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自慢の息子  作者: 智珠
第四部 身の程

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第058話 出さなかった日

 予備校の確認テストは、月に一度ある。


 第三日曜の午前に三教科、午後に二教科。合わせて五教科で、朝の九時から夕方の五時十分までかかる。


 結果はA四の紙一枚で、次の週の火曜に返る。


 紙には順位が三つ載っている。教室の中と、校舎の中と、全体になる。


 教室は二十八人で、校舎は三百人くらいだ。全体は二万を超える。


 同じ紙の右下に、偏差値が一つ印字してある。


            *


 その紙を、家では机の右の端に置く。


 置いておくと、朝には無くなっている。夜には、同じ場所に戻っている。


 位置が動いていない。角を机の縁に合わせて置くので、戻ったときも合っている。


 置くことも、無くなることも、戻ることも、家の中で一度も話に出ていない。


            *


 四月から九月まで、六回そうした。


 六回とも、次の日の夜には戻っていた。


 置いてから戻るまでのあいだに、誰がどこで見ているのかを、僕は知らない。


 台所だと思っていた時期がある。いまは母の部屋だと思っている。どちらも確かめていない。


 見ているところを、僕は一度も見ていない。


            *


 九月の紙は、教室で十四番だった。


 二十八人のうちの十四番になる。ちょうど真ん中だ。


 校舎は三一二人のうちの一四七で、全体は二万二千のうちの六千八百台だった。


 偏差値は五十三・一になる。


 五十より上にいるのが当たり前だと、そのころは思っている。


            *


 十月の確認テストは十九日だった。


 その週は、月曜から金曜まで練習がある。土曜は午前だけになる。


 日曜の朝、六時二十分に起きた。起きる時刻を、テストの日も動かさない。


 電車の中で単語を回した。四十分あって、百二十語ぶん進んでいる。


            *


 試験のあいだ、右の親指の爪がまだ黒かった。


 八月の終わりの内出血で、色だけが残っている。上へ動いていく途中だ。


 鉛筆を持つと、その色が視野の下のほうに入る。入るたびに、位置を少し変えた。


 変えても入る。四教科目からは、気にしないことにした。


            *


 昼のあいだに食べたものを、僕は覚えていない。


 母が持たせたはずだ。日曜に朝から出るときは、必ず持たせる。


 包みの色は出てくる。中身が出てこない。


            *


 数学は、また止まった。


 中間のときと同じ形で止まる。大問三で、残り時間を見て、そこから動けない。


 止まっているあいだ、教室の時計の秒針の音が聞こえた。聞こえるということは、手が止まっているということになる。


 書いているときは、秒針は聞こえない。


            *


 十月二十一日は火曜だった。


 予備校は七時からで、その日の最初の十分で紙が配られる。


 名前を呼ばれるのではなく、前から後ろへ回る。自分の名前のところで抜き取る。


 抜き取って、二つに折らずに机に置いた。折る人が周りに何人かいる。


            *


 教室で二十二番だった。


 二十八人のうちの二十二で、九月の十四番から八つ下がっている。


 校舎は三〇八人のうちの二三一になる。九月が一四七だったので、八十四下がった。


 全体は二万一千のうちの一万二百台だ。九月は六千八百台だった。


            *


 偏差値は四十七・八だった。


 五十を下回ったのは、その回が初めてになる。


 小学五年で塾に入ってから、その数が五十より下に来たことは一度も無い。


 六年ぶんある。六年ぶんのうちの、一つ目になる。


            *


 紙の下に、志望校の判定が三行入っていた。


 第一志望と第二志望と第三志望で、それぞれ記号がついている。


 第一志望の記号は、九月とは違うものになっていた。


 志望校は、四月に書いた。誰にも相談していない。母が書いたわけでもない。


 書いたときに、どこかで聞いた名前を並べた。並べた三つが、そのまま毎月印字されて戻ってくる。


            *


 その紙を、僕は畳んだ。


 二つに折って、もう一度折る。四つになる。


 四つに折ると、鞄の内側のポケットに入る。ポケットには定期入れとハンカチが入っている。


 入れてから、授業を二時間受けた。中身は覚えている。設問も出てくる。


            *


 帰りの電車は九時四十分になる。


 その日は座れた。座って、鞄を膝の上に置いた。


 膝の上に置くと、内側のポケットの厚みが分かる。紙一枚ぶんだ。


 紙一枚で厚みが変わるはずがない。分かった気がしただけになる。


            *


 家に着いたのが十時十分だった。


 母は起きていた。麦茶を出して、明日の持ち物を確かめる。


 持ち物の確認は、中学のときから同じ順でやる。教科書、体操着、水筒、弁当箱の順になる。


 紙のことは、その順の中に入っていない。


            *


 風呂に入って、部屋に上がった。


 机の右の端は空いている。九月の紙は、もう引き出しに移してある。


 鞄は椅子の横に置いてあった。開ければ、五秒で置ける。


 開けなかった。


            *


 置かない、と決めたわけではない。


 決めるという動きが、そのときに無かった。


 手が鞄のほうへ行きかけて、止まった。止まってから、僕は英語のテキストを開いている。


 開いたページの内容を、僕は覚えていない。その夜のことで覚えているのは、手の止まった位置だけになる。


            *


 次の日も出さなかった。


 水曜は部活がある。帰って、風呂に入って、机につく。手順は同じだ。


 同じ手順の中に、紙を置く動きだけが入らない。


 抜けたぶんの時間は短い。短いのに、そこだけ手順から浮いている。


 何も起きない。何も起きないというのは、静かなこととは違う。


            *


 三日目に、引き出しへ入れた。


 右の引き出しには、答案の束が入っている。順に重なっていて、いちばん上が中間の九教科になる。


 その紙は、束の下に入れた。


 上ではない。下だ。


 下に入れたのは、二度目になる。一度目がいつだったかは、入れたあとに思い出した。


            *


 隠した、という言い方を、僕はそのときしていない。


 出さなかった、と思っている。


 二つが同じものかどうかを、その週のうちには考えなかった。


 考えないほうが、手順が回る。


            *


 何も起きない日数を、僕は数えた。


 一日目。二日目。三日目。四日目。


 五日目に、母は僕の運動靴を洗っていた。


            *


 前の週の雨で濡れて、そのままになっていたものだ。


 中敷きが外してあって、二つ並べて陰に干してある。紐も外して、別に洗ってあった。


 紐を通し直すのは、こちらの役目になっている。通しながら、洗った日を訊かなかった。


 訊かないので、いつ洗ったのかは分からない。乾き方から見て、前の日だと思う。


            *


 紐は左右で通し方が違っていた。


 片方は上から、片方は下から入っている。洗う前は、両方とも同じだったはずだ。


 直すかどうかを迷って、そのままにした。走るぶんには変わらない。


 ちゃんとしていない、という言い方が出る。出た先が、母ではない。


 こちらへ来る。母のやったことについて出た言い方が、途中で向きを変えている。


 変える動きを、僕は見ていない。気づいたときには、もうこちらを向いていた。


            *


 母は靴のことを言わなかった。


 洗ったとも、言っていない。台所で普通に麦茶を出している。


 こちらも言っていない。ありがとう、を言う形が、この家には無い。


 無いのではなく、僕が使わないだけかもしれない。使わないまま十六年になる。


            *


 六日目。七日目。八日目。


            *


 八日目の夜に、台所でペンの音がした。


 母が何かを書いている。書くのは、たいてい皿を片づけたあとになる。


 音は十分くらい続いた。途中で二回止まって、また始まる。


 何を書いているのかを、僕は知らない。九年前から音だけ知っている。


            *


 九日目。十日目。十一日目。


 十一日目までに、母は一度も紙のことを訊かなかった。


 訊かれないというのが、置いてあるかどうかを見ていない、という意味なのかは分からない。


 見ていて、言わないほうかもしれない。材料はどちらの側にもある。


 決めないほうが、こちらには都合がよかった。


            *


 部活では、誰も紙の話をしない。


 三浦は、その週も一〇〇〇を五本走った。一本目と五本目の差が、十秒に縮んでいる。


 縮んだことに、本人は気づいていない。日誌を見ないからだ。


 僕は気づいた。気づいて、言わなかった。言わない理由は書けない。


            *


 宮内は、その週も答案を出しっぱなしにしていた。


 物理基礎で、七十六点だった。前より下がっている。


 下がっているのに、置いてある向きが変わらない。


 向きを変えるという考えが、あの人の中に無い。


 僕は自分の点を言わなかった。訊かれてもいない。


 言わなかったのに、宮内の点だけはその日のうちに覚えた。


 覚えるつもりは無い。数のほうが先に入ってくる。


 入ってきた数を、こちらの数の横に置く。置いてから、置いたことが恥ずかしくなる。


 恥ずかしいのに、次の日も置いた。


            *


 千尋は、その月に中学の説明会へ行った。


 母がついていっている。帰ってきて、制服の話をしていた。


 しっかりした学校らしいわね、と母が言う。千尋は、うん、と言っただけだった。


 うん、で済む言い方が、この家には二人ぶんある。


            *


 十一月の確認テストは十六日になる。


 その日までに、十月の紙をどうするかを決めていない。


 普通は、こういうものは次の日に出すのだと思う。出さない日が続く形を、僕は知らなかった。


 決めなくても、次の紙は来る。来た紙を置けば、十月のぶんは無かったことになる。


 なったことにするために、必要な動作は一つしかない。


 一つでいいのに、僕はそれを十一日やっていない。


            *


 せっかく六回続けたのに、と思った。


 続けていたのは、こちらだ。誰にも頼まれていない。


 頼まれていないものを続けて、続かなくなったときに、こちらが減る。


 減った、という言い方で合っているのかどうかを、僕はいまも決めていない。


 だらしないからではない。だらしないほうが、まだ説明がつく。


            *


 紙を出す家と、出さない家がある。世間ではそうなっているらしい。


 うちは出す家だった。出す家であることを、誰も決めていない。


 決めていないのに、六回続いた。続いたものが決まりになる。


 決まりを破ると、そこに何かが起きると思っていた。起きなかった。


            *


 はじめて百点を取った日のことを、僕はまだ覚えている。


 持って帰るときの、鞄の中の重さのようなもののことだ。


 出さなかった紙を鞄に入れて帰る日のことを、あなたは知らないはずだ。


 重さは、あのときと変わらない。変わらないのに、置く場所だけが違う。


            *


 置いてもいいですか、と訊こうとした。


            *


 母は一度も、紙を出しなさいと言ったことがない。


 六回とも、こちらが勝手に置いた。置く決まりは、家のどこにも書いていない。


 書いていないものを、僕は六年かけてきちんと覚えた。


 覚えたものを、十月に一度だけ使わなかった。


            *


 出さないという選択を、その日に初めて使った。

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