第056話 なんで走ってんの
三年生が引退して、長距離は三人になった。
二年の林さんと、僕と、三浦だ。八月十日からそうなっている。
三人だと、練習の作り方が変わる。
五人のときは、速い順に並べて、前の人を追う形が組めた。三人だと、前が一人しかいない。
林さんは千五百で四分三十四秒を持っている。僕の中学のときと同じ数字になる。
三人になってから、こちらの位置がはっきりした。
林さんが上で、僕が真ん中、三浦が下になる。三人だと、真ん中は一つしかない。
真ん中にいるのが当たり前になるまでに、ひと月かからなかった。
中学では、上にいるのが当たり前だった。当たり前というのは、たぶん場所の話ではない。
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林さんは、練習中にほとんど喋らない。
メニューを貼って、走って、片づけて帰る。三年生から引き継いだものを、そのまま回している。
林さんに、なんで走っているのかを訊いたことは無い。訊く形が無いのは、三浦のときと同じになる。
同じなのに、三浦のほうからは訊かれた。
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メニューは林さんが作る。作り方は三年生から引き継いだものだ。
紙に書いて部室に貼る。曜日ごとの型が決まっていて、月ごとに少しずつ量が増える。
その紙を、僕は毎回見た。見なくても覚えているが、見る。
貼ってあるものを見に行く動きが、こちらには入っている。
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九月の練習は、夏より楽なはずだった。
実際には楽ではない。夏の疲れが抜けていない。
抜けていないことに気づいたのは、九月の一週目に一〇〇〇のタイムが二秒落ちたときになる。
二秒落ちて、次の週も同じだった。三週目で戻った。
その三週間を、僕は日誌のタイムの欄で追える。追えるが、そのときの体のことは書いていない。
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九月に入っても、爪が黒いままだった。
左の親指で、八月の終わりに内出血している。中学二年の県大会のときと同じ場所になる。
押すと痛い。痛みは一週間で引いて、色だけが残った。
色が上へ動いていくのを、僕は毎晩見ている。見るのが習慣になっていた。
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九月から、母は弁当の保冷剤を一枚に戻した。
暑さが引いたからになる。引いたことを、こちらが言ったわけではない。
母はきちんと季節で切り替える。切り替える日を、僕は毎年当てられない。
当てようとしたことが、そもそも無い。
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九月の初めに、予備校のクラスが動いた。
僕は同じところに残った。上がりも下がりもしていない。
残るのは、悪いことではない。悪いことではないのに、情けないという言い方が出る。
出る先が自分だけなので、誰にも見えない。
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九月十二日は金曜だった。
予備校のある日で、僕は五時二十分に抜ける。抜ける前に、水道で顔を洗う。
その日は林さんが休みだった。だから、水道のところに二人しかいない。
蛇口は八月からずっと締まりが悪い。三浦が日誌に書いたものが、まだ直っていなかった。
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「高梨、なんで走ってんの?」
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答えを持っていた。
訊かれると思っていたわけではない。持っているのが、こちらの形だからだ。
三つある。
速くなりたいから、というのが一つ。
中学でやっていたから、が二つ目になる。
体を動かしたほうが頭に入るから、が三つ目だ。
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口に出す前に、三つとも出所が分かった。
速くなりたいから、は大野さんが六月に言っていた。一年に向けて言ったのではない。独り言に近い言い方だった。
中学でやっていたから、は入部届の余白に自分で書いたものになる。志望理由の欄があって、そこに一行入れた。
体を動かしたほうが頭に入るから、は予備校の先生が春に言った。ガイダンスの最初の十分の中にあった。
三つとも、外から来ている。外から来たものを、こちらは三つとも覚えていた。
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覚えているのに、どれも自分の言い方ではない。
自分の言い方というものが、どこかにあるのかどうかも分からない。
分からないまま、口が開いた。
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「なんとなく」
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その語を、僕はそれまで使ったことがない。
まあまあ、を使ったのが五月で、なんとなく、が九月になる。
持っていない言葉が、四か月で二つ増えた。
二つとも、口のほうが先に出している。
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三浦は、ふうん、と言った。
それから、訊き返される前に自分のほうを言った。
「おれは、終わったあとにメシがうまいから」
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それだけだった。
言い終わってから笑って、蛇口を締めた。締まりが悪いので、二回まわす。
二回まわしてもまだ落ちる。落ちるのを見て、また笑った。
その日の水は、九月でもまだぬるい。
顔を洗うと、首のうしろに残った汗が動く。動いてから、シャツの襟に入る。
入ったところが冷えるまでに、二分くらいかかった。
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世間では、こういうことを訊く人がいるらしい。なんで走るのか、と。
訊かれた人は、たいてい何か答える。答えている場面を、テレビで見たことがある。
答えている人は、みんな用意していた。用意していない人は、映さないのだと思う。
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なんで訊くの、と訊こうとした。
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訊かなかったのは、答えが怖かったからではない。
訊く形を持っていなかった。訊くというのは、こちらの中に無い動きになる。
授業で九年間、一度も手を挙げていない。その延長にあるものだと思う。
思うだけで、確かめていない。
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その日の予備校は、七時から九時半までだった。
英語の長文を三つやった。中身は覚えている。設問の番号も出てくる。
覚えているのに、そのあいだじゅう、水道のところが残っていた。
残っているというのは、思い出していたという意味ではない。
思い出さないまま、そこにあった。
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帰りの電車で、腹が減っていた。
九時四十分の電車で、家に着くのが十時十分になる。
減っていることに気づいたのは、その日が初めてだ。
毎日走って、毎日帰っている。減っていなかったわけがない。
気づかなかったのは、気づく形を持っていなかったからになる。
訊かれて、そこに形がついた。
電車の窓に、九時四十分の暗さが映る。夏のあいだは、同じ時刻でも少し明るかった。
明るさの違いを、僕はその年から見るようになった。見はじめた日は分からない。
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家で食べた夕飯を、僕はその日、はっきり味わっている。
鶏の照り焼きと、ひじきと、味噌汁と、ごはん。四つとも、前にも食べたものだ。
同じものを食べていて、その日だけ味が来た。
味が来た、という言い方が正しいのかどうかは分からない。ほかの言い方が出てこない。
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母は、おかわりする? と訊いた。
僕は、うん、と答えた。
中学に入ってから、こちらからおかわりを受けたのは、数えるほどしかない。
母は茶碗を受け取って、いつもより多く盛った。多いとは言わなかった。
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終わったあとにメシがうまいから、という言い方を、その夜に何度か頭の中で回した。
回して、うちの言い方に直そうとした。直すと、せっかく作ったのに、という形になる。
母の言い方でしか直せない。直せないので、そのままにしておいた。
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二年半前に、僕は続けますと言っている。
中学一年の四月だった。陸上部の入部届を出したときで、母が確かめたのはそこだけになる。
なんで、とは訊かれなかった。
訊かれなかったので、答えを作らないまま来た。そう書いたことがある。
二年半たって、初めて訊かれた。作っていないものは、やはり出てこない。
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母は一度も、なんで走るのかを訊かなかった。
小学五年で始めてから、四年になる。四年で一度もだ。
いつからやめるのかも訊かない。続けるのかも訊かない。
訊かれるのは、日付と、時刻と、持ち物だけになる。三つとも、答えが紙に書いてある。
書いてあるものだけを訊かれていると、書いていないものは無いことになる。
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三浦は、そのあとその話を出さなかった。
次の日も、次の週も出ない。訊いたことを覚えているのかどうかも分からない。
覚えていない可能性のほうが高いと思う。あの人は、その場で出たものをその場で言う。
言ったあとに置いておかない。置いておくのは、こちらの癖になる。
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宮内には、そういう質問をされたことがない。
同じクラスで六か月になる。話した回数は数えていない。数えていないものが増えている。
宮内が訊いてこないのは、興味が無いからではないと思う。
訊く場面が来ていないだけだ。来ていないのは、こちらが作らないからになる。
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千尋に一度だけ訊かれたことがある。
小学五年のときだった。
「走るの、たのしい?」
うん、と答えた。うん、で済む訊き方になる。
なんで、には済ませ方が無い。訊き方が一段深いところにある。
千尋のほうが浅かった、という言い方はしたくない。
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千尋は九月に、中学の制服の採寸へ行った。母がついていっている。
帰ってきて、袖を折るかどうかの話をしていた。三年で伸びるから折る、という話だ。
同じ台詞を、僕は四年前に聞いている。
同じ台詞が、四年おいてもう一度出た。出る先が違うだけになる。
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その夜、日誌を思い出した。
ひとことの欄が空いている僕の日と、三行入っている三浦の日がある。
三浦は、その三行を書くのに理由を要らない。見たものを書いている。
こちらは、書く前に理由が要る。理由が無いので、空ける。
走るのも同じ形をしているのかどうかは、その夜には出なかった。
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僕が持っているのは、記録のほうだ。
千五百の記録が、小学五年から並べられる。五分二十八秒、四分五十八秒、四分三十四秒、四分二十六秒、四分五十一秒。
五つ言える。日付も出る。その日の天気も、二つは覚えている。
五つのうち、いちばん速いのは中学三年のものになる。
いちばん遅いのは、その年の七月だ。四年やって、いちばん遅い数が最新になる。
並べると、上がって、下がっている。形になっている。
記録を並べるのは、しっかりやってきた証拠になる。
証拠になるのに、理由にはならない。二つが別のものだと、そのとき初めて分かった。
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理由を持っている人は、たぶん少ない。三浦のも、理由と呼べるのかどうかは分からない。
呼べないとしても、あの人は口に出せた。こちらは出せなかった。
出せる形を持っているかどうかの差だと、そのときは思った。
思っただけで、そこから先へ行っていない。
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訊かれたのは理由で、僕が持っていたのは記録だけだ。




