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自慢の息子  作者: 智珠
第四部 身の程

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第059話 二列離れて

 十月の終わりに、席替えがあった。


 くじで決める。番号を引いて、黒板の図に自分で名前を書きに行く。


 僕は窓ぎわの列から、廊下側へ二つ動いた。前から四番目になる。


 小柳は反対の端になった。あいだに二列ある。


 新しい席は、朝の八時十分に入ると陽が当たらない。前の席は当たっていた。


 当たらないほうが、机の上が見やすい。見やすいほうが良いはずだと、その日は思った。


            *


 二列離れると、右の視野の端に手が入らなくなる。


 それまでは入っていた。小柳が手を挙げるのが、見ていなくても分かる。


 分かるというより、白いものが動くのが見える。動いてから、指名される。


 無くなったことに気づいたのは、席替えから六日目になる。


 六日かかった。毎日そこにあったものが、無くなって六日たっている。


            *


 東雲では、順位を掲示しない。


 紙は一人ずつに渡る。折る人もいるし、折らない人もいる。


 だから、ほかの人が何番かは原理として分からない。


 中学では貼ってあった。塾では毎週、教室の後ろに紙が出る。上から順に名前が並ぶ。


 九年間、僕は自分の位置を目で確かめてきた。高校で、それが無くなった。


            *


 無くなったあとに何をするかを、僕は誰にも教わっていない。


 教わっていないので、自分でやり方を作った。


 当てられてから答えるまでの秒数を数える。訊かれる回数を数える。


 職員室に呼ばれる人を見る。廊下ですれ違うときに、持っている問題集の名前を見る。


 どれも正確ではない。正確ではないものを、僕は毎日集めていた。


            *


 小柳が当てられてから答えるまでは、二秒から三秒になる。


 宮内は一秒を切ることがある。切るときは、たいてい短い答えだ。


 僕は四秒から五秒かかる。合っているかどうかを、口に出す前に一度確かめている。


 確かめる時間のぶん、遅い。遅いほうが正しいはずだと、そのころは思っていた。


            *


 十一月四日に、担任が教室で名前を呼んだ。


 冬の講座の案内で、対象になった人にだけ配る。前へ出て受け取る形になる。


 十一人だった。学年全体からではなく、そのクラスの中で選ばれている。


 クラスは四十人だ。四十のうちの十一が呼ばれた。


 僕は呼ばれていない。


            *


 呼ばれた十一人の名前を、僕はその場で覚えた。


 覚えようとしたわけではない。読み上げられた順に、そのまま入ってくる。


 あとで書き出したら、十一人とも順番どおりに出た。


            *


 三番目が小柳だった。


 二番目は宮内で、一番目は別の列の男子になる。名前を、そのとき初めて知った。


 同じ教室に七か月いて、名前を知らない人がまだいる。


 知らないままで困ったことは一度も無い。困らないので、覚える必要が出てこない。


            *


 中学のとき、僕は上にいる人の名前を覚えていない。


 上にいなかったからだ。上が無いところでは、覚えるものが無い。


 下にいる人の名前は覚えている。スイミングで落ちた子の名前を、いまも言える。


 あのときは、覚えていることが何なのかを考えていない。


            *


 その週に、教室で噂を聞いた。


 小柳が二けたらしい、というものだった。誰が言ったのかは分からない。


 二けたというのは、三二〇のうちの九十九より上にいるという意味になる。


 僕は一九一だ。九十九と一九一のあいだに、少なくとも九十二人いる。


 少なくとも、というのは、九十九が本当かどうか分からないからだ。噂の数は確かめられない。


 確かめられないのに、僕はその数で計算をした。


            *


 噂を聞いたのは、廊下の窓のところだった。


 二人が話していて、僕は通り過ぎただけになる。足を止めていない。


 止めていないのに、そこだけ聞き取れている。ほかの話は入っていない。


 入る音と入らない音を、僕は選んでいない。選んでいないほうが正確に拾う。


            *


 小柳は、噂について何も言わなかった。


 言う場面が無い。あの人は成績の話を教室でしない。


 するのは、分からないところの話になる。授業のあとで先生のところへ行く。


 行って、訊いて、うなずいて、戻ってくる。それだけを何度もやっている。


            *


 訊きに行くのを、僕はその年に一度もやっていない。


 分からないところが無かったわけではない。数学は九月から止まっている。


 止まっているのに、訊きに行っていない。行き方が分からない、というのが近い。


 どこへ行って、何と言って、どこに立つのかが決まらない。決まらないものを、僕はやらない。


            *


 普通は、分からなければ訊くのだと思う。


 小柳はそうしている。宮内は、そもそも分からないところが少ない。


 訊かないでいるほうが、こちらには恥ずかしくない。恥ずかしくないというのが、たぶん理由になる。


 理由としては情けない。情けないと分かっていて、それでも一度も行っていない。


 行かないぶんの時間を、僕は自分で解く側に使った。使って、止まったままになっている。


            *


 どうやって訊くんですか、と訊こうとした。


            *


 十一月に入って、朝が冷えるようになった。


 制服の下に着るものを、母が買ってあった。灰色のと、紺のと、二枚ある。


 僕の引き出しの上から二段目に、たたんで入っていた。言われていない。


 着てみたら、袖の長さが合っている。測った覚えが無い。


 たたみ方も決まっていた。袖を内側へ入れて、二つに折る。角がきちんとそろっている。


 そろえるのに、母は毎回同じ手つきをする。台所で皿を拭くときと同じ順番だ。


            *


 母は、僕の身体の大きさを知っている。


 訊かれたことは無い。並んで立ったこともない。


 洗濯物をたたむときに分かるのだと思う。分かるためには、毎回見ていないといけない。


 毎回見ているものを、僕は毎回見ていない。同じものが、片方にだけ入っている。


            *


 母は一度も、クラスの誰かの名前を訊かなかった。


 中学のときからそうだった。三浦も、宮内も、小柳も、家の中では名前を持たない。


 名前が要らないので、こちらも出さない。出さないでいると、そのうち出し方を忘れる。


 忘れたことに気づくのは、外で名前を言う場面が来たときになる。


 その場面は、その年には来なかった。


            *


 部活では、名前を覚えるのが速い。


 林さんも三浦も、大野さんも斉藤さんも、四月のうちに全部入っていた。


 数と一緒に入るからだと思う。三・二〇と大野さんが、同じところに置いてある。


 数の付いていない人は、入るのに時間がかかる。宮内の下の名前を、僕は六月まで知らなかった。


            *


 十一月の練習は、四時十五分から六時十五分になる。


 日が落ちるのが早いので、後半はライトの下を走る。ライトは四本のうち二本しか点かない。


 トラックの向こう側が暗い。暗いところで、前の人の背中が消えて、足音だけになる。


 足音だけになると、あいだが何メートルあるのかが出てこない。


 出てこないまま、三周ぶんそのまま走った。三周で、明るいところへ二回出ている。


            *


 十一月三日の記録会に、僕は出た。


 招集が十時四十分で、スタートは十一時五分だった。待ち時間が二十五分ある。


 二十五分のあいだ、三浦は座って何かを食べていた。こちらは立ったまま動いていない。


 千五百で四分四十八秒だった。七月より三秒速い。


 三秒速くなって、順位は十九人中の十四番になる。前の人との差は九秒あった。


 九秒は、四百メートルぶんくらいになる。トラックの向こう側にいる人を、追う形にはならない。


            *


 三浦は十九人中の十九番だった。


 いちばん最後にゴールして、いちばん最後まで走っている。


 ゴールしたときに、係の人が拍手をした。三浦は片手を上げて応えた。


 応え方を知っている。こちらは、そこで何をすればいいのかを知らない。


            *


 帰りの電車で、三浦は寝た。


 寝る前に、腹減った、と言った。それだけ言って、二駅で寝ている。


 僕は起きていた。三浦の頭が、揺れるたびにこちらの肩へ寄ってくる。


 寄るたびに戻した。四回戻して、五回目からはそのままにした。


 そのままにしても、誰も何も言わない。二駅ぶん、重さがそこにある。


 降りる駅で起こしたら、寝てたわ、と言って笑った。知っている、とは答えていない。


            *


 家に帰って、記録証を出さなかった。


 出す決まりは無い。中学のときは貼られていた。高校では、貼る場所が空いている。


 空いているのは、こちらが出さないからだ。せっかく出しても、と思ったわけではない。


 思う前に、鞄の内側のポケットに入っている。十月の紙と同じところになる。


 紙が二枚になった。二枚とも、家の中に無いことになっている。


            *


 母は、その日どこへ行っていたかを訊いた。


 記録会です、と答えた。母は、そう、と言って、汗のついたシャツを先に出しなさい、と言った。


 出した。洗濯機の音が、九時十分まで続いている。


 立派な記録でしたか、とは誰も訊かない。訊かれないほうが楽だと、そのころは思っていた。


            *


 その週の日曜に、机の引き出しを開けた。


 答案の束と、順位の紙と、証明写真の余りと、しつけ糸と、中学の予定表が入っている。


 畳んだ紙を、束の下へ入れた。二枚目になる。


 入れてから、閉めた。閉まるまでに、少し力が要る。


            *


 その夜、書き出した十一人の名前を、もう一度見た。


 紙は、数学のノートのいちばん後ろのページになる。


 名前だけが縦に十一並んでいて、点も順位も書いていない。


 書きようがなかった。こちらの持っている数は、自分のぶんしかない。


 持っていない数の人を、僕は名前で並べていた。


            *


 中学の三年間、僕は誰の名前も覚えなくてよかった。


 上に人がいるというのは、名前を覚えることだった。

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