは、そのうち見なくなる。見なくなると、無いのと同じ形になる。
同じ形になっても、実際には無くならない。無くならないのに、こちらは扱いを間違える。
間違えていることに気づくのは、もっとあとになる。
*
四月に入る前、僕は五月からの数を並べた。
一六八、一四〇、一九一、二〇八。
上がって、下がって、また下がっている。線にすると、途中で一度だけ上を向く。
その一度が、いちばん最初の年の、いちばん最初のほうにある。
*
一年で四十上がるのではなく、四十下がった。




