第052話 四十分と、十二分
宮内遼の名前は、四月から知っていた。
入学式で新入生代表の挨拶をしたのが、その人になる。
挨拶は二分四十秒だった。中身は覚えていない。時間だけ測っている。
測ったのは、そのときも測るものが無かったからだ。
*
同じクラスにいる。一年三組で、名簿の十一番目になる。
僕は三十七番目で、席は離れている。窓ぎわの後ろと、廊下側の前だ。
名簿の番号は五十音順で、成績とは関係が無い。関係が無いのに、僕はその二つの数を並べたことがある。
十一と三十七を並べても、そこからは何も出ない。出ないと分かっていて、二度並べた。
四月と五月のあいだ、口をきいた覚えが無い。
最初に口をきいた日を、僕は特定できない。日付を覚えないものが、また一つ増えたことになる。
*
当てられてから答えるまでの時間を、僕は四月から計っている。
宮内は一秒台が多い。四十人のうち、一秒台で答える人は三人しかいない。
三人のうち、宮内だけが間違えることがある。間違えて、あ、と言って、すぐ直す。
直すのに時間がかからない形をしている。直すところを人に見せても、平気らしい。
*
宮内は朝いちばんに来る日と、遅い日がある。
六月のあいだ、八時二十分より前にいた日が九日、八時三十分すぎが七日になる。数えていた。
遅い日でも、宿題は出ている。出し忘れたところを、僕は一度も見ていない。
ノートはきちんと取ってある。取り方が速いのか、書く量が少ないのかは、横からでは分からない。
*
六月十九日の数学の時間に、先生が一問だけ余分に出した。
教科書の範囲の外にあるもので、点にはならない。解けたら持ってこい、という出し方だった。
黒板に写して、それで授業が終わった。写した人は、四十人のうち十人くらいになる。
僕は写した。写すのに一分かからない。
*
その日は火曜で、予備校がある。
家に着いたのが十時十分になる。夕飯を食べて、机についたのが十時四十分だ。
表では十時十分に寝ることになっている。火曜と金曜だけ、そこがずれる。
ずれるぶんは、母が最初から表に入れてある。母ではない。僕が入れた。
入れたのは僕なのに、母の書き方をなぞっている。
*
その問題を、四十分でやった。
十時四十分から十一時二十分になる。時計を見て始めて、見て終わった。
途中で二回、方針を変えている。一回目が十二分すぎで、二回目が二十六分すぎだ。
二回目に変えたやり方が当たった。当たってからは速い。残りの十四分で書き上げた。
書き上げてから、もう一度読み直した。読み直しは二回までにしてある。
*
四十分というのは、こちらの水準で見ると遅い。
中学のとき、同じくらいの重さの問題を二十分でやっていた。倍かかっていることになる。
ちゃんとやっていないからだ、という言い方が、そのとき最初に出た。
実際にはちゃんとやっている。やっているのに、そういう言い方が先に出る。
四十分かかったことを、情けないと思った。思ってから、誰の言い方かを考えていない。
考えないまま使うようになったのが、そのころだと思う。
*
次の日の朝、教室に八時二十分に着いた。
持っていくつもりだった。職員室は一階で、教室は三階になる。
行かなかった。理由は、そのときには無い。
*
二時間目と三時間目のあいだの休みに、宮内が黒板の前に立った。
昨日の問題が、まだ消されずに残っている。
立って、しばらく見ていた。それから自分の席へ戻って、ノートを開いた。
*
僕は測った。
頼まれていない。頼まれるはずもない。こちらが勝手に、時計を見た。
開いてから、ペンを置くまでが十二分になる。
十二分のうち、二回は顔を上げている。前の席の子と喋っていた。何の話かは聞こえない。
喋りながら、手は止まっていない。止まらないまま、十二分で終わった。
*
四十分と、十二分になる。
差は二十八分だ。倍率でいうと三・三倍になる。
その数を、僕はその場で出した。出してから、出す必要が無かったことに気づく。
気づいても、出たものは消えない。頭の中に出た数を消す方法を、僕は持っていない。
*
三時間目のあとで、宮内が僕の机の横に来た。
来た理由は分からない。前を通っただけかもしれない。
僕のノートが開いてあった。前の日に書いた解答が出ている。
宮内はそれを横から見て、こう言った。
「あ、それ気づかなかった」
*
僕の書いた式の、三行目のところを指していた。
そこで一度、別の置き方をしている。方針を二回目に変えたところになる。
置き方を変えると、そのあとの計算が二行短くなる。二行ぶんだけ、こちらのほうが短い。
宮内は、そのやり方を使っていない。
*
言い方が平らだった。上げも下げもしていない。
嘘でもない。ほんとうに気づいていなかったのだと思う。気づいていて言うなら、言い方が変わる。
言い方が変わる人を、僕は何人か知っている。宮内はそれではなかった。
それから宮内は、いいじゃんこれ、と言って、自分の席へ戻った。
*
何時間やってるの、と訊こうとした。
*
訊けなかったのは、答えが分かっていたからではない。
訊いた時点で、こちらが四十分かけたことを出すことになる。
出さないでおけば、四十分は僕の中にとどまる。とどまっているうちは、比べられない。
比べられないようにしておいて、頭の中では比べている。
*
宮内は、その週に僕へ消しゴムを貸した。
落としたのを拾ってくれた、という形になる。落としたのは僕だ。
拾って、机に置いて、それだけで戻っていった。ありがとうを言う間が無かった。
*
誰かに答えを写させることはしない。
写させて、と言われているのを二回見ている。二回とも、宮内は説明のほうをした。
説明が上手い。上手いというより、相手の分かっていないところに先に行く。
行ってから、そこだけ説明する。三分か四分で終わる。
終わったあと、相手が笑っていた。分からないところを訊いて、笑って終われるらしい。
*
感じの悪いところが、一つも無い。
探した。探したことは、いま書いておく。
声が大きすぎるとか、人の話を取るとか、そういうものを探した。一つも無かった。
無いので、置く場所が決まらない。
*
人を並べるやり方を、僕はいくつか持っている。
順位で並べる。速さで並べる。喋る量でも並ぶ。手を挙げるかどうかも目安になる。
どの並べ方でも、宮内は上に来る。上に来るのに、上に来ようとしているところが見えない。
上に人がいるのが当たり前になったのは、その年からになる。
見えないものは、こちらの表に入らない。入らないものが、毎日同じ教室にいる。
*
宮内は部活に入っている。バスケットボールで、週に五日ある。
塾へ行っているかどうかは知らない。訊いていない。
訊けば言ったと思う。訊かなかったのは、行っていない、と返ってきた場合に、こちらの置き場所がまた無くなるからだ。
置き場所が無くなる形を、先に避けている。避けていることに、そのときは気づいていない。
*
その問題を、僕は結局出さなかった。
次の日には黒板が消えていた。誰が出したのかも、先生は言っていない。
せっかく四十分かけたのに、出していない。
解答は、いまもノートの中にある。二行短いやり方で書いたやつだ。
誰にも見せていない。見せたのは一人で、それも横から一瞬になる。
四十分かかったと言うのが恥ずかしい、という形で説明できる。説明できるが、当たっていない気がする。
*
宮内は昼を教室で食べる。弁当ではなく、購買のパンが多い。
三個買って、二個食べて、一個を誰かにやる日がある。やる相手は決まっていない。
その一個を、一度だけ僕がもらった。もらってから、返すものを探した。
探しているうちに、昼休みが終わった。
*
母は一度も、上に誰がいるのかを訊かなかった。
中学一年のときは訊いた。二番の子は誰、と一度だけ訊いている。
調べなさいとは言われていない。言われていないのに、僕はあのとき調べた。
高校に入ってから、その形の質問が来ていない。
来ないのは、順位の紙が家に届かないからだと思う。届いた紙には、上の人の名前が載っていない。
載らない紙を見て、母は名前を訊かなくなった。
*
下に置ける材料を、僕はその年ずっと探していた。
探して、出てこなかった。出てくるまで探すやり方を、こちらは持っている。持っていても、無いものは出ない。
宮内は、こちらを一度も下に置いていなかった。置かれていないので、返すものが出せない。
返すものが出ないと、抱えたぶんの行き先が無くなる。
*
行き先の無いものを、どこに置けばいいのかが分からない。




