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自慢の息子  作者: 智珠
第四部 身の程

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第061話 測る先

 十一月二十七日に、志望校変更の用紙が配られた。


 予備校の、七時の授業の前になる。机の上に伏せて置いてあった。


 用紙はA五で、色は薄い黄色だ。四月に書いたものと同じ色になる。


 欄は三つある。第一志望、第二志望、第三志望の順に、上から並んでいる。


 右の下に、提出期限、十二月五日(金)、と印字してある。


            *


 変更しない人は出さなくていい、と説明があった。


 説明は四十秒くらいだった。そのあと授業が始まっている。


 用紙を鞄に入れる音が、教室のあちこちで鳴った。折ってから入れる人が多い。


 僕は折らずにテキストのあいだへ入れた。折ると、線が残る。


 その日の授業は七時から九時半までだった。帰りの電車は九時四十分になる。


 鞄の中で、用紙はテキストの八十六ページと八十七ページのあいだにある。


 挟んだ場所を覚えているのに、その夜に何を習ったかは覚えていない。


            *


 四月に書いた三つを、僕は覚えている。


 書いたのは四月十一日で、そのときの用紙も同じ色だった。


 三つとも、どこかで聞いた名前を並べたものになる。


 一つ目は、中学の卒業式のあとに担任が言った学校だ。名前が出た、というだけになる。


 二つ目は、予備校のガイダンスの資料の表に載っていた。


 三つ目は、父の会社の話の中に出た。母がそれを台所で話していて、僕は二階で聞いた。


            *


 三つとも、僕が自分で選んだものではない。


 選んだ覚えが無い。書いた覚えはある。


 書いた日の手の位置まで出てくるのに、選んだところだけが出てこない。


            *


 母は、その三つを知らない。


 書くときに相談していない。書いたあとも言っていなかった。


 訊かれてもいない。八か月、家の中で志望校の話が一度も出ていない。


 出ないほうが楽だと思っていた。楽だと思うことにしていた、が正しいかもしれない。


            *


 世間では、親と子が志望校の話をするものらしい。


 テレビでも、そういう場面が出てくる。反対されて、それでも押し通す話になる。


 普通は反対されるところから始まるのだと思う。うちには、その始まりが無い。


 無いと、押し通すものも出てこない。出てこないので、何も起きなかった。


 何も起きない家を、僕は恥ずかしいと思ったことがない。


 思ったことがないのに、外で話す場面になると、言い方を先に探している。


            *


 判定の記号は、五段階になる。


 四月から九月まで、第一志望はずっと下から二番目だった。


 十月で下から一番目に落ちた。十一月も同じところにいる。


 二か月続くと、それが位置になる。一か月だけなら、まだ動きの途中に見える。


            *


 合格に必要な数は、資料に載っている。


 偏差値で六十二・五になる。僕の十一月は四十八・六だ。


 差は十四ある。


            *


 十四という数を、僕は前にも出したことがある。


 中学三年の一月だった。東雲の合格ラインとの差が、上に十四あった。


 上に十四あるというのは、下に十四あるのと同じ幅になる。


 あのときは、同じ幅なのに測らないで済んだ。


 済んでいたことを、そのころは何とも思っていない。


            *


 同じ幅を、今度は下から見ている。


 見る向きが変わると、幅の意味が変わる。数は変わらない。


 変わらない数の上で、こちらの立つ場所だけが動いた。


 動いたのが自分なのか、幅のほうなのかは分からない。


            *


 一年前の一月に、母が座卓を拭きながら言ったことがある。


 塾の保護者会から帰ってきた日だった。二時に出て、四時二十分に戻っている。


 拭き終わって、布をたたみながら言った。


            *


 「あそこは、身の程っていうものを教えないのよ」


            *


 声の高さは、拭いているあいだと同じだった。速さも同じになる。


 言い終わって、布を台所へ持っていった。水の音がして、それで終わっている。


 その日、僕は自分の部屋で、その子の数字を並べた。差は十二あった。


 母は正しかった。正しいので、言い返す材料が無い。


 材料が無いまま、その言葉だけが残った。


            *


 残ったものは、一年たっても形が変わらない。


 箱にしまってあるようなものではない。しまった覚えが無いのに、出したいときに出てくる。


 出てくる速さが、ほかの言葉より速い。


            *


 十一月三十日は日曜だった。


 母が熱を出した。三十八度二分で、その日は一日寝ている。


 僕が起きた六時二十分に、台所の電気がついていなかった。


 ついていない台所を、僕はそれまで見たことがない。


            *


 弁当は、冷蔵庫に入っていた。


 前の晩に作ってある。上にラップがかけてあって、ふきんが載せてあった。


 中身は四つで、いつもと同じ並びになる。卵焼きの位置も同じだ。


 熱を出したのが夜のうちだったのか、朝だったのかは、僕は知らない。


            *


 その日、家の中で足音が一度も鳴らなかった。


 台所からこちらへ来る音がある。速い日と、遅い日がある。


 その日は、どちらも無い。無いと、家の広さが変わったように聞こえる。


 千尋がテレビを消したまま座っていた。消したのは千尋だと思う。訊いていない。


 昼の十二時十分に、換気扇が回らなかった。回らない時間が、そのまま続いている。


 音の抜けた家の中で、こちらは机についた。ついたのが十時で、離れたのが四時になる。


 六時間のあいだ、進みが遅い。遅いのは、静かだからだと思うことにした。


            *


 千尋は、母の部屋へ二回入った。


 一回目は何か訊きに行って、二回目はタオルを持っていっている。


 こちらは一回も入っていない。入る用が思いつかなかった。


 ちゃんと看病する人の動き方を、僕は知らない。知らないので、動かないでいた。


 動かないでいるのは、だらしないのとは違う。違うと言えるかどうかは、いまも決めていない。


            *


 昼に、母の部屋をのぞいた。


 布団から頭の上のほうだけ見えている。分け目のところに白いのが混じっていた。


 混じっているのを、その日に初めて見た。前から混じっていたはずだ。


 見ていなかったのか、見て忘れたのかは、決められない。


            *


 枕元に、水の入ったコップが置いてあった。


 置いたのは母だ。減っている量から、二回か三回飲んでいる。


 僕は麦茶を持っていこうとして、台所で止まった。


 冷たいものを出していいのかどうかが分からない。分からないので、何も持っていかなかった。


            *


 大丈夫ですか、と訊こうとした。


            *


 夕方に、母は起きてきた。


 台所に立って、鍋を火にかけている。作ったのはうどんで、四人ぶんある。


 自分のぶんは半分残した。残したのを見たのは、その日が初めてになる。


 手の甲が乾いて、指の関節のところが白く粉をふいていた。


            *


 次の日から、母はいつもどおりに動いた。


 起きる時刻も、弁当も、洗濯の順番も変わっていない。


 一日抜けたぶんを、どこかで足しているはずだ。足しているところは見ていない。


 見ていないものが、この家には多い。多いと分かったのは、ずっとあとになる。


            *


 用紙は、四日のあいだテキストに挟んだままだった。


 二十七日に受け取って、書いたのは十二月二日の夜になる。


 四日というのは、迷った日数ではない。開いていない日数だ。


 開かないまま四日たって、五日目に開いた。開いたら、書くのは三分で終わった。


            *


 第一志望を、四月と違うものにした。


 二つ目に書いてあったものを、一つ目へ上げる形になる。


 二つ目には、四月の三つ目を入れた。三つ目は、資料の表から新しく選んだ。


 表は、必要な数の順に並んでいる。上から数えて、こちらの数のところまで指を下ろした。


 下ろした先にあった名前を書いた。聞いたことのない学校だった。


 字は、いつもよりきちんと書いた。枠からはみ出していない。


 はみ出さないように書くのは、小学生のときから同じになる。


 中身を下げた紙を、こちらはいちばん丁寧に書いている。


 丁寧に書くと、下げたことが手続きに見える。手続きに見えるものは、決断に見えない。


            *


 書いてから、三つを上から読んだ。


 四月の三つと比べると、全部が一つずつ下へずれている。


 ずれているというより、一つ足して一つ抜いた形になる。抜けたのが、いちばん上だ。


 抜いた紙を、僕は捨てていない。四月のぶんは予備校が持っている。こちらには何も残らない。


            *


 誰にも言われていない。


 先生からも言われていなかった。面談は十二月の半ばで、まだ来ていない。


 母は用紙を見ていない。四月の三つも、十二月の三つも、母の中には入っていないことになる。


 知らない人に対して、こちらは一つ下げた。


            *


 身の程、という語が出たのは、そのときだった。


            *


 出た先が、自分になる。


 向ける先を選んだ覚えが無い。持っていたら、そちらを向いていた。


 一年前、その語は他人の家に向いていた。向けたのは母で、僕は聞いていただけになる。


 聞いていただけのものが、こちらの中に残って、一年で向きを変えた。


 変えた瞬間を、僕は見ていない。


            *


 十二月五日に、用紙を出した。


 受付は一階のカウンターで、事務の人が二人いる。


 出したら、名前を確認された。高梨秀真くんね、と言われて、はい、と答えた。


 それだけになる。紙は箱に入れられた。箱にはもう十枚くらい入っている。


 中身は見られていない。見る係ではないからだと思う。


 箱に入る音が、紙一枚ぶんだった。前の十枚の上に重なる音になる。


 その音を聞いてから、階段を上がった。三階まで、途中で止まっていない。


 立派なことをしたとは思っていない。情けないとも、その日は思わなかった。


 思わなかったのは、その語を使う場面が、その日の中に無かったからになる。


 使う場面は、次の日に来た。来てから、四日続いた。


            *


 カウンターの上に、冬の講習の案内が積んであった。


 一枚取って、鞄に入れた。取ったことに理由は無い。


 家で開いて、日程だけ見た。金額は下のほうに小さく書いてある。


 金額のところで、目が止まった。止まってから、案内を折って引き出しへ入れた。


 束の下ではない。上に置いた。


            *


 母は一度も、僕に身の程という言葉を使わなかった。


 一度もだ。九年間、一度もだ。


 言われていないものを、僕は自分で持ってきて、自分に当てた。


 当て方は、正しかったと思う。母の当て方をそのまま覚えている。


 覚えたものは、使う先を選べる。選んだのは、こちらになる。


            *


 一年前に置いた道具を、僕は自分に使った。

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