第051話 走ってたろ
いまの仕事では、階段をよく使う。
機械を止めているあいだは、そちらに乗れない。当たり前のことで、誰も文句を言わない。
止めた箱の横を、上がったり下りたりする。急ぐ場面は無い。急いでも早く終わらない。
十四階まで一度通すと、脚の同じところに来る。ふくらはぎの内側の、下のほうだ。
走っていたころと同じ場所になる。同じ場所に来るのに、走っているわけではない。
違いがどこにあるのかを、僕はまだ考えていない。
*
六月十日の昼休みに、廊下で呼び止められた。
体育の先生だった。名前は知っている。授業では持たれていない。
「高梨」
*
名字だけを呼ばれるのは、前にもあった。
中学三年の十一月に、階段の踊り場で一度ある。あのときは、そのあとに質問が来た。
その日も来た。
*
「走ってたろ」
*
走っていました、と答えた。
中学の三年間で、千五百メートルをやっていた。地区で六位まで行って、県では三十四位になる。
先生は、知ってる、と言った。
*
なんで知ってるんですか、と訊こうとした。
*
県の大会に出た人は、名簿に残る。
記録も一緒に載る。学校名と、学年と、種目と、タイムが並ぶ。
その名簿は、県の高体連から各校へ回るらしい。中学のぶんも来る。四月に来て、顧問はもう見ている。
*
紙になっていたことになる。
中学のとき、僕は自分の記録が紙にならないと思っていた。
順位も、タイムも、家では紙にならない。ならないものは家の中に存在しない、と書いた覚えがある。
家の中に無かっただけだった。外には、ちゃんと紙があった。
二年たってから、その紙が別の県のほうから回ってきて、廊下で僕を呼び止めた。
*
四分二十六秒という数を、その先生は言わなかった。
言われていたら、こちらは何か言ったと思う。言われなかったので、その数はまだ誰も口に出していない。
三年の七月から、二年近くになる。
*
入るなら、いつでもいい、と先生は言った。
仮入部の期間は四月の終わりまでだ。とっくに過ぎている。
過ぎているのに、いつでもいいと言う。長距離は人数が足りていないらしい。
足りていないから声をかけたのだ、と考えるのが普通になる。
普通に考えたうえで、僕はその場で返事をしなかった。
せっかく声をかけてもらったのに、返事をしていない。
しなかったのは、決めていなかったからではない。決まっていたのに、口が動かなかった。
*
入部届は、その日の放課後にもらった。
A四の紙で、上に部活動名を書く欄がある。下に保護者の氏名と印がいる。
鞄に入れて持って帰った。座卓の上には出さなかった。
出さなかったのは、その日は父が帰る日だったからだ。理由になっていないことは分かっている。
*
次の日の夜に出した。八時前になる。
母は紙を両手で持った。順位の紙と同じ持ち方だ。
しばらく見て、それから訊いた。
「予備校は?」
*
その質問が来ることは分かっていた。
分かっていたので、答えを用意してある。
部活は月曜から土曜まである。予備校は火曜と金曜で、七時からになる。
火曜と金曜は五時二十分に抜ける。抜けると、その二日は一時間半しか練習できない。
週の練習量は、六日ぶんの七割くらいになる。七割で足りるかどうかは、そのとき考えていない。
紙に書いて出した。時刻の並びが、母の書く表と同じ形になっていた。
*
母は、そう、と言った。
それから、印鑑を取りに立った。座卓の引き出しの、いちばん上にある。
押すときに、印マットを敷く。敷かないと、紙の下の座卓に跡が残る。
押して、少し離して見た。曲がっていないかをきちんと見ている。
*
いいの、と訊こうとした。
*
母は一度も、やめておきなさいとは言わなかった。
時間が足りないとも、体がもたないとも言っていない。
訊いたのは予備校のことだけで、それには答えが用意してあった。
用意してあったものを出したら、話が終わった。用意していなかったら、どうなっていたかは分からない。
*
中学の靴を出してみた。
実家の下駄箱の上に、そのまま置いてある。二年近くそこにあって、埃をかぶっていない。誰かが拭いている。
履いてみると、つま先が当たった。中学のときは百六十七で、いまは百七十一になる。足も伸びている。
入らないのではない。入るが、指の先が前の壁に着く。着いた状態で走ると、爪が黒くなる。
元の場所へ戻した。向きも同じにした。
*
新しいのを買ったのは六月十四日の土曜だ。
一人で行った。駅前のスポーツ用品店で、二階が陸上のところになる。
二種類あった。片方が九千円で、もう片方が五千八百円になる。
店の人が、長距離ならこちら、と言って高いほうを指した。ソールの返りが違うらしい。
僕は安いほうを買った。
立派なほうにしておけばよかった、とは思っていない。思っていないのに、店を出てから一度だけ振り返った。
*
理由を、いまも書けずにいる。
金が足りなかったわけではない。母が出すと言っていたので、財布の中身は関係ない。
自分の金で買った。祖母の千円札と、正月のぶんと、五月からの小遣いを合わせた。
合わせると、ちょうど足りた。ちょうど足りるほうを選んだのだと、あとで思うようにした。
紐の結び方は、小学五年のときに店で教わったものになる。手が覚えていて、一度でしっかり締まった。
*
部室は体育館の裏にある。プレハブで、中は狭い。
入部届を出したあと、名簿に自分で名前を書き足した。いちばん下になる。
名簿はコピーで、一年のところに十二人ぶんの枠がある。僕のところだけ、あとから書いてあることになる。
普通は四月に入る。二か月遅れて入る人がいるのは、この部では恥ずかしいことではないらしい。
誰も何も言わなかった。言われないのに、こちらは説明を用意していた。
*
顧問は四十代で、専門は短距離だった。長距離は見られない、と自分で言う。
メニューは三年生が作る。先生は時計を持って立っているだけになる。
立っているだけの人が、僕の中学の記録を四月から持っていた。
*
部に入ったのは六月十六日の月曜だった。
長距離は五人いる。三年が二人、二年が一人、一年が僕を入れて二人になる。
もう一人の一年は、四月から入っている。名前は三浦といった。
三浦は、僕が来たときに、遅かったね、と言った。責める言い方ではない。
言い方の中に、責めるところが一つも無い。無いのに、こちらはそれを責めとして受け取りかけた。
四月に来なかったのはこちらのだらしなさだ、という形で受け取ろうとしている。
そういう形しか持っていない。持っていないので、そこへ入れる。
*
その日の練習は、四百メートルを八本だった。
間に九十秒の休みが入る。設定は一本七十五秒で、僕は七本目までは守れた。
八本目で二秒落ちた。設定を守れたのは七本目までになる。
二秒というのは、この形の練習では情けない数字だ。
落ちたことを、その日は書き留めていない。書き留める場所がまだ無かった。
*
三浦は、その日の練習で最後だった。
八本目で、僕より十四秒遅れて入ってくる。入ってきてから、笑った。
遅れて笑う人を、僕はそれまで見たことがない。
*
終わったあと、部室の裏の水道で顔を洗った。
水が生ぬるい。六月の日なたに管が出ているからだ。
汗が乾くと、シャツに白い線が出る。塩だと三浦が言った。二年ぶりに見たものになる。
*
走っているあいだ、順位が無い。
同じ組で走っている人と自分の位置は分かる。分かるが、それは順位ではない。
紙に出ない。誰も並べないし、次の日にも持ち越さなかった。
二時間のあいだ、僕を並べるものが一つも無かった。
二時間というのは、その日に測った長さだ。四時十五分から六時十五分になる。
*
帰りの電車で、脚が重かった。
二年ぶんの休みがある。その重さが何なのかは、体のほうが先に知っている。
窓に映る自分の顔を見た。見て、目をそらした。そらした理由は分からない。
電車は六時四十五分のに乗っている。三年の四月から使っている時刻表とは別のところだ。
帰りの時刻が変わると、母への連絡の文面も変わる。いま出た、の前に、部活、と一語増えた。
増えたのはその一語だけになる。返ってくるほうは、前と同じ字数だった。
*
その週から、夕飯のごはんの量が戻った。
中学の十一月から二割落としていたものだ。落ちたままだったのが、そこで元に戻る。
戻したことを、母は言わない。こちらも訊いていない。
*
家に着いたのは七時二十分になる。
夕飯を食べて、風呂に入って、机についたのが八時四十分だ。表より二十五分遅れている。
遅れたぶんを、その日は取り戻さなかった。寝る時刻を二十五分うしろへ動かした。
中学のあいだに寝る時刻を動かしたのは十四回で、僕はその数を持っている。
十五回目が、その日になる。
*
入る理由を、僕はその場で作らなかった。




