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自慢の息子  作者: 智珠
第四部 身の程

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59/103

第054話 いちばん遅い人

```

東雲高等学校 陸上競技部 練習日誌



七月二十九日(火) 

天気 晴  

気温 三十三度  

当番 一年 高梨


メニュー ジョグ二十分/流し一〇〇×五/一〇〇〇×五(設定 三分二十秒)


一本目  二本目  三本目  四本目  五本目


三年 大野   

三・一八 三・一九 三・二〇 三・二〇 三・一七

三年 斉藤   

三・二一 三・二二 三・二四 三・二六 三・二五

二年 林    

三・二五 三・二七 三・二八 三・三一 三・三〇

一年 高梨   

三・二二 三・二三 三・二五 三・二八 三・二六

一年 三浦   

三・四〇 三・四三 三・四七 三・五二 三・四九


ひとこと



                                  

八月一日(金)  

天気 晴  

気温 三十四度  

当番 一年 三浦


メニュー ジョグ/流し/一〇〇〇×五(設定 三分二十秒)


一本目  二本目  三本目  四本目  五本目


三年 大野   

三・一七 三・一八      三・一九 三・一六

三年 斉藤   

三・二〇 三・二三 三・二四      三・二六

二年 林    

三・二六 三・二八 三・二九 三・三〇 三・三一

一年 高梨   

三・二一 三・二二 三・二四 三・二六 三・二五

一年 三浦   

三・四一 三・四五 三・五〇 三・五五 三・五一


ひとこと

水道の蛇口がこわれてます。だれか言っておいてください。

大野さんが五本目でめっちゃ上げてた。すごかった。

あついのでアイス食べました。

```


 練習日誌は当番制で、一年が交代で書く。


 一年は二人しかいないので、二日に一度回ってくる。


 書くのは、日付、天気、気温、メニュー、それと全員のタイムになる。


 いちばん下に、ひとこと、という欄がある。


 日誌はB五のノートで、一ページに一日ぶん入る。


 去年のぶんは二冊で終わっている。今年は六月までで一冊を使い切っていた。


 書く欄は上から順に、日付、天気、気温、メニュー、タイム、ひとことの六つになる。


 六つのうち五つは、書かないと次の人が困る。ひとことだけが、空けても誰も困らない。


            *


 僕の当番の日は、タイムの欄が全部埋まっている。


 埋めるのは難しくない。時計を持っている三年生の横に立って、読み上げられる数を書く。


 読み上げが速いときは、二人ぶんを頭に置いて、あとから書く。中学のときに数字を持ち歩く練習をしている。


 その練習をしたつもりは無い。結果としてできるようになっていた。


            *


 ひとことの欄を、僕は空けた。


 書くことが無い。その日にあったことは、全部タイムの欄に入っている。


 入りきらないものがあるのかどうかを、そのときは考えなかった。


 空けたのは、書かないほうが恥ずかしくないからではない。


 書くと、こちらが何を見ていたかが残る。残ったものを、あとから誰かが読む。


 読まれて困ることは、たぶん無い。無いのに、書かない側にいる。


 ちゃんと書きなさい、と言われたわけでもない。言われていないところで、こちらは先に避けている。


            *


 三浦の当番の日は、タイムが二か所抜けている。


 大野さんの三本目と、斉藤さんの四本目だ。


 抜けた理由は、たぶん見ていなかったからになる。走り終わった人と喋っていた。


 二か所抜けているのは、こちらから見れば情けない書き方になる。


 普通は、抜けていたら誰かが言う。誰も言わなかった。


 言わないほうが正しいのかどうかを、僕はその日に決められなかった。


            *


 ひとことの欄には、三行書いてあった。


 水道のことと、大野さんが五本目で上げたことと、アイスのことになる。


 三行とも、僕の日誌には入っていない。


 水道の蛇口は、その週からずっと締まりが悪かった。僕は知っていた。書かなかった。


 大野さんが五本目で上げたのは、僕の日にも起きている。三・二〇から三・一七へ落としている。


 落ちているのは数で分かる。すごかった、とは書いていない。


            *


 三浦は、僕の書いた日誌を見て、こう言った。


 「高梨のとこ、全部埋まってるね」


            *


 数字のほうは見ていない。


 埋まっているかどうかを見ている。埋まっていることに、先に気づく人がいるとは思わなかった。


 それから三浦は、おれ二人ぶん忘れた、と言って笑った。


            *


 忘れたことを、笑いながら言う。


 こちらは、そこで何を返せばいいのかが決まらない。


 直しておこうか、と言うのが普通になる。言わなかった。


 言わなかったのは、直すと三浦の日が僕の日と同じ形になるからだ。


 同じ形にしていいのかどうかを、僕は決められなかった。


            *


 三浦は、ひとことの欄を指した。


 「なんも書いてないじゃん、ここ」


            *


 書くことが無かった、と答えた。


 三浦は、あるでしょ、と言った。


 それだけ言って、次の話へ行った。話の中身は水筒の氷のことになる。


 押してこない。押してこないので、こちらは考えないで済む。


 済ませてから、その日の夜に考えた。


            *


 何を書けばいいの、と訊こうとした。


            *


 三浦は一〇〇〇の五本で、一本目と五本目の差が十一秒ある。


 僕は三秒だ。大野さんは一秒しか動かない。


 差が大きいほど、後半で落ちていることになる。落ちるのはだらしないからだ、という言い方が出る。


 出てから、それが当たらないことも分かった。三浦は毎回、五本とも走り切っている。


 途中でやめた日が一度も無い。僕はその回数を数えていた。零だった。


            *


 三年生は八月で引退する。八月十日の記録会が最後になる。


 大野さんは千五百で四分八秒を持っている。立派な記録だ。県で入賞するのは、この部で十年に一人くらいらしい。


 その数字を、大野さんは自分から言わない。去年のぶんの日誌に残っているだけになる。


 斉藤さんの名前は、去年のぶんの日誌にずっと載っている。二年ぶん見れば、伸び方が分かる。


 僕は去年のぶんを二冊ともめくった。めくったことを、誰にも言っていない。


            *


 三浦は速くない。


 千五百のベストが五分十二秒になる。僕の中学のときより四十六秒遅い。


 高校の県の標準記録に、二十秒以上足りていない。大会には出るが、予選で終わる。


 一〇〇〇の五本でも、いつも最後に上がってくる。四本目からは、ほかの四人と離れる。


 離れているのに、走り終わったあとの顔が、いちばん変わっていない。


            *


 速さで並べると、部の五人のうち三浦が五番目になる。


 三浦は、そのことを知っている。知っていて、続けている。


 やめる話が出たことも無い。三年生から言われたことも無い。


 しっかり最後まで走る人だ、と大野さんが一度言った。それだけの評価で、部の中では足りるらしい。


            *


 僕は三浦を、どの並べ方でも下に置ける。


 置いても、何も起きない。置かれた側が、置かれたことを気にしていない。


 気にしていない人を下に置いても、こちらの位置は動かなかった。


 位置が上がらない並べ方に、意味が無い。意味が無いのに、僕は毎日それをやっていた。


            *


 宮内は上に来る。上に来るのに、上に来ようとしていない。


 三浦は下に来る。下に来ているのに、下に来たことになっていない。


 二人とも、こちらの表に入らない。入らない人が、片方は教室に、片方はグラウンドにいる。


            *


 三浦の話は、だいたい食べ物か家族のことになる。


 弟が二人いる。上が中学一年で、下が小学四年らしい。


 うちにも妹がいる、と一度だけ言った。それ以上は言っていない。


 言わなかったのは、そのあとに来る質問を用意していなかったからだ。


            *


 三浦の下の名前を、僕はその年のあいだ知らなかった。


 名簿に載っている。日誌にも一年三浦と書く。下の名前を書く欄が無い。


 訊けば済む。訊いていない。


 知らないまま、週に六日、二時間ずつ一緒にいた。


            *


 夏休みの練習は九時から十一時半までになる。日陰が無い。


 三浦は毎回、八時四十分ごろに来る。僕は八時五十分に着く。


 早く来て何をしているのかを、一度見たことがある。部室の前に座って、水筒の中身を飲んでいた。


 飲みながら、何もしていない。何もしていない時間を、こちらは持っていない。


 トラックの表面が焼けて、上を歩くと靴の底が柔らかくなる。


 二本目で、汗が顎から落ちるようになる。落ちた跡が土に丸く残って、三十秒くらいで消える。


 塩が乾いてシャツに出るのは、帰りの電車の中だ。冷房の風で乾く。


            *


 練習が終わるのは十一時半で、家に着くのは十二時四十分になる。


 昼を食べて、一時半から机につく。予備校の夏期講習は二時からの日と、五時からの日がある。


 夏休みの表を、僕は七月の終わりに書き直した。四月に書いたものの上に、そのまま重ねて貼った。


 二枚重なっているのを、母は見ている。何も言われていない。


            *


 夏休みのあいだ、母は毎朝、氷を作り足した。


 製氷皿が二つある。二つでは足りないので、練習のある日は前の晩から一つ増やす。


 増やす日と増やさない日を、こちらは訊かれていない。母は僕の表を見ていないはずだ。


 見ていないのに、間違えなかった。


            *


 母は一度も、部活の中身を訊かなかった。


 何時からで、何時までかは訊く。持ち物も確かめる。誰と走っているかは出てこない。


 三浦という名前が、家の中で出たことは無い。宮内も出ていない。


 出ないので、家の中にはその二人がいないことになる。


 中学のときと同じ形だ。同じ形が続いていることを、そのころは何とも思っていない。


            *


 日誌は、部室の棚にきちんと重ねてある。日付の順に、下から上へ積んである。


 積み方が当たり前のように守られていて、崩れている年が一つも無い。


 去年のぶんも、その前のぶんもある。段ボールに三箱あった。


 せっかく毎日書くのに、ひとことの欄だけが人によって空く。


 ひとことの欄が埋まっている日と、空いている日が混ざっている。


 埋まっている日のほうが、めくったときに手が止まる。数字だけの日は、そのまま通り過ぎた。


 通り過ぎてから、自分の書いた日も同じように通り過ぎられるのだと気づいた。


            *


 その気づきを、僕はそのあと何にも使っていない。


 次の当番の日も、ひとことの欄は空けた。


 空けたことを、三浦はもう言わなかった。


 その日誌は、いまも部室にあると思う。卒業のときに持ち出すものではない。


 誰のものでもないので、置いてある。


            *


 速さで並べられない人が、部に一人いる。

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