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自慢の息子  作者: 智珠
第三部 合格

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第049話 三百二十人

 東雲には、順位の掲示が無い。


 二中では、定期テストのたびに廊下へ紙が出た。学年の上から二十番までが名前で載る。


 塾でも出た。クラス分けと、模試の成績が二枚並ぶ。


 東雲には、どちらも無い。四月のあいだ、僕は自分の位置を示す紙を一枚も見なかった。


            *


 位置が分からない状態で過ごしたのは、九年ぶりになる。


 小学一年の十月に初めて百点を取ってから、僕はいつも、どこにいるかを紙で知っていた。


 枚数か、級か、順位か、タイムか。形は変わっても、必ずどこかに数字がある。


 四月の一か月間、その数字が一つも出なかった。


 位置が分かるのが当たり前だった。分からない状態に名前がついていない。


            *


 廊下を通るときに、目が壁のほうへ動く。


 二中では、そこに紙があった。東雲の同じ場所には、行事の予定と、部活の勧誘が貼ってある。


 見るものが無いのに、目だけが動く。三年ぶんの動きが残っている。


            *


 高校の一日は、二中より長い。


 六時二十分に起きて、七時五十分の電車に乗る。学校に着くのは八時二十分だ。


 朝と終わりの時刻は、しおりに書いてあったとおりになる。


 帰りの電車は三時四十五分で、家に着くのが四時二十分だ。


 部活には入っていない。入らないと決めたわけではない。仮入部の期間に、どこへも行かなかった。


 行かなかった理由を、そのときは考えていない。


            *


 四月の放課後に、グラウンドから声がした。


 陸上部が走っている。東雲のトラックは土だ。二中と同じになる。


 窓から見えるところに教室がある。見ないようにしていたわけではない。見て、そのまま帰った。


 走りたいかどうかを、そのころ自分に訊いていない。訊く形が思いつかなかった。


            *


 昼は弁当になる。中学は給食だったので、弁当は小学校以来だ。


 中身の組み方が、塾へ行っていた日のものと同じになる。おかずが四つと、ごはん。


 卵焼きは三日に一度入る。数えたのは僕で、母が決めているのかどうかは分からない。


 からあげが入る日は、前の日の夕飯にもからあげが出る。作る量の都合だと思う。


 食べる相手は、四月のうちに決まった。決めたのではなく、席の近い三人とそうなった。


 名前は書ける。当時どう呼んでいたかが出てこない。


            *


 出ないので、自分で作った。


 教室に四十人いる。四月の終わりまでに、僕はその四十人を並べていた。


 紙には書いていない。頭の中だけになる。


            *


 並べる材料は三つある。


 一つ目は、当てられてから答えるまでの時間だ。数学の授業で、先生が指名してから答えが出るまでを数える。二秒で出る人と、六秒かかる人がいる。


 二つ目は、解き終わってから顔を上げるまでの時間になる。問題を配られて、鉛筆が止まってからペンを置くまでを見る。


 三つ目は、ノートを取っているかどうかだ。取らないのに、当てられて答えられる人が四人いる。


 僕はちゃんと取っている。黒板に出たものを、そのまま写す。写す速さは速い。


            *


 教室の音が、二中と違う。


 人数は同じなのに、静かなときの静かさが深い。


 鉛筆の音が聞こえる。二中の教室で鉛筆の音を聞いたことは無い。


            *


 四人のうち三人は、いつも同じあたりに座っている。


 窓の反対側の、前のほうだ。座席は名前の順で決まっているので、そこに固まっているのは偶然になる。


 偶然だと分かっていて、僕はその一角を毎日見ていた。


            *


 二中では、こういうことをしていない。


 する必要が無かった。上に誰もいないので、見る先が無い。


 東雲では、見る先が四十ある。並べても、まだ二百八十人ぶん分からない。


 ほかのクラスの中を、僕は見たことがない。廊下ですれ違うだけになる。


            *


 英語の時間に、教科書を音読させられることがある。


 一人ずつ立って読む。読む速さが人によってずいぶん違う。


 僕は速くも遅くもない。真ん中で読めば、誰の記憶にも残らずに済む。


 残らないほうがいいと思っていたのかどうかは、はっきりしない。


            *


 四月二十二日の数学の時間に、小柳が手を挙げた。


 当てられたのではない。自分で挙げた。


 先生が黒板に書いた式の、三行目のところで挙げた。


 「そこ、なんでそうなるんですか」


            *


 先生は、いい質問だ、とは言わなかった。


 黒板に戻って、三行目の前に一行足した。足してから、これでいいか、と訊いた。


 小柳は、はい、と答えた。それで終わった。時間にして四十秒くらいになる。


            *


 僕は、その三行目が分かっていなかった。


 分かっていないまま、次の行へ進んでいた。進めるので、進んでいた。


 一行足されて、そこが埋まった。埋まってから、埋まっていなかったことに気づく。


            *


 授業で質問をしたことが、僕には一度も無い。


 小学校から数えて九年になる。


 零だと言い切れるのは、数えたからではない。手を挙げようとしたことが無いからになる。


 挙げようとして下ろした、という覚えも無い。上がらないのではなく、上げるという動きが入っていない。


            *


 分からないところが無かったわけではない。


 二中の三年間で、その場では分からなかったところを、僕は家で埋めていた。


 教科書と、塾の資料と、参考書がある。埋める道具は全部そろっていた。


 道具があると、人に訊かなくて済む。済んでしまうと、訊き方が身につかない。


            *


 予習という言葉を、東雲へ来てから使うようになった。


 二中では、しなくても授業が分かる。分かるので、しないで済んでいた。


 高校では、しないと次の日に困る。困るところまでは行っていない。追われている感じだけがある。


 追われている、という言い方を、そのころの僕はしていない。机につく時間が長くなっただけになる。


            *


 小柳は、その日から四月のうちにもう何度か手を挙げた。


 どれも、答えを言うためではない。分からないところを言うために挙げている。


 挙げるときに、まわりを見ない。前だけを見て、まっすぐ上げる。


 中学で、彼女がそうしているのを見た覚えが無い。同じ学年に三年いた。見ていないだけかもしれない。


 小柳は、僕の作った並びでは上のほうにいる。当てられてから答えるまでが速い。


 ノートは取る。取り方が違う。黒板をそのまま写さないで、二行に一行くらいしか書いていない。


 書かないところが何なのかを、横から見て確かめようとした。確かめられなかった。


            *


 携帯を持たされたのは四月の初めだ。


 高校が遠いから、というのが理由になる。中学のあいだは要らない、と言われていたのと、同じ人が言っている。


 番号を登録したのは三つだ。家と、母と、父になる。


 友達の番号は入っていない。入れる場面が無かった。


 母から一日に一回、帰りの時刻を確かめる連絡が来るようになった。


 文はほとんど同じになる。いま出た、と送ると、気をつけて、と返ってくる。


 返ってくるまでが速い。速いということは、待っているということになる。


 待っている、とは書いてこない。


            *


 予備校は五月から通うことになった。


 座卓に置いてあった二社ぶんの封筒の、片方に決まった。決めたのは母だ。


 週に二回で、火曜と金曜になる。七時から九時半までだ。


 僕は表の空欄にそれを書き入れた。鉛筆で書いて、消した跡の上に重なる。


 書き入れたところだけ、字が少し濃くなった。


 予備校の教室は、塾のより広いらしい。前に入る人数が、塾の倍くらいになるという。


 席は自由で、来た順に前から埋まると聞いた。どこに座るかを、僕は行く前から決めていた。


            *


 母は一度も、東雲でも一番を取りなさいとは言わなかった。


 入学してから一か月、順位の話が家で一度も出ていない。


 出ないのは、出す材料がまだ無いからだと思う。紙が無いあいだは、話も起きない。


 紙が出れば起きる。それは分かっていた。


            *


 千尋は六年生で、修学旅行がある。行き先の話を、夕飯で何度もした。


 僕が中学のときに行った先と同じだ。同じだと言おうとして、やめた。


 言うと、僕の話になる。千尋の話が僕の話に変わる場面を、僕は何度か見ている。


            *


 実力テストの予告は、四月の終わりに出た。


 五月十四日と十五日の二日間で、五教科ある。


 範囲は、中学の全部と、四月にやったところまでになる。


 中学の全部、という言い方が、その紙に書いてあった。


 その四文字を、僕は何度か読み直している。読み直した回数は覚えていない。


            *


 連休は五月三日から六日まであった。


 どこへも行っていない。父は二日とも仕事だった。千尋は友達の家へ行っている。


 僕は表のとおりにきちんと動いた。四月に自分で書いた表だ。


 書いたとおりに動けることを、そのころは何とも思っていない。


 動けない日があるということを、まだ知らなかった。知らないので、そこに備えもしていない。


            *


 三百二十人が、どこかの中学から来ている。


 どこの中学にも一番がいた。この学年に、一番だった人が何人いるのかは分からない。


 分からないので、全員がそうだと思っておくことにした。


 思っておくのと、紙に出るのとは別のことだった。


 別だと分かったのは、五月になってからになる。

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