第058話 出さなかった日
予備校の確認テストは、月に一度ある。
第三日曜の午前に三教科、午後に二教科。合わせて五教科で、朝の九時から夕方の五時十分までかかる。
結果はA四の紙一枚で、次の週の火曜に返る。
紙には順位が三つ載っている。教室の中と、校舎の中と、全体になる。
教室は二十八人で、校舎は三百人くらいだ。全体は二万を超える。
同じ紙の右下に、偏差値が一つ印字してある。
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その紙を、家では机の右の端に置く。
置いておくと、朝には無くなっている。夜には、同じ場所に戻っている。
位置が動いていない。角を机の縁に合わせて置くので、戻ったときも合っている。
置くことも、無くなることも、戻ることも、家の中で一度も話に出ていない。
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四月から九月まで、六回そうした。
六回とも、次の日の夜には戻っていた。
置いてから戻るまでのあいだに、誰がどこで見ているのかを、僕は知らない。
台所だと思っていた時期がある。いまは母の部屋だと思っている。どちらも確かめていない。
見ているところを、僕は一度も見ていない。
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九月の紙は、教室で十四番だった。
二十八人のうちの十四番になる。ちょうど真ん中だ。
校舎は三一二人のうちの一四七で、全体は二万二千のうちの六千八百台だった。
偏差値は五十三・一になる。
五十より上にいるのが当たり前だと、そのころは思っている。
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十月の確認テストは十九日だった。
その週は、月曜から金曜まで練習がある。土曜は午前だけになる。
日曜の朝、六時二十分に起きた。起きる時刻を、テストの日も動かさない。
電車の中で単語を回した。四十分あって、百二十語ぶん進んでいる。
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試験のあいだ、右の親指の爪がまだ黒かった。
八月の終わりの内出血で、色だけが残っている。上へ動いていく途中だ。
鉛筆を持つと、その色が視野の下のほうに入る。入るたびに、位置を少し変えた。
変えても入る。四教科目からは、気にしないことにした。
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昼のあいだに食べたものを、僕は覚えていない。
母が持たせたはずだ。日曜に朝から出るときは、必ず持たせる。
包みの色は出てくる。中身が出てこない。
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数学は、また止まった。
中間のときと同じ形で止まる。大問三で、残り時間を見て、そこから動けない。
止まっているあいだ、教室の時計の秒針の音が聞こえた。聞こえるということは、手が止まっているということになる。
書いているときは、秒針は聞こえない。
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十月二十一日は火曜だった。
予備校は七時からで、その日の最初の十分で紙が配られる。
名前を呼ばれるのではなく、前から後ろへ回る。自分の名前のところで抜き取る。
抜き取って、二つに折らずに机に置いた。折る人が周りに何人かいる。
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教室で二十二番だった。
二十八人のうちの二十二で、九月の十四番から八つ下がっている。
校舎は三〇八人のうちの二三一になる。九月が一四七だったので、八十四下がった。
全体は二万一千のうちの一万二百台だ。九月は六千八百台だった。
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偏差値は四十七・八だった。
五十を下回ったのは、その回が初めてになる。
小学五年で塾に入ってから、その数が五十より下に来たことは一度も無い。
六年ぶんある。六年ぶんのうちの、一つ目になる。
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紙の下に、志望校の判定が三行入っていた。
第一志望と第二志望と第三志望で、それぞれ記号がついている。
第一志望の記号は、九月とは違うものになっていた。
志望校は、四月に書いた。誰にも相談していない。母が書いたわけでもない。
書いたときに、どこかで聞いた名前を並べた。並べた三つが、そのまま毎月印字されて戻ってくる。
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その紙を、僕は畳んだ。
二つに折って、もう一度折る。四つになる。
四つに折ると、鞄の内側のポケットに入る。ポケットには定期入れとハンカチが入っている。
入れてから、授業を二時間受けた。中身は覚えている。設問も出てくる。
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帰りの電車は九時四十分になる。
その日は座れた。座って、鞄を膝の上に置いた。
膝の上に置くと、内側のポケットの厚みが分かる。紙一枚ぶんだ。
紙一枚で厚みが変わるはずがない。分かった気がしただけになる。
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家に着いたのが十時十分だった。
母は起きていた。麦茶を出して、明日の持ち物を確かめる。
持ち物の確認は、中学のときから同じ順でやる。教科書、体操着、水筒、弁当箱の順になる。
紙のことは、その順の中に入っていない。
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風呂に入って、部屋に上がった。
机の右の端は空いている。九月の紙は、もう引き出しに移してある。
鞄は椅子の横に置いてあった。開ければ、五秒で置ける。
開けなかった。
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置かない、と決めたわけではない。
決めるという動きが、そのときに無かった。
手が鞄のほうへ行きかけて、止まった。止まってから、僕は英語のテキストを開いている。
開いたページの内容を、僕は覚えていない。その夜のことで覚えているのは、手の止まった位置だけになる。
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次の日も出さなかった。
水曜は部活がある。帰って、風呂に入って、机につく。手順は同じだ。
同じ手順の中に、紙を置く動きだけが入らない。
抜けたぶんの時間は短い。短いのに、そこだけ手順から浮いている。
何も起きない。何も起きないというのは、静かなこととは違う。
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三日目に、引き出しへ入れた。
右の引き出しには、答案の束が入っている。順に重なっていて、いちばん上が中間の九教科になる。
その紙は、束の下に入れた。
上ではない。下だ。
下に入れたのは、二度目になる。一度目がいつだったかは、入れたあとに思い出した。
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隠した、という言い方を、僕はそのときしていない。
出さなかった、と思っている。
二つが同じものかどうかを、その週のうちには考えなかった。
考えないほうが、手順が回る。
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何も起きない日数を、僕は数えた。
一日目。二日目。三日目。四日目。
五日目に、母は僕の運動靴を洗っていた。
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前の週の雨で濡れて、そのままになっていたものだ。
中敷きが外してあって、二つ並べて陰に干してある。紐も外して、別に洗ってあった。
紐を通し直すのは、こちらの役目になっている。通しながら、洗った日を訊かなかった。
訊かないので、いつ洗ったのかは分からない。乾き方から見て、前の日だと思う。
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紐は左右で通し方が違っていた。
片方は上から、片方は下から入っている。洗う前は、両方とも同じだったはずだ。
直すかどうかを迷って、そのままにした。走るぶんには変わらない。
ちゃんとしていない、という言い方が出る。出た先が、母ではない。
こちらへ来る。母のやったことについて出た言い方が、途中で向きを変えている。
変える動きを、僕は見ていない。気づいたときには、もうこちらを向いていた。
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母は靴のことを言わなかった。
洗ったとも、言っていない。台所で普通に麦茶を出している。
こちらも言っていない。ありがとう、を言う形が、この家には無い。
無いのではなく、僕が使わないだけかもしれない。使わないまま十六年になる。
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六日目。七日目。八日目。
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八日目の夜に、台所でペンの音がした。
母が何かを書いている。書くのは、たいてい皿を片づけたあとになる。
音は十分くらい続いた。途中で二回止まって、また始まる。
何を書いているのかを、僕は知らない。九年前から音だけ知っている。
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九日目。十日目。十一日目。
十一日目までに、母は一度も紙のことを訊かなかった。
訊かれないというのが、置いてあるかどうかを見ていない、という意味なのかは分からない。
見ていて、言わないほうかもしれない。材料はどちらの側にもある。
決めないほうが、こちらには都合がよかった。
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部活では、誰も紙の話をしない。
三浦は、その週も一〇〇〇を五本走った。一本目と五本目の差が、十秒に縮んでいる。
縮んだことに、本人は気づいていない。日誌を見ないからだ。
僕は気づいた。気づいて、言わなかった。言わない理由は書けない。
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宮内は、その週も答案を出しっぱなしにしていた。
物理基礎で、七十六点だった。前より下がっている。
下がっているのに、置いてある向きが変わらない。
向きを変えるという考えが、あの人の中に無い。
僕は自分の点を言わなかった。訊かれてもいない。
言わなかったのに、宮内の点だけはその日のうちに覚えた。
覚えるつもりは無い。数のほうが先に入ってくる。
入ってきた数を、こちらの数の横に置く。置いてから、置いたことが恥ずかしくなる。
恥ずかしいのに、次の日も置いた。
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千尋は、その月に中学の説明会へ行った。
母がついていっている。帰ってきて、制服の話をしていた。
しっかりした学校らしいわね、と母が言う。千尋は、うん、と言っただけだった。
うん、で済む言い方が、この家には二人ぶんある。
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十一月の確認テストは十六日になる。
その日までに、十月の紙をどうするかを決めていない。
普通は、こういうものは次の日に出すのだと思う。出さない日が続く形を、僕は知らなかった。
決めなくても、次の紙は来る。来た紙を置けば、十月のぶんは無かったことになる。
なったことにするために、必要な動作は一つしかない。
一つでいいのに、僕はそれを十一日やっていない。
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せっかく六回続けたのに、と思った。
続けていたのは、こちらだ。誰にも頼まれていない。
頼まれていないものを続けて、続かなくなったときに、こちらが減る。
減った、という言い方で合っているのかどうかを、僕はいまも決めていない。
だらしないからではない。だらしないほうが、まだ説明がつく。
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紙を出す家と、出さない家がある。世間ではそうなっているらしい。
うちは出す家だった。出す家であることを、誰も決めていない。
決めていないのに、六回続いた。続いたものが決まりになる。
決まりを破ると、そこに何かが起きると思っていた。起きなかった。
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はじめて百点を取った日のことを、僕はまだ覚えている。
持って帰るときの、鞄の中の重さのようなもののことだ。
出さなかった紙を鞄に入れて帰る日のことを、あなたは知らないはずだ。
重さは、あのときと変わらない。変わらないのに、置く場所だけが違う。
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置いてもいいですか、と訊こうとした。
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母は一度も、紙を出しなさいと言ったことがない。
六回とも、こちらが勝手に置いた。置く決まりは、家のどこにも書いていない。
書いていないものを、僕は六年かけてきちんと覚えた。
覚えたものを、十月に一度だけ使わなかった。
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出さないという選択を、その日に初めて使った。




