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自慢の息子  作者: 智珠
第四部 身の程

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第066話 四分十九秒

 二月二十二日に、県の記録会があった。


 希望者だけが出る。学校からは長距離の三人と、短距離の二人が申し込んだ。


 申し込みは一月の終わりで、用紙を自分で書いて林さんに渡す。


 書いたのは一月二十九日の夜になる。誰にも相談していない。


            *


 その日は日曜だった。


 六時に起きて、六時四十分に家を出る。ふだんより二十分早い。


 母は五時半には起きていた。台所の音が、僕が起きたときにはもう動いている。


 行き先は訊かれなかった。学校です、と言った。それで通っている。


            *


 弁当と、水筒を持たされた。


 水筒は、いつもの麦茶のものではなかった。保温のほうで、中身は温かいお茶になる。


 温かいものを持たされたのは、その日が初めてだ。


 入れた理由は言われていない。こちらも訊いていない。


            *


 母は、日曜に僕がどこへ行くのかを訊かない。


 訊かないのに、寒い日には持たせるものが変わる。


 変えるのに、こちらの予定を知っている必要は無いのだと思う。外の気温だけで足りる。


 足りるのに、ちゃんと合っている。合っていることを、こちらは十六年ぶん見てきた。


 見てきたものを、いま並べて書いている。並べてみて、初めて量が分かる。


            *


 会場は、隣の市の陸上競技場になる。


 電車を二回乗り換えて、一時間二十分かかる。三浦とは駅で合流した。


 三浦は、菓子パンを二つ持っていた。電車の中で一つ食べる。


 もう一つは、走る前に食べると言った。走る前に食べる人を、僕は初めて見た。


            *


 千五百のスタートは、十一時四十分だった。


 組は二つあって、僕は二組目になる。申し込みのときのタイムで分けられる。


 二組の出走は二十三人だ。一組より遅い人が集まる。


 招集が十一時十分で、そこから三十分ある。


            *


 その三十分のあいだ、僕は座らなかった。


 立って、二百メートルくらいの流しを三本やった。


 脚が軽い。二月十四日に替えた靴のせいだと、そのときも思っていた。


 風は北から吹いていて、バックストレートで正面になる。旗の向きで分かった。


            *


 スタートのピストルは、耳で聞くより先に、腹に来る。


 音のあとに、二十三人ぶんの足音が一度に始まる。最初の百メートルだけは、音がそろわない。


 そろうのは、二百を過ぎたころだ。そこから、規則的な音がひとつになる。


 その音の中に入っていると、自分の足音だけが分からなくなる。


 分からなくなっているあいだ、こちらは何も判定していない。


 速いとも遅いとも思わなかった。上とも下とも並べていない。


 並べていない時間が、その日に四分と十九秒あった。


            *


 一周目は六十九秒だった。


 速い。設定より三秒速い。三秒速いのを、こちらは通過の声で知った。


 二周目は七十一秒になる。合計で二分二十秒だ。


            *


 三周目を、僕は覚えていない。


 通過のタイムを聞いたはずだ。聞いていないと、四周目の判断ができない。


 判断はしている。したのに、その一周のことが何も出てこない。


 あとで記録を見たら、七十三秒だった。数字だけが残っている。


            *


 四周目に入って、前が二人に減った。


 前の週まで、こういう位置に来たことが無い。来てみると、見えるものが違う。


 前の人の踵が見える。踵の裏の減り方まで見える。


 見えるということは、二メートル以内にいるという意味になる。


            *


 残り三百で、口の中に鉄の味がした。


 唾を飲み込もうとして、うまくいかない。喉が乾いていて、通らない。


 腹の下のほうが、押されるように重くなる。吐きそうなのとは違う。


 違うのに、身体は同じ動きをしようとする。息を吸うときに、そこが引っかかった。


            *


 最後の直線で、一人抜いた。


 抜き返されていない。ゴールまで四十メートルくらいだった。


 抜いたときに、相手の息が聞こえた。自分の息は聞こえない。


 出ていないわけがない。聞こえないところまで行っているだけになる。


            *


 四分十九秒だった。


            *


 中学三年のときが四分二十六秒になる。七秒更新した。


 小学五年で走りはじめてから、九年目になる。九年で、その日がいちばん速い。


 順位は二十三人中の十六番だ。


            *


 速くなったのに、順位は下のほうにいる。


 二つの数が、同じ紙に並んで印字されている。片方は自分の記録で、片方は他人との位置だ。


 九年間、僕は後ろのほうだけを持ち帰ってきた。


 その日は、前のほうだけが動いている。


            *


 ゴールしたあと、僕は三十秒くらい動けなかった。


 膝に手をついて、そのまま芝の上にしゃがんだ。しゃがむと、視界の端が白くなる。


 白いのは十秒くらいで消えた。消えてから、時計のほうを見た。


 見たのは電光掲示で、自分の番号と時間が出ている。番号は一二七だった。


            *


 三浦は、その組で二十三番だった。


 いちばん最後になる。タイムは五分二秒だ。


 自己ベストを十秒更新している。


            *


 「十秒縮んだ!」


            *


 三浦は、それを二回言った。


 一回目は林さんに、二回目は短距離の二年生に言っている。


 二人とも、おお、と言って、それで終わった。それで終わるのに、また言う。


 言いたいから言うのだと思う。そういう理由で口を開く人を、こちらは近くで見たことがない。


            *


 世間では、こういうときに言うのが普通なのだと思う。


 言わないでいるほうが、立派だと思っていたわけではない。


 言い方を持っていないだけになる。持っていないことを、恥ずかしいとも思わなかった。


 思わないまま、三浦の二回目の報告を横で聞いていた。


 聞いているあいだ、こちらの記録証はまだポケットに入っていない。手に持ったままだった。


            *


 林さんは、僕にも一言だけ言った。


 速かったな、と言った。それだけになる。


 僕は、はい、と答えた。はい、以外の言い方が出てこない。


 出てこないままにしておいた。そのままにするのは、いつものやり方だ。


            *


 記録証は、四時ごろに配られた。


 薄い紙一枚で、種目と、記録と、順位が印字してある。学校名と名前も入っている。


 受け取ってすぐは、指の腹が乾いていて、紙が張りついた。


 二つに折って、鞄の内側のポケットへ入れた。折り目をつけるのに、爪でなぞっている。


 ポケットには、十月の紙と、十一月の記録証が入っている。三枚目になる。


            *


 小学五年のとき、記録証は壁に貼られた。


 貼ったのは母だ。答案は貼らないのに、記録証は貼った。


 あのときは、こちらが渡している。渡したことも忘れていた。


 いま、渡すという動作を、僕は自分でやめている。


            *


 やめた日がいつかは、はっきりしない。


 十月の紙を出さなかった日が最初だと思う。思うだけで、確かめようがない。


 やめると決めた場面が、どこにも無い。無いまま、続いている。


 続いているものは、そのうち決まりになる。決まりになると、破るほうが難しくなった。


            *


 家に着いたのは六時十分だった。


 母が玄関にいて、水筒を受け取った。中身は全部飲んである。


 温かかったです、と言おうとした。


            *


 夕飯のあいだ、記録会の話は出なかった。


 母が訊いたのは、何時に終わったか、ということだけになる。


 四時です、と答えた。それで終わっている。


 千尋は、遠かったの、と訊いた。遠かった、と答えた。


            *


 母は一度も、走った結果を訊かなかった。


 九年間、一度もだ。順位も、秒数も、家の中で音になったことが無い。


 訊かれないので、こちらは答えを用意しない。用意していないものは、口から出ない。


 その日の四分十九秒は、家の中でどこにも置かれなかった。


            *


 置く場所は、たぶん作れた。


 夕飯の途中に言えば、母は聞いたと思う。聞いて、そう、と言う。


 そう、と言われる場面を、こちらは頭の中で先に作っている。


 作ってから、言わないことにした。作らなければ、言えたかもしれない。


            *


 その夜、記録証をもう一度出した。


 机の上で広げて、数字を見た。四分十九秒二三と、二桁目まで出ている。


 二三のところまで印字されているのを、そのとき初めて知った。


 中学の記録証にも入っていたはずだ。見ていなかったのだと思う。


 当たり前に見ていたつもりのものに、見ていない桁がある。


 どこまで見れば見たことになるのかを、僕はきちんと決めていない。


            *


 紙は、引き出しの束の下に入れた。


 三枚目になる。順に重ねてあるので、いちばん古いのがいちばん下になる。


 いちばん下は、十月の予備校の紙だ。その上に十一月の記録証がある。


 九年でいちばん速かった日の紙が、三枚目に来た。


            *


 せっかく速くなったのに、という言い方は出なかった。


 出なかったことのほうを、僕はあとで思い出す。


 言い方が出るのは、たいてい下がったときになる。上がったときには、何も出ない。


 上がったときのための言葉を、こちらは一つも持っていなかった。


            *


 九年でいちばん速かった。


 紙にならないので、家には存在しない。

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