第066話 四分十九秒
二月二十二日に、県の記録会があった。
希望者だけが出る。学校からは長距離の三人と、短距離の二人が申し込んだ。
申し込みは一月の終わりで、用紙を自分で書いて林さんに渡す。
書いたのは一月二十九日の夜になる。誰にも相談していない。
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その日は日曜だった。
六時に起きて、六時四十分に家を出る。ふだんより二十分早い。
母は五時半には起きていた。台所の音が、僕が起きたときにはもう動いている。
行き先は訊かれなかった。学校です、と言った。それで通っている。
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弁当と、水筒を持たされた。
水筒は、いつもの麦茶のものではなかった。保温のほうで、中身は温かいお茶になる。
温かいものを持たされたのは、その日が初めてだ。
入れた理由は言われていない。こちらも訊いていない。
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母は、日曜に僕がどこへ行くのかを訊かない。
訊かないのに、寒い日には持たせるものが変わる。
変えるのに、こちらの予定を知っている必要は無いのだと思う。外の気温だけで足りる。
足りるのに、ちゃんと合っている。合っていることを、こちらは十六年ぶん見てきた。
見てきたものを、いま並べて書いている。並べてみて、初めて量が分かる。
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会場は、隣の市の陸上競技場になる。
電車を二回乗り換えて、一時間二十分かかる。三浦とは駅で合流した。
三浦は、菓子パンを二つ持っていた。電車の中で一つ食べる。
もう一つは、走る前に食べると言った。走る前に食べる人を、僕は初めて見た。
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千五百のスタートは、十一時四十分だった。
組は二つあって、僕は二組目になる。申し込みのときのタイムで分けられる。
二組の出走は二十三人だ。一組より遅い人が集まる。
招集が十一時十分で、そこから三十分ある。
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その三十分のあいだ、僕は座らなかった。
立って、二百メートルくらいの流しを三本やった。
脚が軽い。二月十四日に替えた靴のせいだと、そのときも思っていた。
風は北から吹いていて、バックストレートで正面になる。旗の向きで分かった。
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スタートのピストルは、耳で聞くより先に、腹に来る。
音のあとに、二十三人ぶんの足音が一度に始まる。最初の百メートルだけは、音がそろわない。
そろうのは、二百を過ぎたころだ。そこから、規則的な音がひとつになる。
その音の中に入っていると、自分の足音だけが分からなくなる。
分からなくなっているあいだ、こちらは何も判定していない。
速いとも遅いとも思わなかった。上とも下とも並べていない。
並べていない時間が、その日に四分と十九秒あった。
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一周目は六十九秒だった。
速い。設定より三秒速い。三秒速いのを、こちらは通過の声で知った。
二周目は七十一秒になる。合計で二分二十秒だ。
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三周目を、僕は覚えていない。
通過のタイムを聞いたはずだ。聞いていないと、四周目の判断ができない。
判断はしている。したのに、その一周のことが何も出てこない。
あとで記録を見たら、七十三秒だった。数字だけが残っている。
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四周目に入って、前が二人に減った。
前の週まで、こういう位置に来たことが無い。来てみると、見えるものが違う。
前の人の踵が見える。踵の裏の減り方まで見える。
見えるということは、二メートル以内にいるという意味になる。
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残り三百で、口の中に鉄の味がした。
唾を飲み込もうとして、うまくいかない。喉が乾いていて、通らない。
腹の下のほうが、押されるように重くなる。吐きそうなのとは違う。
違うのに、身体は同じ動きをしようとする。息を吸うときに、そこが引っかかった。
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最後の直線で、一人抜いた。
抜き返されていない。ゴールまで四十メートルくらいだった。
抜いたときに、相手の息が聞こえた。自分の息は聞こえない。
出ていないわけがない。聞こえないところまで行っているだけになる。
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四分十九秒だった。
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中学三年のときが四分二十六秒になる。七秒更新した。
小学五年で走りはじめてから、九年目になる。九年で、その日がいちばん速い。
順位は二十三人中の十六番だ。
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速くなったのに、順位は下のほうにいる。
二つの数が、同じ紙に並んで印字されている。片方は自分の記録で、片方は他人との位置だ。
九年間、僕は後ろのほうだけを持ち帰ってきた。
その日は、前のほうだけが動いている。
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ゴールしたあと、僕は三十秒くらい動けなかった。
膝に手をついて、そのまま芝の上にしゃがんだ。しゃがむと、視界の端が白くなる。
白いのは十秒くらいで消えた。消えてから、時計のほうを見た。
見たのは電光掲示で、自分の番号と時間が出ている。番号は一二七だった。
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三浦は、その組で二十三番だった。
いちばん最後になる。タイムは五分二秒だ。
自己ベストを十秒更新している。
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「十秒縮んだ!」
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三浦は、それを二回言った。
一回目は林さんに、二回目は短距離の二年生に言っている。
二人とも、おお、と言って、それで終わった。それで終わるのに、また言う。
言いたいから言うのだと思う。そういう理由で口を開く人を、こちらは近くで見たことがない。
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世間では、こういうときに言うのが普通なのだと思う。
言わないでいるほうが、立派だと思っていたわけではない。
言い方を持っていないだけになる。持っていないことを、恥ずかしいとも思わなかった。
思わないまま、三浦の二回目の報告を横で聞いていた。
聞いているあいだ、こちらの記録証はまだポケットに入っていない。手に持ったままだった。
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林さんは、僕にも一言だけ言った。
速かったな、と言った。それだけになる。
僕は、はい、と答えた。はい、以外の言い方が出てこない。
出てこないままにしておいた。そのままにするのは、いつものやり方だ。
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記録証は、四時ごろに配られた。
薄い紙一枚で、種目と、記録と、順位が印字してある。学校名と名前も入っている。
受け取ってすぐは、指の腹が乾いていて、紙が張りついた。
二つに折って、鞄の内側のポケットへ入れた。折り目をつけるのに、爪でなぞっている。
ポケットには、十月の紙と、十一月の記録証が入っている。三枚目になる。
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小学五年のとき、記録証は壁に貼られた。
貼ったのは母だ。答案は貼らないのに、記録証は貼った。
あのときは、こちらが渡している。渡したことも忘れていた。
いま、渡すという動作を、僕は自分でやめている。
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やめた日がいつかは、はっきりしない。
十月の紙を出さなかった日が最初だと思う。思うだけで、確かめようがない。
やめると決めた場面が、どこにも無い。無いまま、続いている。
続いているものは、そのうち決まりになる。決まりになると、破るほうが難しくなった。
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家に着いたのは六時十分だった。
母が玄関にいて、水筒を受け取った。中身は全部飲んである。
温かかったです、と言おうとした。
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夕飯のあいだ、記録会の話は出なかった。
母が訊いたのは、何時に終わったか、ということだけになる。
四時です、と答えた。それで終わっている。
千尋は、遠かったの、と訊いた。遠かった、と答えた。
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母は一度も、走った結果を訊かなかった。
九年間、一度もだ。順位も、秒数も、家の中で音になったことが無い。
訊かれないので、こちらは答えを用意しない。用意していないものは、口から出ない。
その日の四分十九秒は、家の中でどこにも置かれなかった。
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置く場所は、たぶん作れた。
夕飯の途中に言えば、母は聞いたと思う。聞いて、そう、と言う。
そう、と言われる場面を、こちらは頭の中で先に作っている。
作ってから、言わないことにした。作らなければ、言えたかもしれない。
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その夜、記録証をもう一度出した。
机の上で広げて、数字を見た。四分十九秒二三と、二桁目まで出ている。
二三のところまで印字されているのを、そのとき初めて知った。
中学の記録証にも入っていたはずだ。見ていなかったのだと思う。
当たり前に見ていたつもりのものに、見ていない桁がある。
どこまで見れば見たことになるのかを、僕はきちんと決めていない。
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紙は、引き出しの束の下に入れた。
三枚目になる。順に重ねてあるので、いちばん古いのがいちばん下になる。
いちばん下は、十月の予備校の紙だ。その上に十一月の記録証がある。
九年でいちばん速かった日の紙が、三枚目に来た。
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せっかく速くなったのに、という言い方は出なかった。
出なかったことのほうを、僕はあとで思い出す。
言い方が出るのは、たいてい下がったときになる。上がったときには、何も出ない。
上がったときのための言葉を、こちらは一つも持っていなかった。
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九年でいちばん速かった。
紙にならないので、家には存在しない。




