第059話 二列離れて
十月の終わりに、席替えがあった。
くじで決める。番号を引いて、黒板の図に自分で名前を書きに行く。
僕は窓ぎわの列から、廊下側へ二つ動いた。前から四番目になる。
小柳は反対の端になった。あいだに二列ある。
新しい席は、朝の八時十分に入ると陽が当たらない。前の席は当たっていた。
当たらないほうが、机の上が見やすい。見やすいほうが良いはずだと、その日は思った。
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二列離れると、右の視野の端に手が入らなくなる。
それまでは入っていた。小柳が手を挙げるのが、見ていなくても分かる。
分かるというより、白いものが動くのが見える。動いてから、指名される。
無くなったことに気づいたのは、席替えから六日目になる。
六日かかった。毎日そこにあったものが、無くなって六日たっている。
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東雲では、順位を掲示しない。
紙は一人ずつに渡る。折る人もいるし、折らない人もいる。
だから、ほかの人が何番かは原理として分からない。
中学では貼ってあった。塾では毎週、教室の後ろに紙が出る。上から順に名前が並ぶ。
九年間、僕は自分の位置を目で確かめてきた。高校で、それが無くなった。
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無くなったあとに何をするかを、僕は誰にも教わっていない。
教わっていないので、自分でやり方を作った。
当てられてから答えるまでの秒数を数える。訊かれる回数を数える。
職員室に呼ばれる人を見る。廊下ですれ違うときに、持っている問題集の名前を見る。
どれも正確ではない。正確ではないものを、僕は毎日集めていた。
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小柳が当てられてから答えるまでは、二秒から三秒になる。
宮内は一秒を切ることがある。切るときは、たいてい短い答えだ。
僕は四秒から五秒かかる。合っているかどうかを、口に出す前に一度確かめている。
確かめる時間のぶん、遅い。遅いほうが正しいはずだと、そのころは思っていた。
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十一月四日に、担任が教室で名前を呼んだ。
冬の講座の案内で、対象になった人にだけ配る。前へ出て受け取る形になる。
十一人だった。学年全体からではなく、そのクラスの中で選ばれている。
クラスは四十人だ。四十のうちの十一が呼ばれた。
僕は呼ばれていない。
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呼ばれた十一人の名前を、僕はその場で覚えた。
覚えようとしたわけではない。読み上げられた順に、そのまま入ってくる。
あとで書き出したら、十一人とも順番どおりに出た。
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三番目が小柳だった。
二番目は宮内で、一番目は別の列の男子になる。名前を、そのとき初めて知った。
同じ教室に七か月いて、名前を知らない人がまだいる。
知らないままで困ったことは一度も無い。困らないので、覚える必要が出てこない。
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中学のとき、僕は上にいる人の名前を覚えていない。
上にいなかったからだ。上が無いところでは、覚えるものが無い。
下にいる人の名前は覚えている。スイミングで落ちた子の名前を、いまも言える。
あのときは、覚えていることが何なのかを考えていない。
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その週に、教室で噂を聞いた。
小柳が二けたらしい、というものだった。誰が言ったのかは分からない。
二けたというのは、三二〇のうちの九十九より上にいるという意味になる。
僕は一九一だ。九十九と一九一のあいだに、少なくとも九十二人いる。
少なくとも、というのは、九十九が本当かどうか分からないからだ。噂の数は確かめられない。
確かめられないのに、僕はその数で計算をした。
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噂を聞いたのは、廊下の窓のところだった。
二人が話していて、僕は通り過ぎただけになる。足を止めていない。
止めていないのに、そこだけ聞き取れている。ほかの話は入っていない。
入る音と入らない音を、僕は選んでいない。選んでいないほうが正確に拾う。
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小柳は、噂について何も言わなかった。
言う場面が無い。あの人は成績の話を教室でしない。
するのは、分からないところの話になる。授業のあとで先生のところへ行く。
行って、訊いて、うなずいて、戻ってくる。それだけを何度もやっている。
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訊きに行くのを、僕はその年に一度もやっていない。
分からないところが無かったわけではない。数学は九月から止まっている。
止まっているのに、訊きに行っていない。行き方が分からない、というのが近い。
どこへ行って、何と言って、どこに立つのかが決まらない。決まらないものを、僕はやらない。
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普通は、分からなければ訊くのだと思う。
小柳はそうしている。宮内は、そもそも分からないところが少ない。
訊かないでいるほうが、こちらには恥ずかしくない。恥ずかしくないというのが、たぶん理由になる。
理由としては情けない。情けないと分かっていて、それでも一度も行っていない。
行かないぶんの時間を、僕は自分で解く側に使った。使って、止まったままになっている。
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どうやって訊くんですか、と訊こうとした。
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十一月に入って、朝が冷えるようになった。
制服の下に着るものを、母が買ってあった。灰色のと、紺のと、二枚ある。
僕の引き出しの上から二段目に、たたんで入っていた。言われていない。
着てみたら、袖の長さが合っている。測った覚えが無い。
たたみ方も決まっていた。袖を内側へ入れて、二つに折る。角がきちんとそろっている。
そろえるのに、母は毎回同じ手つきをする。台所で皿を拭くときと同じ順番だ。
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母は、僕の身体の大きさを知っている。
訊かれたことは無い。並んで立ったこともない。
洗濯物をたたむときに分かるのだと思う。分かるためには、毎回見ていないといけない。
毎回見ているものを、僕は毎回見ていない。同じものが、片方にだけ入っている。
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母は一度も、クラスの誰かの名前を訊かなかった。
中学のときからそうだった。三浦も、宮内も、小柳も、家の中では名前を持たない。
名前が要らないので、こちらも出さない。出さないでいると、そのうち出し方を忘れる。
忘れたことに気づくのは、外で名前を言う場面が来たときになる。
その場面は、その年には来なかった。
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部活では、名前を覚えるのが速い。
林さんも三浦も、大野さんも斉藤さんも、四月のうちに全部入っていた。
数と一緒に入るからだと思う。三・二〇と大野さんが、同じところに置いてある。
数の付いていない人は、入るのに時間がかかる。宮内の下の名前を、僕は六月まで知らなかった。
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十一月の練習は、四時十五分から六時十五分になる。
日が落ちるのが早いので、後半はライトの下を走る。ライトは四本のうち二本しか点かない。
トラックの向こう側が暗い。暗いところで、前の人の背中が消えて、足音だけになる。
足音だけになると、あいだが何メートルあるのかが出てこない。
出てこないまま、三周ぶんそのまま走った。三周で、明るいところへ二回出ている。
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十一月三日の記録会に、僕は出た。
招集が十時四十分で、スタートは十一時五分だった。待ち時間が二十五分ある。
二十五分のあいだ、三浦は座って何かを食べていた。こちらは立ったまま動いていない。
千五百で四分四十八秒だった。七月より三秒速い。
三秒速くなって、順位は十九人中の十四番になる。前の人との差は九秒あった。
九秒は、四百メートルぶんくらいになる。トラックの向こう側にいる人を、追う形にはならない。
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三浦は十九人中の十九番だった。
いちばん最後にゴールして、いちばん最後まで走っている。
ゴールしたときに、係の人が拍手をした。三浦は片手を上げて応えた。
応え方を知っている。こちらは、そこで何をすればいいのかを知らない。
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帰りの電車で、三浦は寝た。
寝る前に、腹減った、と言った。それだけ言って、二駅で寝ている。
僕は起きていた。三浦の頭が、揺れるたびにこちらの肩へ寄ってくる。
寄るたびに戻した。四回戻して、五回目からはそのままにした。
そのままにしても、誰も何も言わない。二駅ぶん、重さがそこにある。
降りる駅で起こしたら、寝てたわ、と言って笑った。知っている、とは答えていない。
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家に帰って、記録証を出さなかった。
出す決まりは無い。中学のときは貼られていた。高校では、貼る場所が空いている。
空いているのは、こちらが出さないからだ。せっかく出しても、と思ったわけではない。
思う前に、鞄の内側のポケットに入っている。十月の紙と同じところになる。
紙が二枚になった。二枚とも、家の中に無いことになっている。
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母は、その日どこへ行っていたかを訊いた。
記録会です、と答えた。母は、そう、と言って、汗のついたシャツを先に出しなさい、と言った。
出した。洗濯機の音が、九時十分まで続いている。
立派な記録でしたか、とは誰も訊かない。訊かれないほうが楽だと、そのころは思っていた。
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その週の日曜に、机の引き出しを開けた。
答案の束と、順位の紙と、証明写真の余りと、しつけ糸と、中学の予定表が入っている。
畳んだ紙を、束の下へ入れた。二枚目になる。
入れてから、閉めた。閉まるまでに、少し力が要る。
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その夜、書き出した十一人の名前を、もう一度見た。
紙は、数学のノートのいちばん後ろのページになる。
名前だけが縦に十一並んでいて、点も順位も書いていない。
書きようがなかった。こちらの持っている数は、自分のぶんしかない。
持っていない数の人を、僕は名前で並べていた。
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中学の三年間、僕は誰の名前も覚えなくてよかった。
上に人がいるというのは、名前を覚えることだった。




