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自慢の息子  作者: 智珠
第四部 身の程

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第055話 二つの弁当

 八月は、練習が午前で、夏期講習が午後になる。


 練習が九時から十一時半まで。講習は二時から七時までで、途中に三十分の休みが二回入る。


 あいだが二時間半ある。帰るには足りない。学校から予備校まで、電車で四十分かかる。


 だから、その日は外にいることになる。朝から夜までだ。


            *


 弁当が二つ要る。


 昼のぶんと、夜のぶんになる。夜は講習のあいだの休みに食べる。


 二つ持って出る朝が、八月のうちに二十二回あった。


 残りの九日は、練習だけの日と、講習だけの日と、どちらも無い日になる。


            *


 二つの中身は違う。


 昼のほうが多い。ごはんが茶碗で二杯ぶんくらい入る。おかずは四つか五つになる。


 夜のほうは少ない。ごはんが一杯ぶんで、おかずは三つだ。冷たいものが多くなる。


 夜に揚げ物が入っていたことは、その夏に一度も無い。


 入れない理由を、母は言っていない。訊いてもいない。


 昼のおかずは、五つのうち三つが前の晩の夕飯と同じになる。


 残りは朝に作る。卵焼きと、ゆでたものが一つだ。


 同じものが入っていても、こちらは何とも思わない。せっかく作ったのに、と言われたこともない。


 言われないので、残していい、という形にはならなかった。


            *


 箱も違う。


 昼は四角い二段のやつで、夜は細長い一段になる。細長いほうは、僕が中学のときに使っていたものだ。


 どこにしまってあったのかは知らない。八月の一日目から出てきた。


            *


 保冷剤は、二つの箱にそれぞれ二枚ずつ入る。


 夜のぶんは、昼までに溶ける。溶けるので、講習の建物の冷房のところに置くことにした。


 置き場所は、こちらが決めた。決めたことを、母には言っていない。


 言わなくても、夏の終わりまで一度も傷まなかった。


            *


 その夏、弁当を残した日が二日ある。


 二日とも、暑くて食べきれなかった。残したぶんを、母は何も言わずに流した。


 流す音を、僕は二階で聞いている。聞いてから、次の日はちゃんと全部食べた。


 ちゃんと、というのは、こちらが決めた言い方になる。誰にも言われていない。


            *


 その夏、母が何時に起きていたかを、僕は知らない。


 僕が六時二十分に起きたとき、台所はもう動いている。


 揚げ物の油のにおいがする日と、しない日がある。においがする日は、前の晩から仕込んでいるはずだ。


 仕込んでいるところを、僕は見ていない。見ようと思えば見られた。


            *


 台所は、八月の朝でも暑い。


 窓を開けても、コンロを二つ使うと温度が上がる。換気扇の音が、二階まで届く。


 届く音で、こちらは母が何をしているかが分かる。分かるのに、下りていっていない。


 下りていって何をするのかが、思いつかなかった。


            *


 母の手は、夏になると荒れ方が変わる。


 冬は割れて、夏はふやける。水に触れている時間が長いからだと思う。


 しっかり拭いてから、次のものを触る。拭き方の順番が、いつも同じになっている。


            *


 母の腕に、油の跳ねた跡が二つあった。


 右の前腕の内側で、赤い点になっている。八月の半ばに気づいた。


 いつついたのかは訊いていない。二週間くらいで消えた。


 消えるまでのあいだ、僕はそれを何度か見ている。見て、何も言わなかった。


            *


 母は一度も、大変だとは言わなかった。


 二つ作るのが増えたぶんの話が、家の中で出ていない。


 早いわね、とも、しんどいわね、とも言わない。言わないので、こちらは何も返さないで済む。


 済ませたことを、いま書いている。


            *


 八月十三日に、父方の実家へ行く予定があった。


 行かなかった。僕の講習が入っていたからになる。


 母がそう決めた。決める前に、僕には訊いていない。訊かれても、答えは同じだったと思う。


 祖母は八十三で、去年の三月に会ったのが最後だった。


 盆に行かなかった年は、その夏が一年目になる。


 電話はある。母がかけている。話しているのは母だけだ。


 僕が代わったことは一度も無い。代わりなさい、とも言われていない。


            *


 行かなくていいの、と訊こうとした。


            *


 父は盆に三日休んだ。


 三日とも家にいた。家にいる父を三日続けて見たのは、その夏が初めてになる。


 初めてなのに、話した記憶が無い。同じ家にいて、時間が重ならなかった。


 僕は朝に出て、夜に帰る。父は昼に起きて、夕方から出かける日があった。


 どこへ行っていたのかは知らない。母も言わない。


            *


 千尋は小学六年の夏で、毎日どこかへ行っていた。


 プールと、友達の家と、図書館だ。図書館は宿題のためらしい。


 夕飯のときに、その日どこへ行ったかを話す。母は最後まで聞く。


 僕は、練習と講習の話をしない。訊かれないので、出す場面が無い。


 同じ食卓で、片方の一日が言葉になって、片方はならない。


            *


 八月十九日の夜の弁当に、麦茶のゼリーが入っていた。


 小さい容器で、蓋にラップがかけてある。冷たいまま食べられるように、保冷剤の横に入れてあった。


 その夏、それが入っていたのはその一日だけになる。


 次の日は入っていなかった。理由は言われていない。訊いてもいない。


            *


 食べたのは、講習の一回目の休みだった。四時十分になる。


 教室の外の廊下で食べた。座るところが無いので、窓の桟に置いて立ったまま食べる。


 ゼリーは甘くなかった。麦茶のままの味で、砂糖がほとんど入っていない。


 甘くないものが冷たいと、そこだけ味の輪郭がはっきりする。


            *


 その容器を、僕は洗って返した。


 弁当箱と一緒に流しへ置く。置くところは決まっている。


 次の日、その容器は棚に戻っていた。中身は入っていない。


 入っていないことを確かめたのは、その日の朝だと思う。確かめた覚えが、はっきりしない。


            *


 夏期講習は、五百人くらいが同じ建物に入る。


 教室は八つあって、上のクラスから順に前の棟に入る。僕は真ん中の棟の、二つ目の教室になる。


 クラス分けは七月のテストで決まった。上のクラスに入るには、あと三十点くらい要る。


 三十点というのが、どれくらいの距離なのかは分からない。点で言われても、時間に直せない。


 三十点足りないのは、こちらの中では情けない数になる。


 情けない、という言葉を、僕はその夏に何度か使った。使う相手は自分だけだ。


 上のクラスの棟は、外から見ると立派に見える。中は同じ作りらしい。


            *


 講習の休みのあいだ、廊下で弁当を食べているのは何人かいる。


 同じ場所に、毎回いる人が二人いた。名前も、どこの学校かも知らない。


 その二人は、二人とも一つしか持っていない。二つ持っているのは、僕だけになる。


 数えたのは、見えている範囲だけになる。


 弁当を二つ持つのは、世間では珍しいことではないと思う。


 同じくらいの時間を外にいる人は、ほかにもいる。


 珍しくないと確かめるために、こちらは人数を数えていた。


 数えて、当たり前の側にいることにする。そうしないと、置き場所が決まらない。


            *


 二つ持っていることを、恥ずかしいとは思っていない。


 思っていないのに、二つ目を出すときに、少し向きを変えた。


 変えた理由は書けない。書けないまま、その夏じゅう同じ向きで出していた。


 蓋を外すときに音がする。廊下に響く。


 響くので、二回目からは、教室の中で開けてから外へ出るようにした。


 誰も見ていない。見られていないのに、音のほうを先に消している。


            *


 八月十日に、三年生が引退した。


 県の記録会が最後になる。大野さんは四分十一秒で、自己ベストには三秒足りない。


 終わったあとに、部室の前で写真を撮った。五人で撮って、そのうち一枚を僕はもらっていない。


 くれと言えばもらえた。言っていない。


 次の日から、長距離は三人になった。二年の林さんと、僕と、三浦だ。


            *


 鞄が重い。


 教科書と、参考書と、体操着と、シューズと、水筒と、弁当が二つ入る。


 量ったことがある。八・四キロだった。毎日それを持って、七時五十分の電車に乗る。


 持てないほどではない。持てるので、減らす話が出ない。


            *


 八月三十一日で講習が終わった。


 次の日から二学期になる。一日は朝のホームルームで席替えがあった。


 僕は窓ぎわの前から二番目になる。小柳は同じ列の、三つ後ろだ。


 表を書き直すかどうかを、その夜に考えた。


 書き直さなかった。四月に書いたものが、まだ下に貼ってある。


            *


 九月に入って、弁当は一つに戻った。


 細長いほうの箱は、また見えないところへしまわれた。


 どこへしまったのかを、僕は見ていない。


 しまうところを見ておけば、次に出てくる日が分かる。分かったところで、こちらにできることは無い。


 出す日を決めるのは母で、決め方をこちらは知らないままになる。


            *


 二つ持って出る朝が、その夏は二十二回ある。

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