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自慢の息子  作者: 智珠
第四部 身の程

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第067話 手ごたえ

 学年末考査は、三月四日から十日までだった。


 土日をはさんで五日間になる。九教科を、一日二教科か三教科で回す。


 三年ぶんある教科は無い。一年でやったところが範囲になる。


 範囲の紙は二月十七日に配られた。A四で二枚あって、教科ごとに単元が並んでいる。


            *


 部活は二月二十六日から休みに入った。


 休みは三月十日までで、十三日間になる。


 その十三日間で使える時間は、一日あたり二時間増える計算だ。


 二時間かける十三で、二十六時間になる。


            *


 二十六時間を、僕は全部使えなかった。


 使えたのは、たぶん十五時間くらいだと思う。正確には数えていない。


 数えていないのは、二月から数えるのをやめたからになる。


 やめてから、こういうところが全部あいまいになった。


            *


 試験の五日間だけ、母は夕飯を三十分早くした。


 六時半だったものが六時になる。


 言われていない。並んだ時間が変わっただけになる。


 早くなったぶん、机につくのが三十分早くなる。五日で二時間半になった。


            *


 三十分早く食べるためには、その前が全部三十分早く動いていないといけない。


 買い物も、下ごしらえも、火を使う順番も動く。


 動かした分を、母は言わない。試験だからね、とも言われていない。


 言われないので、こちらはありがとうを言う場面を作れなかった。


 作れないのではなく、作らないでいる。この二つの違いを、いま書きながら考えている。


            *


 世間では、こういうときに何か言うのが当たり前らしい。


 助かる、でもいいし、ありがとう、でもいい。どちらもうちの食卓に無い言葉になる。


 無い言葉を出すと、そこだけ音が浮く。浮くのが分かるので、こちらは出さない。


 出さないでいるのを、だらしないとは思わなかった。行儀の問題だと思っていた。


 行儀のほうに寄せておくと、やらない理由が立つ。立つ理由を、僕はいくつも持っている。


            *


 一日目は現代文と数学Ⅰだった。


 現代文は、範囲に入っていた四つの文章のうち三つが出た。出なかった一つを、僕は三回読んでいる。


 数学Ⅰは、大問が五つある。四つ目まで通った。五つ目は途中で止まった。


 止まった場所を、僕はその日のうちに教科書で確かめている。


 確かめて、解き方が分かった。試験のあいだには出てこなかったものが、家では出てくる。


            *


 二日目は英語と生物基礎、三日目が数学Aと物理基礎になる。


 四日目に古典と世界史があって、最後の日に化学基礎が一つだけ入る。


 最後の日は一教科なので、十時四十分に終わった。


            *


 五日間の睡眠は、合計で二十六時間くらいだったと思う。


 思う、というのは、時計を見ていない朝が三日あったからになる。


 三日とも、覚めてから起きるまでのあいだが分からない。


 分からない時間が、その週に三回ある。前は一回もなかったものだ。


            *


 教室の音は、試験の日だけ変わる。


 紙をめくる音が、四十人ぶん、少しずつずれて鳴る。


 前の席の人は速い。裏に回るのが、僕より三分早いのは十月と同じだった。


 時計の秒針は、手が止まっているときだけ聞こえる。


 五日間で、秒針が聞こえた時間の合計は、たぶん十分に届かない。


            *


 最後の日の帰りに、廊下で話しているのを聞いた。


 小柳と、名前の知らない女子の二人になる。


            *


 「化学、手ごたえない」


            *


 小柳がそう言って、笑った。


 笑ったのは、相手が同じことを言ったからだと思う。二人で同じことを言って、二人で笑っている。


 その語を、僕は立ち止まらずに聞いた。足は止めていない。


 止めていないのに、そこだけ耳に入った。十月の廊下と同じ形になる。


            *


 手ごたえ、という語を、僕は使ったことがない。


 意味は分かる。本にも出てくる。人が使うのを、これまで何度も聞いている。


 自分の口から出したことが一度も無い。


 出そうとしたこともない。無い、というより、出す場面が思いつかない。


            *


 試験のあとに残るものを、僕は数で持っている。


 解けた問題の数と、飛ばした問題の数と、見直しに使った分だ。


 現代文は、見直しに七分使った。数学Ⅰは一分も残らなかった。


 残った分と、飛ばした数を並べれば、だいたいの点は出る。


 出るので、手ごたえという別のものを置く場所が無い。


            *


 手ごたえというのは、たぶん数の手前にあるものになる。


 数が出る前に、身体のほうが先に何かを言う。あの言い方は、そういう形をしている。


 僕の身体は、そこで何も言わない。


 言わないのか、言っているのに聞こえないのかは、分からない。


            *


 走っているときは、身体のほうが先に何か言っている。


 二月の記録会で、残り三百の口の中に鉄の味があった。あれは数より先に来ている。


 来ているのに、あの味を手ごたえとは呼ばない。呼ぶ言い方を教わっていない。


 教室で起きることと、トラックで起きることが、こちらの中で別の棚に入っている。


 棚を分けたのが誰なのかは分からない。分けたまま、九年たった。


            *


 どうやったら分かるんですか、と訊こうとした。


            *


 宮内は、その日、まあまあ、と言っていた。


 誰に言ったのかは分からない。教室の後ろのほうで聞こえた。


 まあまあ、は僕が五月に初めて使った語になる。


 同じ語を、宮内は軽く使う。軽く使えるのは、点が出たあとで困らないからだと思う。


 思うだけで、あの人が何を持っているのかは、こちらから見えない。


            *


 持っていなかった言葉が、その年に三つ増えた。


 まあまあ、が五月。なんとなく、が九月。そう、が十一月になる。


 三つとも、口のほうが先に出た。出てから、自分が使っていることに気づいている。


 手ごたえは、そこに入らない。


            *


 入らないのは、出そうになったことすら無いからになる。


 三つは、少なくとも口まで来ている。来て、出た。


 手ごたえは、口まで来ていない。来ていないものを、増えたとは書けない。


 増えたのは、使わないほうの数になる。


            *


 三浦は、試験の週も普通だった。


 廊下ですれ違って、終わったら走れるからいいや、と言った。


 試験の話をしない人が、部に一人いる。教室にも、たぶん何人かいる。


 こちらは、その言い方を借りることができない。借りると、嘘になる。


 嘘にならない言い方を、こちらは持っていなかった。


            *


 しっかりやったかどうかで言えば、しっかりやっている。


 範囲の紙の単元は、全部一度は通した。通したところに印をつけて、印は全部埋まった。


 埋まったのに、埋まったことが安心にならない。


 きちんと埋めるのは手順で、手順が終わっても、そこから先の言葉が出てこない。


 出てこない場所に、たぶん手ごたえというものが入るのだと思う。


            *


 試験が終わった日の夜、母は夕飯の時間を六時半に戻した。


 戻したことも言われていない。


 三十分が返っていくのを、こちらは時計で見ていた。


 見ていて、何も言わなかった。言えることが一つも思いつかない。


            *


 その夜、久しぶりに九時間眠った。


 寝たのが十時十分で、起きたのが七時十分になる。


 起きる時刻を、その日だけ動かしている。動かしたのは、部活が無いからだ。


 九時間眠ると、身体が重い。重いのは、足の付け根と、首のうしろになる。


 目のまわりの皮膚は、押しても戻りが速かった。


            *


 三月十一日から、部活が再開した。


 十三日ぶりに走ると、最初の二キロが遅い。一キロあたり二十秒落ちている。


 三本目から戻った。戻るのが速いのは、二月に積んだぶんだと思う。


 林さんが、休み明けにしては動いてるな、と言った。


 僕は、はい、と答えた。はい、が、その週で三回目になる。


            *


 母は一度も、試験の手ごたえを訊かなかった。


 どうだった、とも訊かれていない。九年間、一度も無い。


 訊かれるのは、いつ返ってくるか、だけになる。日付なら答えられる。


 答えられるものだけを訊かれてきたので、答えられないものが自分の中にあることに気づかない。


 気づいたのは、廊下で二人が笑ったときになる。


            *


 笑い方を、僕は覚えていない。


 声は覚えている。どんな顔だったかが出てこない。


 見ていないのだと思う。通り過ぎるときに、こちらは前を向いていた。


 前を向いたまま、耳だけがそちらを向いている。この形で九年やってきた。


            *


 返却は三月十七日だと、その日のうちに聞いた。


 日付は、いつも先に分かる。日付だけは、九年間ずっと正確に入ってくる。


 入ってくる日付を、僕はその夜、表の余白に書いた。


 書いてから、四回見た。四回見ても、日付は変わらない。


 変わらないものを四回見るのは、たぶん確かめているのではない。


 確かめる以外に、その紙の前でできることが無いだけになる。


            *


 三つは、口から出た言葉だった。


 使わない言葉が、また一つ増えた。

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