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自慢の息子  作者: 智珠
第四部 身の程

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第065話 二時間

 二月の練習は、四時十五分から六時十五分までになる。


 週に六日ある。日曜だけ休みで、あとは全部入る。


 合計すると、二月は十二時間になる週と、十時間になる週がある。テストの週だけ短い。


 その時間のあいだ、こちらを並べる紙が一枚も無い。


            *


 冬に記録会は少ない。


 二月は県内で一つだけあって、それも希望者だけになる。


 だから、二月の練習で出る数は、どこにも行かない。


 日誌には書く。書いた数が、順位に変わることが無い。


            *


 メニューは三つに分かれる。


 距離走と、ペース走と、坂になる。


 距離走は、月曜と木曜だ。十二キロを、一キロ四分四十秒くらいで回す。


 ペース走は火曜で、五キロを一キロ四分十五秒で走る。


 坂は土曜になる。学校の裏の道で、二百メートルを十本上がる。


            *


 距離走のあいだ、僕は数えている。


 周回の数と、通過のタイムと、林さんとの差だ。三つとも頭に入る。


 入るのに、その日の終わりには消えている。


 消えるのは、書き留めないからだと思う。日誌に入るのは、本数と設定だけになる。


            *


 消えても困らない数がある、というのを、その冬に知った。


 教室で数えたものは消えない。予備校の数も消えない。


 トラックの数だけが消える。同じ人間が数えているのに、片方だけ残らない。


 残る数と残らない数の違いを、僕はまだ言葉にできない。


            *


 ちゃんとやっているかどうかを、この二時間は誰も見ていない。


 見ていないのに、こちらは手を抜かない。抜くやり方を知らない、という言い方が近い。


 しっかりやっている、と自分に言う場面も出てこなかった。


 言う相手がいないと、その形の言葉は出ないらしい。


 出ないほうが、身体は軽い。軽いことに気づいたのは、ずっとあとになる。


            *


 二月のトラックは、朝のうちは霜が降りている。


 放課後には溶けていて、内側の二レーンがぬかるむ。


 ぬかるんだところを走ると、靴の底に土が詰まる。詰まった土は、走っているうちに落ちる。


 落ちる音が、一歩ごとに少しずつ変わる。詰まっているときは重くて、落ちると軽い。


 その変わり方で、あと何周でぬかるみを避けるかを決めていた。


            *


 息は、四本目から白くなる。


 白くなるのは、体温が上がってからになる。上がる前は出ない。


 三浦は最初から白い。林さんは、最後まであまり出ない。


 三人で走ると、白いのが三本、間隔をあけて動く。


 後ろから見ていると、間隔で誰がどこにいるかが分かる。


            *


 二時間のあいだに、僕は何も判定されない。


 速い人が上で、遅い人が下だ、という並びはある。三人だから、真ん中はこちらになる。


 並びはあるのに、それを誰も紙に書かない。


 紙に書かれないものは、家に持って帰れない。持って帰れないので、家には無いことになる。


 無いことになっているものが、一日に二時間ある。


            *


 その二時間を、僕はまだ好きだと言えなかった。


 言えないというより、そういう言い方を使わない。


 好きかどうかを訊かれたことが、九年間で一度しかない。小学五年のときになる。


 あのときは、うん、と答えた。うん、で済んだ。


            *


 林さんは、四月から三年になる。


 二年生が一人しかいないので、その人が引き継ぐ形になった。


 引き継ぐのは、メニューを作ることと、日誌を管理することだ。


 林さんは、その二つを三年生から教わっていない。見て覚えたらしい。


 見て覚えた、という言い方を、あの人は一度だけした。二月の坂の日だった。


            *


 坂は、上がりだけ計る。


 下りは歩いて戻る。戻るあいだが五十秒くらいあって、そこで息が戻る。


 十本のうち、七本目から足の裏が痛くなる。


 痛いのは靴のせいだと分かっている。分かっているのに、そのままにしていた。


            *


 六月に買った靴は、二月で八か月になる。


 底の外側が減って、平らなところが無い。踵の内側は、布が擦り切れて中が見えている。


 走った距離は、日誌から計算できる。八か月で千百キロを超えていた。


 千百キロで替えるのは、たぶん遅いほうになる。


            *


 二月十日の夜に、母が言った。


 「靴、そろそろじゃない?」


            *


 まだ履けます、と答えた。


 母は、そう、と言って、それ以上言わなかった。


 言わないので、話はそこで終わる。終わってから、こちらは自分の靴を見にいった。


 玄関に置いてある。置いてある向きが、いつも同じになっている。


 直しているのは母だと思う。直しているところを、僕は見ていない。


 泥を落としていない靴を、母は一度も注意しなかった。


 だらしないとも言われていない。玄関で言われる言葉は、いってらっしゃいと、おかえりだけになる。


 その二つは、九年間ずっと同じ言い方で出てくる。


            *


 母は、僕の走る話を一度も訊かない。


 何キロ走ったのかも、何秒だったのかも、九年間で一度も出ていない。


 訊かないのに、靴の減りは見ている。


 見ているものと、訊くものが、この家では別になっている。


 別になっている理由を、僕はいまも説明できない。


            *


 どこを見て言ったんですか、と訊こうとした。


            *


 靴は、二月十四日に自分で買った。


 駅前の店で、四千八百円のものになる。前と同じで、安いほうを選んだ。


 前のは五千二百円だった。四百円下がっている。


 下げた理由は書けない。書けないまま、そのときも同じことをした。


            *


 新しい靴は、履くと足が軽い。


 軽いというのは、底が減っていないという意味になる。そう分かっていても、身体は先に速くなる。


 最初の距離走で、一キロあたり八秒上がった。設定より速い。


 速くなったぶんを、僕は靴のせいにした。せいにしたほうが、話が合う。


            *


 古いほうの靴を、僕は捨てなかった。


 玄関の下駄箱の、いちばん下に入れた。上には入らない。


 母は何も言わない。次の月に見たら、まだ同じところにあった。


 いつまであったのかを、僕は覚えていない。


 せっかく履いたのに、という言い方が一度だけ出た。出た先が靴になる。


 物に向けて出たのは、その冬が初めてだった。


 人に向けなくなると、行き先が物のほうへ移るらしい。移り方を、こちらは選んでいない。


            *


 三浦は、その冬にシューズを二回替えた。


 一回目は破れて、二回目は雨で駄目にしたらしい。


 替えるたびに、部室で見せて回る。見せられて、こちらは何を言えばいいのかが決まらない。


 いいじゃん、と林さんが言った。それで済んでいる。


 済ませ方を、僕はいつも一拍遅れて覚える。


            *


 二月の平日は、練習のあとに予備校が入る日が二日ある。


 火曜と金曜で、七時から九時半までになる。着替えて出るのに十五分かかる。


 残りの四日は、六時十五分に終わって、家に七時二十分に着く。


 そこから風呂と夕飯で、机につくのが八時半になる。


 この形は、四月から変わっていない。変わったのは、寝る時刻だけになる。


            *


 世間では、部活と勉強は両立するものらしい。


 両立という言葉を、僕は先生から二回聞いている。予備校で一回、学校で一回だ。


 二回とも、できている人の例が出た。名前は出てこない。


 名前の出ない例に、こちらは当てはまらない。当てはまらないことを、恥ずかしいとは思わなかった。


 思わないのに、その語が出るたびに、こちらは一度うつむいている。


            *


 母は一度も、部活をやめなさいとは言わなかった。


 六月に入るときも、反対していない。訊いたのは予備校の日程だけになる。


 やめろと言われていたら、こちらは理由を作らずに済んだと思う。


 思うだけで、言われなかったのだから、確かめようがない。


            *


 二月の終わりに、学年末考査の日程が出た。


 三月四日から十日までで、土日をはさんで五日間になる。九教科ある。


 部活は、その一週間前から休みに入る。二月二十六日からだ。


 休みに入る日を、僕はカレンダーに書いていない。書かなくても覚えている。


            *


 休みの前の日の練習は、十二キロになる。


 最後の一キロで、三浦が前に出た。


 出たのはその日が初めてだ。八か月のあいだ、一度も無い。


 僕は追わなかった。追える速さだった。追わなかった理由を、その場では作っていない。


            *


 三浦は、ゴールしてから振り返った。


 息が上がっていて、膝に手をついている。上がった息が、白いまま長く残った。


 振り返って、何も言わない。手も上げない。


 いつもの顔をしていた。走り終わったあとの顔が、いちばん変わらない人だ。


 こちらの顔がどうなっていたかは、分からない。見る道具が無い。


            *


 その日の帰りに、僕は電車で立っていた。


 座れたのに、立った。理由は無い。


 窓に、六時四十分の暗さが映る。二月の暗さは、十一月のものとは違って見える。


 違いを説明する言い方を、こちらは持っていない。


            *


 教室には順位がついた。予備校にも順位がつく。家には紙が残る。


 判定されない時間が、一日に二時間だけある。

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