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自慢の息子  作者: 智珠
第四部 身の程

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第060話 謝らなかった

 数学の授業は、火曜と木曜と金曜にある。


 週に四時間で、そのうち一時間が演習になる。演習の日は、解けた人が前へ出て黒板に書く。


 黒板は三つに区切ってあって、三人まで同時に出られる。


 先生は指名しない。出たい人が出る。誰も出ないときは、先生が書く。


            *


 四月から十一月まで、前へ出た人を僕は数えていた。


 のべ八十六回になる。そのうち宮内が十四回で、小柳が十一回だ。


 二人で二十五回になる。全体の三割近くを、四十人のうちの二人が取っている。


 僕は零回だった。


            *


 零というのは、数えるまで気づかない数になる。


 一回でもあれば覚えている。無いものは、思い出す形を持たない。


 数えたのは十月の終わりで、そのときに初めて零だと分かった。


 分かってからも、変えていない。


            *


 中学では、僕が書く側だった。


 二年のとき、数学の時間に前へ出た回数を数えると、その年だけで三十回を超える。


 書くと、後ろから見ている人がいる。見られながら書くのは、慣れの問題になる。


 慣れていたはずのものが、高校で一度も出てこない。


 出てこない理由を、そのころは考えていない。


            *


 十一月十七日は月曜だった。


 その週の演習は火曜からになる。数学の演習は十一月十八日の三時間目だ。


 その朝は六時二十分に起きて、七時五十分の電車に乗った。いつもと同じになる。


 教室に入るのが八時十分で、三時間目が始まるのは十時五十分だ。


 その二時間四十分のあいだに何があったかを、僕は覚えていない。


 問題は三つ出た。二つ目までは、五分ずつで誰かが書いた。


 三つ目に、誰も出なかった。


            *


 三つ目は、二次関数の場合分けだった。


 僕は解けていた。解き終わったのが、出題から四分後になる。


 答えを二回確かめて、時計を見た。十一時二十二分だった。


 誰も出ないまま、二十秒くらいたっている。


            *


 その二十秒のあいだに、右手が机から二センチ浮いた。


 浮いてから、戻った。戻したのは自分だ。


 肘のところで止まっている。上がるのは肩から動かしたときで、肘からは上がらない。


 九年間、授業で一度も手を挙げていない。挙げ方が身体に入らないまま来た。


 入っていないものは、二十秒では出てこない。


            *


 小柳が立った。


 立ってから前へ出るまでが速い。椅子を引く音が、一回しか鳴らない。


 僕の椅子は、引くときに二回鳴る。脚のゴムが片方だけ取れているからだ。


 取れたのは九月で、直していない。直すと音が変わる。


            *


 小柳はチョークを一本だけ持った。


 書く速さは、僕が中学で書いていたときより遅い。遅いのに、止まらない。


 止まらないというのは、途中で考えていないという意味になる。


 書きながら考える人と、考え終わってから書く人がいる。あの人は後者だ。


            *


 チョークが黒板に当たる音は、短く切れた。


 一文字ずつ離れて鳴る。文字の大きさがそろっているので、音の間隔もそろう。


 中学の僕は、そこが長かった。線を引くときに、ずっと当てたまま動かしていた。


 音の長さで、書いている人の考え方が分かる。分かっても、こちらの音は変わらない。


            *


 書き終わったのは、三行だった。


 僕の答案は六行ある。同じ答えに、三行多く使っている。


 多いほうが間違いではない。場合分けを二つ書いたぶんが、そのまま増えている。


 小柳は、一つにまとめてから書いていた。まとめる作業を、席でやっている。


            *


 先生は、うん、とだけ言った。


 それから次の問題へ行った。小柳は戻って座る。誰も何も言わない。


 三行のほうが良い、とも言われていない。言われないので、比べたのはこちらだけになる。


            *


 その時間の残りを、僕は自分の六行を見て過ごした。


 消して三行にしようとして、途中でやめた。消すと、こちらのやり方が消える。


 やり方が残っているほうがいい、という理由をつけた。理由は、あとから作ったものだと思う。


            *


 授業が終わって、教室を出た。


 次が移動の授業で、廊下を歩く。歩いている途中で、後ろから名前を呼ばれた。


            *


 「高梨くん」


            *


 同じクラスになって七か月で、名前を呼ばれたのはそのときが初めてになる。


 立ち止まった。止まるまでに、二歩ぶん多く進んでいる。


 小柳は追いついてきたのではない。もともと同じ方向へ歩いていた。


            *


 「あれ、解けてたでしょ」


            *


 なんで、と言いかけた。


 言いかけたところで、向こうが先に言った。


            *


 「消しゴム、動いてなかったから」


            *


 僕は、そう、と答えた。


 そう、という語を、それまで使ったことがない。


 まあまあ、が五月で、なんとなく、が九月だ。そう、が十一月になる。


 半年で三つ増えた。三つとも、口のほうが先に出ている。


            *


 小柳は、それだけ言って教室のほうへ曲がった。


 曲がるときに、じゃあね、と言った。手は振っていない。


 こちらは、何も返していない。返す形を持っていなかった。


            *


 ずっと見てたんですか、と訊こうとした。


            *


 小柳は謝らなかった。


 先に出てごめん、を言わない。


 言う理由が、あの人の中に無い。誰の順番でもないところへ、自分で出ただけになる。


 順番というものが、そもそもあの授業には無い。


            *


 僕は、それを待っていた。


 待っていたことに気づいたのは、その日の夜になる。


 風呂で、頭を洗っているときだった。手が止まって、そのまま二十秒くらいたっている。


 湯が耳に入って、片方だけ音がこもった。こもってから、気づいた。


 風呂を出たのが十時五分で、机についたのが十時二十分になる。


 そのあいだの十五分に何をしていたかは、覚えていない。髪は乾いていた。


            *


 謝られたら、僕は、いえ、と言えた。


 いえ、は持っている。中学のときから使っている。使い方も分かる。


 持っているものを出す機会が来なかった。来なかったので、持ったままになる。


 持ったままのものは、そのうち重くなる。重い、という言い方は当たっていないと思う。


 当たっていないのに、ほかの言い方が浮かばない。


            *


 その夜、机の引き出しを開けた。


 鉛筆の入っている段に、新しい消しゴムが二つ入っていた。


 使っているのは、まだ半分ある。半分あるうちから、次が入っている。


 いつ入ったのかは分からない。買ってきたところも見ていなかった。


            *


 母は、僕が何を解いているかを一度も見ない。


 教科を訊かれたことも無い。ページも、答えが合っていたかどうかも同じになる。


 減るものだけを見ている。消しゴムと、ノートと、鉛筆の芯だ。


 三つとも、切らしたことが一度も無い。九年間、一度もだ。


            *


 消しゴムの減り方には、その人の癖が出るのだと思う。


 僕のは、角から丸くなる。書いたものを部分的に消すからだ。


 小柳の消しゴムがどうなっているかは知らない。あの日、動いていなかった。


            *


 母は一度も、勉強のやり方について何かを言わなかった。


 ちゃんとやりなさい、も言われていない。しっかり、も言われていない。


 言われていないのに、やり方はきちんと決まっている。決めたのは、たぶんこちらだ。


 こちらが決めたことにしておかないと、置き場所が無くなる。


            *


 世間では、親が机の前に座らせるものらしい。


 うちでは、座らせられたことが一度も無い。時間になると、こちらが上がる。


 上がらなかった日を思い出そうとして、出てこない。一日も無いはずだ。


 一日も無いのに、当たり前だと思っている。当たり前でないものを、当たり前と呼んできた。


 呼び方を変えると、そこから先が面倒になる。面倒というのは、正しい言い方ではない。


 せっかくここまで同じやり方で来たのに、という形が、いつのまにか先に立っている。


            *


 十一月十六日に、予備校の確認テストがあった。


 結果は十八日の夜に返る。数学の演習と同じ日になった。


 教室で二十番だった。十月が二十二番なので、二つ上がっている。


 偏差値は四十八・六だ。五十より下は二回目になる。


            *


 その紙を、僕は家で机の右の端に置いた。


 角を机の縁に合わせて置く。置き方は六月までと同じになる。


 次の朝、無くなっていた。夜には、同じ場所に戻っている。


 位置が動いていない。十月のぶんが引き出しの束の下にあることは、誰も言わない。


 言われないので、無かったことになった。なったことにするのに、要ったのは一枚だ。


            *


 次の日の演習に、僕は出なかった。


 問題は四つあって、三つは宮内と小柳と、別の男子が書いた。


 四つ目に誰も出ない時間が、その日もあった。二十五秒くらいになる。


 右手は動かなかった。前の日に一度浮いているので、動かないのが分かっていた。


            *


 小柳は、そのあと僕に話しかけてこない。


 次の日も、その次の日も無い。廊下ですれ違って、こちらを見ない。


 見ないのは、避けているのとは違う。あの人は、用の無いときに人を見ない。


 用があるときだけ見る。見る先を選べるというのが、こちらには珍しかった。


            *


 僕は、教室でずっと人を見ている。


 誰が指名されたか、誰が何秒で答えたか、誰が前へ出たか。


 見ているのに、見た相手のことは何も分からない。数だけが残る。


 小柳は、一回見ただけで、僕が解けていたことを当てた。


 当てるのに使ったのは、消しゴムが動いていない、それだけになる。


            *


 三浦が、その週の練習で転んだ。


 インターバルの四本目で、内側の白線を踏んで足がずれた。膝と手のひらを擦っている。


 立ち上がって、そのまま五本目を走った。血が乾くまでのあいだに、二周している。


 次の日、かさぶたの縁が黄色くなっていた。四日目で剥がれて、下の皮膚が白い。


 林さんが絆創膏を出したときに、三浦は、いらんいらん、と言った。


            *


 いらん、と言える人が、部に一人いる。


 教室にも一人いる。前へ出て、三行で書いて、謝らずに戻る人だ。


 二人とも、こちらの表に入らない。入らない人が、その年に三人になった。


            *


 十一月の終わりに、母が僕の消しゴムを一つ捨てた。


 小さくなって、角が全部丸くなっていたものだ。


 捨てるところは見ていない。次の朝、机の上に新しいのが出ていた。


 包みが破ってある。使いはじめられる形にしてあった。


            *


 破ってあるのを見て、僕は何も思わなかった。


 思わなかったことを、いま書いている。


            *


 謝られなかったことを、僕はしばらく持っていた。

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