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自慢の息子  作者: 智珠
第一部 よくできました

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7/26

第005話 これ

```

書道教室 月謝袋


高梨 秀真 様


平成十七年度



四月分  三千円         ㊞

五月分  三千円         ㊞

六月分  三千円         ㊞

七月分  三千円         ㊞

八月分      (お休み)

九月分  三千円         ㊞

十月分  三千円         ㊞

十一月分  三千円         ㊞

十二月分  三千円         ㊞

一月分  三千円         ㊞

二月分  三千円         ㊞

三月分  三千円         ㊞


                     桑野

```


 小学校に入った月から、土曜の朝は書道になった。


 土曜は七時に起きる。朝食を食べて、八時四十分に家を出る。教室は歩いて八分のところにある。桑野先生の自宅で、看板は出ていない。門のところに小さい木の札がかかっていて、そこに「書」とだけ書いてあった。


 母が最初の日だけ一緒に来た。玄関で、これからよろしくお願いしますと言って、頭を下げた。母の声はいつもより高くなっていた。


 字がきれいだと得だから、と母は行きの道で言った。それだけしか言わなかった。


            *


 桑野先生は八十近い。


 背が低くて、白いものが混じった髪をうしろで留めている。いつも和服ではなく、灰色のズボンとセーターだった。夏はシャツになる。声はあまり大きくない。


 教室は家の和室だ。畳が八枚。床の間に掛け軸がかかっていて、そこだけ字が読めない。何と書いてあるのかを、六年間訊かなかった。


 廊下に柱時計がある。振り子のある古いやつで、三十分ごとに鳴る。九時に九回、九時半に一回、十時に十回。書いているあいだにその音が入ってくる。手を止める子はいない。


 生徒は五人しかいない。


 五人のうち、僕がいちばん下だった。上は中学生の女の子で、あとは三年生と、四年生が二人。四年生の二人は兄弟で、いつも並んで座り、ほとんど口をきかない。


 時間は九時から十時半までで、途中の出入りは自由だった。九時五分前に着くと、たいてい中学生の女の子がもう墨をすっている。


            *


 最初にやったのは、墨をすることだった。


 教室では墨汁を使わない。硯に水を入れて、墨の棒を立てて、まっすぐに動かす。斜めにすると先が減って形が崩れる。それを最初の日に一度だけ教わった。


 墨をするのに十分かかる。長い子は十五分かかる。


 その十分のあいだ、誰も何も言わない。畳をこする音と、硯の上の音だけがしている。硯の音は、乾いた音から、だんだん湿った音になっていく。


 濃さがどれくらいで止めればいいのかは、教わらなかった。自分で決めることになっている。薄いと紙がにじむ。濃すぎると筆が動かない。


 僕は最初のころ、濃くしすぎた。速くすろうとしたからだ。速くすると粒が粗くなって、紙の上でざらつく。それに気づくまでに一か月かかった。


 三年生の子は、墨をするのがいちばん遅い。十五分かけて、途中で二回、硯を傾けて濃さを見る。誰もその子を急かさない。


            *


 その日の字は「一」だった。


 半紙のまん中に、横の線を一本引く。それだけだ。


 書くところは見せてくれる。先生が僕の隣に座って、自分の半紙に一本引いた。


 先生の手は、甲に茶色いしみがいくつもあって、皮が薄い。血管が浮いている。筆を持っていないときは、その手が少し震えていた。持つと震えが止まる。止まる理由は分からない。


 筆を置いてから、少し止めて、それから右へ動かす。最後にまた止める。始まりと終わりのところで、筆が紙に沈んでいるのが分かった。


 真似をした。同じにはならなかった。


 先生は書き終えた自分の半紙を、くしゃくしゃにして脇に置いた。手本として残さない。見せるのはその場かぎりだ。


 真似をするなら、見ている今しかない。そう言われたわけではない。そうなっているだけだった。


 線の太さが途中で変わる。曲がる。終わりのところで筆が跳ねる。


 跳ねるのは、腕ではなく手首を使っているからだと、あとで自分で気づいた。誰にも教わっていない。気づいたときに誰にも言わなかったので、合っているかどうかも分からないままだ。


 何枚書いてもいいと言われた。紙は箱に入っていて、自分で取る。取った枚数は誰も数えない。


 僕は数えた。その日は十四枚書いた。


            *


 書いているあいだ、先生は部屋を歩く。


 誰の後ろにも同じくらい立って、同じくらいで離れる。何も言わない。中学生の女の子のところでも、僕のところでも、立っている時間は変わらなかった。


 一度だけ、僕の筆の持ち方を直した。中指の位置を、指一本ぶんずらしただけだ。直したあと、うん、とも、これでいい、とも言わない。すぐ次の人のところへ行った。


 柱時計が十時に鳴ったあと、あと二十分だと分かる。数える子はいない。僕は数えていた。


 十時二十分に、片づけと言われる。


 筆を洗いに、廊下の奥の流しへ行く。水が冷たい。墨は洗ってもすぐには落ちなくて、指の内側が三日くらい灰色のままになる。爪のわきが特に落ちない。


            *


 片づけが終わると、先生は畳の上に並んだ紙を見る。


 一人ずつだ。その子が書いた紙を全部、重ならないように広げる。十四枚あれば十四枚を、二十枚あれば二十枚を、畳の上に並べる。


 先生はそれを、上から順に見ていく。かがまない。立ったまま、首だけを動かして見る。時間は三十秒くらいだ。


 それから、一枚を取る。


 「これ」


 それだけ言って、僕にその紙を渡した。


            *


 僕は残りの十三枚を見た。


 どれも同じに見えた。線が曲がっているものと、まっすぐなものはある。太さが変わっているものと、変わっていないものもある。


 選ばれた一枚は、まっすぐでもなかった。終わりのところで少し跳ねている。跳ねていないものが、ほかに三枚あった。


 その三枚は選ばれなかった。


 僕は先生の顔を見た。先生はもう次の子の紙のところへ移っていた。


 どうしてこれなんですか、とは訊かなかった。


            *


 選ばれなかった紙は、自分で持ち帰るか、置いていくかを選べる。置いていくと先生が捨てる。


 みんな置いていく。中学生の女の子も、四年生の二人も、全部置いていった。


 僕は最初の日、十三枚を持ち帰った。次の週から置いていくようになる。理由は、鞄に入らなかったからだ。


 選ばれた一枚は、いつも持って帰る。丸めずに、下敷きにはさんで鞄に入れる。折れると、そのぶん紙が変わってしまう気がした。


 帰るのは十一時前だ。行きと同じ道を通る。途中の家に犬がいて、行きは吠えないのに帰りは吠える。理由は最後まで分からなかった。


            *


 家に帰って、母に見せた。


 母は紙を両手で持って、少しのあいだ見ている。それから、上手ね、と言った。


 冷蔵庫には貼らない。


 母は一度も、書道はどうでもいいとは言わなかった。


 公文の記録表は貼ったのに、書道の紙は貼らない。そのことに僕は気づいていたが、なぜかとは考えなかった。母は紙を折らずに、僕の机の引き出しに入れた。


 母は書道の話をあまりしなかった。話す材料が無かったのだと思う。何番まで進んだかも、何分で書けたかも、書道には無い。


            *


 次の土曜も、同じことをした。


 墨をする。字を書く。十何枚か書く。先生が並べて見て、一枚を取って「これ」と言う。


 その次の土曜も、そうだった。


 選ばれる紙に、決まりがあるようには見えなかった。上手く書けたと自分で思った日に、そう思っていない紙が選ばれることがある。何も考えずに書いた一枚が選ばれることもある。


 点数がつかないということが、僕には分からなかった。


 選ばれた紙が良い紙だという意味なら、なぜ良い順に並べないのか。並べれば、二番目と三番目も分かる。分かれば、次に何を直せばいいのかも分かる。


 先生は並べない。一枚を取るだけだ。


 僕はしばらく、選ばれた紙を家で見比べていた。前の週の一枚と、その週の一枚を並べる。共通するところを探した。線の角度も、太さも、墨の濃さも、そろっていない。


 共通していたのは、その日の自分がどこにいたかだけだ。そのことに気づくのは、ずっと先になる。


            *


 三か月たっても、僕はまだそれを理解していなかった。


 夏休みは教室が休みになる。八月の月謝袋には金額が書かれていない。


 九月に再開したとき、僕は久しぶりに墨をすった。十分では足りなくて、十二分かかった。手が忘れていた。


 その日も一枚が選ばれた。夏のあいだ一度も筆を持たなかったのに、選ばれる紙はあった。上手くなっていないのに選ばれるということが、そのときは腑に落ちなかった。


 先生がその日、ほかの子のどの紙を選んだかは覚えていない。自分のだけ覚えている。


            *


 書道でもらった紙は、机の引き出しに溜まっていった。


 何枚になったかは数えていない。


 数える必要がなかった。そこには数字が一つも書かれていない。時刻も、順位も、直しの数も無い。あるのは字が一つと、選ばれた一枚だということだけだ。


 引き出しを開けると、下のほうの紙は少し黄色くなっている。上のほうは白い。順番に重なっているから、色の変わり方で古さが分かる。それを見るのが好きだった。好きだと言ったことはない。


 僕はその紙を、なぜか捨てなかった。


 選ばれた理由は、そのときも、それから十六年のあいだも、訊けないままだった。

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