第065話 二時間
二月の練習は、四時十五分から六時十五分までになる。
週に六日ある。日曜だけ休みで、あとは全部入る。
合計すると、二月は十二時間になる週と、十時間になる週がある。テストの週だけ短い。
その時間のあいだ、こちらを並べる紙が一枚も無い。
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冬に記録会は少ない。
二月は県内で一つだけあって、それも希望者だけになる。
だから、二月の練習で出る数は、どこにも行かない。
日誌には書く。書いた数が、順位に変わることが無い。
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メニューは三つに分かれる。
距離走と、ペース走と、坂になる。
距離走は、月曜と木曜だ。十二キロを、一キロ四分四十秒くらいで回す。
ペース走は火曜で、五キロを一キロ四分十五秒で走る。
坂は土曜になる。学校の裏の道で、二百メートルを十本上がる。
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距離走のあいだ、僕は数えている。
周回の数と、通過のタイムと、林さんとの差だ。三つとも頭に入る。
入るのに、その日の終わりには消えている。
消えるのは、書き留めないからだと思う。日誌に入るのは、本数と設定だけになる。
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消えても困らない数がある、というのを、その冬に知った。
教室で数えたものは消えない。予備校の数も消えない。
トラックの数だけが消える。同じ人間が数えているのに、片方だけ残らない。
残る数と残らない数の違いを、僕はまだ言葉にできない。
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ちゃんとやっているかどうかを、この二時間は誰も見ていない。
見ていないのに、こちらは手を抜かない。抜くやり方を知らない、という言い方が近い。
しっかりやっている、と自分に言う場面も出てこなかった。
言う相手がいないと、その形の言葉は出ないらしい。
出ないほうが、身体は軽い。軽いことに気づいたのは、ずっとあとになる。
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二月のトラックは、朝のうちは霜が降りている。
放課後には溶けていて、内側の二レーンがぬかるむ。
ぬかるんだところを走ると、靴の底に土が詰まる。詰まった土は、走っているうちに落ちる。
落ちる音が、一歩ごとに少しずつ変わる。詰まっているときは重くて、落ちると軽い。
その変わり方で、あと何周でぬかるみを避けるかを決めていた。
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息は、四本目から白くなる。
白くなるのは、体温が上がってからになる。上がる前は出ない。
三浦は最初から白い。林さんは、最後まであまり出ない。
三人で走ると、白いのが三本、間隔をあけて動く。
後ろから見ていると、間隔で誰がどこにいるかが分かる。
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二時間のあいだに、僕は何も判定されない。
速い人が上で、遅い人が下だ、という並びはある。三人だから、真ん中はこちらになる。
並びはあるのに、それを誰も紙に書かない。
紙に書かれないものは、家に持って帰れない。持って帰れないので、家には無いことになる。
無いことになっているものが、一日に二時間ある。
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その二時間を、僕はまだ好きだと言えなかった。
言えないというより、そういう言い方を使わない。
好きかどうかを訊かれたことが、九年間で一度しかない。小学五年のときになる。
あのときは、うん、と答えた。うん、で済んだ。
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林さんは、四月から三年になる。
二年生が一人しかいないので、その人が引き継ぐ形になった。
引き継ぐのは、メニューを作ることと、日誌を管理することだ。
林さんは、その二つを三年生から教わっていない。見て覚えたらしい。
見て覚えた、という言い方を、あの人は一度だけした。二月の坂の日だった。
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坂は、上がりだけ計る。
下りは歩いて戻る。戻るあいだが五十秒くらいあって、そこで息が戻る。
十本のうち、七本目から足の裏が痛くなる。
痛いのは靴のせいだと分かっている。分かっているのに、そのままにしていた。
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六月に買った靴は、二月で八か月になる。
底の外側が減って、平らなところが無い。踵の内側は、布が擦り切れて中が見えている。
走った距離は、日誌から計算できる。八か月で千百キロを超えていた。
千百キロで替えるのは、たぶん遅いほうになる。
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二月十日の夜に、母が言った。
「靴、そろそろじゃない?」
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まだ履けます、と答えた。
母は、そう、と言って、それ以上言わなかった。
言わないので、話はそこで終わる。終わってから、こちらは自分の靴を見にいった。
玄関に置いてある。置いてある向きが、いつも同じになっている。
直しているのは母だと思う。直しているところを、僕は見ていない。
泥を落としていない靴を、母は一度も注意しなかった。
だらしないとも言われていない。玄関で言われる言葉は、いってらっしゃいと、おかえりだけになる。
その二つは、九年間ずっと同じ言い方で出てくる。
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母は、僕の走る話を一度も訊かない。
何キロ走ったのかも、何秒だったのかも、九年間で一度も出ていない。
訊かないのに、靴の減りは見ている。
見ているものと、訊くものが、この家では別になっている。
別になっている理由を、僕はいまも説明できない。
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どこを見て言ったんですか、と訊こうとした。
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靴は、二月十四日に自分で買った。
駅前の店で、四千八百円のものになる。前と同じで、安いほうを選んだ。
前のは五千二百円だった。四百円下がっている。
下げた理由は書けない。書けないまま、そのときも同じことをした。
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新しい靴は、履くと足が軽い。
軽いというのは、底が減っていないという意味になる。そう分かっていても、身体は先に速くなる。
最初の距離走で、一キロあたり八秒上がった。設定より速い。
速くなったぶんを、僕は靴のせいにした。せいにしたほうが、話が合う。
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古いほうの靴を、僕は捨てなかった。
玄関の下駄箱の、いちばん下に入れた。上には入らない。
母は何も言わない。次の月に見たら、まだ同じところにあった。
いつまであったのかを、僕は覚えていない。
せっかく履いたのに、という言い方が一度だけ出た。出た先が靴になる。
物に向けて出たのは、その冬が初めてだった。
人に向けなくなると、行き先が物のほうへ移るらしい。移り方を、こちらは選んでいない。
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三浦は、その冬にシューズを二回替えた。
一回目は破れて、二回目は雨で駄目にしたらしい。
替えるたびに、部室で見せて回る。見せられて、こちらは何を言えばいいのかが決まらない。
いいじゃん、と林さんが言った。それで済んでいる。
済ませ方を、僕はいつも一拍遅れて覚える。
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二月の平日は、練習のあとに予備校が入る日が二日ある。
火曜と金曜で、七時から九時半までになる。着替えて出るのに十五分かかる。
残りの四日は、六時十五分に終わって、家に七時二十分に着く。
そこから風呂と夕飯で、机につくのが八時半になる。
この形は、四月から変わっていない。変わったのは、寝る時刻だけになる。
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世間では、部活と勉強は両立するものらしい。
両立という言葉を、僕は先生から二回聞いている。予備校で一回、学校で一回だ。
二回とも、できている人の例が出た。名前は出てこない。
名前の出ない例に、こちらは当てはまらない。当てはまらないことを、恥ずかしいとは思わなかった。
思わないのに、その語が出るたびに、こちらは一度うつむいている。
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母は一度も、部活をやめなさいとは言わなかった。
六月に入るときも、反対していない。訊いたのは予備校の日程だけになる。
やめろと言われていたら、こちらは理由を作らずに済んだと思う。
思うだけで、言われなかったのだから、確かめようがない。
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二月の終わりに、学年末考査の日程が出た。
三月四日から十日までで、土日をはさんで五日間になる。九教科ある。
部活は、その一週間前から休みに入る。二月二十六日からだ。
休みに入る日を、僕はカレンダーに書いていない。書かなくても覚えている。
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休みの前の日の練習は、十二キロになる。
最後の一キロで、三浦が前に出た。
出たのはその日が初めてだ。八か月のあいだ、一度も無い。
僕は追わなかった。追える速さだった。追わなかった理由を、その場では作っていない。
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三浦は、ゴールしてから振り返った。
息が上がっていて、膝に手をついている。上がった息が、白いまま長く残った。
振り返って、何も言わない。手も上げない。
いつもの顔をしていた。走り終わったあとの顔が、いちばん変わらない人だ。
こちらの顔がどうなっていたかは、分からない。見る道具が無い。
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その日の帰りに、僕は電車で立っていた。
座れたのに、立った。理由は無い。
窓に、六時四十分の暗さが映る。二月の暗さは、十一月のものとは違って見える。
違いを説明する言い方を、こちらは持っていない。
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教室には順位がついた。予備校にも順位がつく。家には紙が残る。
判定されない時間が、一日に二時間だけある。




