第054話 いちばん遅い人
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東雲高等学校 陸上競技部 練習日誌
七月二十九日(火)
天気 晴
気温 三十三度
当番 一年 高梨
メニュー ジョグ二十分/流し一〇〇×五/一〇〇〇×五(設定 三分二十秒)
一本目 二本目 三本目 四本目 五本目
三年 大野
三・一八 三・一九 三・二〇 三・二〇 三・一七
三年 斉藤
三・二一 三・二二 三・二四 三・二六 三・二五
二年 林
三・二五 三・二七 三・二八 三・三一 三・三〇
一年 高梨
三・二二 三・二三 三・二五 三・二八 三・二六
一年 三浦
三・四〇 三・四三 三・四七 三・五二 三・四九
ひとこと
八月一日(金)
天気 晴
気温 三十四度
当番 一年 三浦
メニュー ジョグ/流し/一〇〇〇×五(設定 三分二十秒)
一本目 二本目 三本目 四本目 五本目
三年 大野
三・一七 三・一八 三・一九 三・一六
三年 斉藤
三・二〇 三・二三 三・二四 三・二六
二年 林
三・二六 三・二八 三・二九 三・三〇 三・三一
一年 高梨
三・二一 三・二二 三・二四 三・二六 三・二五
一年 三浦
三・四一 三・四五 三・五〇 三・五五 三・五一
ひとこと
水道の蛇口がこわれてます。だれか言っておいてください。
大野さんが五本目でめっちゃ上げてた。すごかった。
あついのでアイス食べました。
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練習日誌は当番制で、一年が交代で書く。
一年は二人しかいないので、二日に一度回ってくる。
書くのは、日付、天気、気温、メニュー、それと全員のタイムになる。
いちばん下に、ひとこと、という欄がある。
日誌はB五のノートで、一ページに一日ぶん入る。
去年のぶんは二冊で終わっている。今年は六月までで一冊を使い切っていた。
書く欄は上から順に、日付、天気、気温、メニュー、タイム、ひとことの六つになる。
六つのうち五つは、書かないと次の人が困る。ひとことだけが、空けても誰も困らない。
*
僕の当番の日は、タイムの欄が全部埋まっている。
埋めるのは難しくない。時計を持っている三年生の横に立って、読み上げられる数を書く。
読み上げが速いときは、二人ぶんを頭に置いて、あとから書く。中学のときに数字を持ち歩く練習をしている。
その練習をしたつもりは無い。結果としてできるようになっていた。
*
ひとことの欄を、僕は空けた。
書くことが無い。その日にあったことは、全部タイムの欄に入っている。
入りきらないものがあるのかどうかを、そのときは考えなかった。
空けたのは、書かないほうが恥ずかしくないからではない。
書くと、こちらが何を見ていたかが残る。残ったものを、あとから誰かが読む。
読まれて困ることは、たぶん無い。無いのに、書かない側にいる。
ちゃんと書きなさい、と言われたわけでもない。言われていないところで、こちらは先に避けている。
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三浦の当番の日は、タイムが二か所抜けている。
大野さんの三本目と、斉藤さんの四本目だ。
抜けた理由は、たぶん見ていなかったからになる。走り終わった人と喋っていた。
二か所抜けているのは、こちらから見れば情けない書き方になる。
普通は、抜けていたら誰かが言う。誰も言わなかった。
言わないほうが正しいのかどうかを、僕はその日に決められなかった。
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ひとことの欄には、三行書いてあった。
水道のことと、大野さんが五本目で上げたことと、アイスのことになる。
三行とも、僕の日誌には入っていない。
水道の蛇口は、その週からずっと締まりが悪かった。僕は知っていた。書かなかった。
大野さんが五本目で上げたのは、僕の日にも起きている。三・二〇から三・一七へ落としている。
落ちているのは数で分かる。すごかった、とは書いていない。
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三浦は、僕の書いた日誌を見て、こう言った。
「高梨のとこ、全部埋まってるね」
*
数字のほうは見ていない。
埋まっているかどうかを見ている。埋まっていることに、先に気づく人がいるとは思わなかった。
それから三浦は、おれ二人ぶん忘れた、と言って笑った。
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忘れたことを、笑いながら言う。
こちらは、そこで何を返せばいいのかが決まらない。
直しておこうか、と言うのが普通になる。言わなかった。
言わなかったのは、直すと三浦の日が僕の日と同じ形になるからだ。
同じ形にしていいのかどうかを、僕は決められなかった。
*
三浦は、ひとことの欄を指した。
「なんも書いてないじゃん、ここ」
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書くことが無かった、と答えた。
三浦は、あるでしょ、と言った。
それだけ言って、次の話へ行った。話の中身は水筒の氷のことになる。
押してこない。押してこないので、こちらは考えないで済む。
済ませてから、その日の夜に考えた。
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何を書けばいいの、と訊こうとした。
*
三浦は一〇〇〇の五本で、一本目と五本目の差が十一秒ある。
僕は三秒だ。大野さんは一秒しか動かない。
差が大きいほど、後半で落ちていることになる。落ちるのはだらしないからだ、という言い方が出る。
出てから、それが当たらないことも分かった。三浦は毎回、五本とも走り切っている。
途中でやめた日が一度も無い。僕はその回数を数えていた。零だった。
*
三年生は八月で引退する。八月十日の記録会が最後になる。
大野さんは千五百で四分八秒を持っている。立派な記録だ。県で入賞するのは、この部で十年に一人くらいらしい。
その数字を、大野さんは自分から言わない。去年のぶんの日誌に残っているだけになる。
斉藤さんの名前は、去年のぶんの日誌にずっと載っている。二年ぶん見れば、伸び方が分かる。
僕は去年のぶんを二冊ともめくった。めくったことを、誰にも言っていない。
*
三浦は速くない。
千五百のベストが五分十二秒になる。僕の中学のときより四十六秒遅い。
高校の県の標準記録に、二十秒以上足りていない。大会には出るが、予選で終わる。
一〇〇〇の五本でも、いつも最後に上がってくる。四本目からは、ほかの四人と離れる。
離れているのに、走り終わったあとの顔が、いちばん変わっていない。
*
速さで並べると、部の五人のうち三浦が五番目になる。
三浦は、そのことを知っている。知っていて、続けている。
やめる話が出たことも無い。三年生から言われたことも無い。
しっかり最後まで走る人だ、と大野さんが一度言った。それだけの評価で、部の中では足りるらしい。
*
僕は三浦を、どの並べ方でも下に置ける。
置いても、何も起きない。置かれた側が、置かれたことを気にしていない。
気にしていない人を下に置いても、こちらの位置は動かなかった。
位置が上がらない並べ方に、意味が無い。意味が無いのに、僕は毎日それをやっていた。
*
宮内は上に来る。上に来るのに、上に来ようとしていない。
三浦は下に来る。下に来ているのに、下に来たことになっていない。
二人とも、こちらの表に入らない。入らない人が、片方は教室に、片方はグラウンドにいる。
*
三浦の話は、だいたい食べ物か家族のことになる。
弟が二人いる。上が中学一年で、下が小学四年らしい。
うちにも妹がいる、と一度だけ言った。それ以上は言っていない。
言わなかったのは、そのあとに来る質問を用意していなかったからだ。
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三浦の下の名前を、僕はその年のあいだ知らなかった。
名簿に載っている。日誌にも一年三浦と書く。下の名前を書く欄が無い。
訊けば済む。訊いていない。
知らないまま、週に六日、二時間ずつ一緒にいた。
*
夏休みの練習は九時から十一時半までになる。日陰が無い。
三浦は毎回、八時四十分ごろに来る。僕は八時五十分に着く。
早く来て何をしているのかを、一度見たことがある。部室の前に座って、水筒の中身を飲んでいた。
飲みながら、何もしていない。何もしていない時間を、こちらは持っていない。
トラックの表面が焼けて、上を歩くと靴の底が柔らかくなる。
二本目で、汗が顎から落ちるようになる。落ちた跡が土に丸く残って、三十秒くらいで消える。
塩が乾いてシャツに出るのは、帰りの電車の中だ。冷房の風で乾く。
*
練習が終わるのは十一時半で、家に着くのは十二時四十分になる。
昼を食べて、一時半から机につく。予備校の夏期講習は二時からの日と、五時からの日がある。
夏休みの表を、僕は七月の終わりに書き直した。四月に書いたものの上に、そのまま重ねて貼った。
二枚重なっているのを、母は見ている。何も言われていない。
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夏休みのあいだ、母は毎朝、氷を作り足した。
製氷皿が二つある。二つでは足りないので、練習のある日は前の晩から一つ増やす。
増やす日と増やさない日を、こちらは訊かれていない。母は僕の表を見ていないはずだ。
見ていないのに、間違えなかった。
*
母は一度も、部活の中身を訊かなかった。
何時からで、何時までかは訊く。持ち物も確かめる。誰と走っているかは出てこない。
三浦という名前が、家の中で出たことは無い。宮内も出ていない。
出ないので、家の中にはその二人がいないことになる。
中学のときと同じ形だ。同じ形が続いていることを、そのころは何とも思っていない。
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日誌は、部室の棚にきちんと重ねてある。日付の順に、下から上へ積んである。
積み方が当たり前のように守られていて、崩れている年が一つも無い。
去年のぶんも、その前のぶんもある。段ボールに三箱あった。
せっかく毎日書くのに、ひとことの欄だけが人によって空く。
ひとことの欄が埋まっている日と、空いている日が混ざっている。
埋まっている日のほうが、めくったときに手が止まる。数字だけの日は、そのまま通り過ぎた。
通り過ぎてから、自分の書いた日も同じように通り過ぎられるのだと気づいた。
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その気づきを、僕はそのあと何にも使っていない。
次の当番の日も、ひとことの欄は空けた。
空けたことを、三浦はもう言わなかった。
その日誌は、いまも部室にあると思う。卒業のときに持ち出すものではない。
誰のものでもないので、置いてある。
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速さで並べられない人が、部に一人いる。




