第047話 袖を折らない
東雲の制服は、二中のとほとんど同じ形だった。
黒の詰襟で、ホックが一つ。違うのは襟の内側に入る校章と、ボタンの模様だけになる。
同じものを、もう一度買うことになる。
同じものをもう一度買うのが当たり前だと、そのころは思っていた。
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採寸は三月十八日だった。九時からで、場所は東雲の体育館になる。
通知書には体育館としか書いていない。時刻は母が鉛筆で書き足していた。
八時二十分に家を出た。歩いて行ける距離ではないので、母が車を出す。
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体育館に長机が六つ並んでいた。
制服の店、体操着の店、鞄と靴の店、教科書、それと事務の受付だ。順番に回る形になる。
順番は来た順で、番号ではない。九時に着いて、うちは十一番目になった。
床にビニールシートが敷いてある。上履きのままで上がるので、シートを踏む音が体育館じゅうでしている。
うちの番が来たのは九時五十分になる。
待つあいだ、母は入学のしおりを読んでいた。読み終わるまで、途中で顔を上げなかった。
僕は床のシートの継ぎ目を数えていた。体育館の横方向に七本ある。
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制服の店の人は、女の人だった。
メジャーを首にかけている。年は母と同じくらいに見えた。顔は覚えていない。
覚えているのは、メジャーを引き出すときの音と、数字を読み上げる声の高さだ。
着丈、肩幅、裄丈、胸囲、胴回り。五つを順番に測って、そのつど声に出す。
書き取るのは横にいる別の人だった。書き取ってから、確認のためにもう一度読む。
同じ数字を二回聞くことになる。
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身長は百七十一だった。
中学に入ったときが百五十二になる。三年で十九伸びたことになる。
伸びた年ごとの数字も、僕は言える。いちばん伸びなかったのが中三の年だ。
その年に、走るのをやめている。関係があるのかどうかは分からない。
体重も測った。言われたはずだが、その数字が出てこない。
身長は出てくるのに、体重だけが抜けている。抜けているのに気づいたのは、いま書いていてになる。
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母が店の人に訊いた。
「まだ伸びますか」
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店の人は、もうそんなには、と答えた。
高校の三年間で伸びるのは、多くて三センチくらいだと言う。伸びない子のほうが多いらしい。
だから、高校の制服は身丈で買う。大きめに買って折る、というやり方をしない。
中学のときは折った。三年で伸びるから、と母が言っていた。実際に伸びた。
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母は、そうですか、と言った。
それから、じゃあ、いまの寸法で、と言った。声の高さは変わっていない。
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体操着の店では、名前を入れるかどうかを訊かれた。
刺繍で入る。ひとつ四百円で、五枚だと二千円になる。
母は頼んだ。頼むのに、少しも迷わなかった。
中学のとき、名前は母が縫った。ゼッケンも母が縫っている。四隅で玉止めを二回する縫い方だ。
六年ぶん縫って、そこでやめたことになる。
やめた理由を、僕は訊いていない。訊く場面が無かった。
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教科書の机では、注文票を出すだけだった。品物は四月二日に取りに来る。
冊数は二十三冊になる。辞書は別だ。英和と和英と古語の三つを買う。
どれにするかは母が決めた。塾でもらった一覧に載っているものと同じにした。
鞄と靴の机では、指定のものと自由なものが選べた。母は指定のほうにする。
理由は言っていない。指定のほうが、たぶん考えなくて済む。
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合計は六万八千四百円だった。
内訳を、母はその場でちゃんと紙に書いてもらった。制服が三万九千で、体操着が一万四千、鞄と靴で一万五千になる。
入学一時金の八万四千円は、これとは別に納める。
母は一度も、高いとは言わなかった。
二中のときも言っていない。塾の月謝のときも、講習の追加のときも出ていない。
言わないので、いくらが高いのかを、僕は知らないまま来た。
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体育館の反対側で、同じ学年の子が何人か固まって話していた。
同じ中学から来た子どうしだ。制服が同じなので、どこから来たかがまだ分かる。
四月になると、みんな同じ制服になる。そうなると分からなくなる。
小柳はいなかった。別の日に来たのだと思う。採寸は三日に分かれている。
知っている顔は一つもなかった。二中から来る二十五人のうちの誰にも当たらない。
当たらない確率を、僕はその場で出そうとした。三日に分かれて、来る時間もばらばらになる。
出そうとして、途中でやめた。出しても使い道が無い。
やめたのは、たぶんその日が初めてになる。
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帰りの車で、母は内訳の紙を見ていた。信号で止まったときだけ見る。
見て、たたんで、鞄に入れた。財布ではないほうだ。
「四月から、朝が四十分早くなるからね」
母はそう言った。数字のほうが先に出る。
入学のしおりに、一日の時程が載っている。
朝のホームルームが八時三十五分で、六時間目が終わるのは三時十五分だ。
二中より、朝が早い。終わるのは遅い。
家からは電車で二駅と、そこから歩くぶんがある。
合わせて、朝は四十分早く出ることになる。母が言ったのは、その数字だ。
しおりを読んで出した数ではない。読む前に、母はもう言っていた。
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制服が届いたのは四月三日だった。
夕方に取りに行った。畳んで、袋に入って、上から透明なカバーがかかっている。
家で出すと、糊のにおいがした。新しい布のにおいだと思う。二中のときも同じにおいがした。
においだけは、三年たっても同じだった。
畳み方はきちんとそろっていて、袖のところに厚紙が入っている。厚紙は捨てた。捨てたのは僕だ。
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その夜、母が裁縫箱を出してきた。
八時すぎだ。三年前と同じ時刻になる。
裁縫箱は木の箱で、二段になっている。上の段に糸切りばさみと針山があって、下に布と糸が入る。
母がそれを出すのは、年に何度もない。前に出したのは、二年生の夏に袖を伸ばしたときになる。
しつけ糸を取る。肩と、上着の後ろの裾と、ズボンの裾だ。糸切りばさみで途中を一度切って、両側から引き抜く。
引き抜くときに、布に細かい穴が並んで見える。しばらくすると分からなくなる。
糸が布から抜けるときの音は、短くて低い。一本につき一度だけ鳴る。
十一回鳴って、それで終わった。
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三年前は、袖のしつけだけが残った。
折ってあったからだ。折ってあるところは、伸ばすときに取ればいいことになる。
その一本を取ったのは、二年生の夏になる。母が取った。
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今度は、袖にしつけが無い。
折っていないので、初めから留めるところが無い。
母は袖のところで一度手を止めた。止めてから、ほかのところへ動いた。
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取り終わってから、母は上着を持ち上げて、両方の袖を見た。
左を持って、それから右を持つ。持ち替えるときに、いったん膝の上に置いた。
袖の口を、指で一度なでた。折る形をつくるときの手つきに近い。折らないので、そこで止まる。
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まだ伸びるかも、と言おうとした。
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抜いた糸は、まとめて新聞紙の上にあった。
数えると十一本ある。三年前は十四本だった。袖のぶんと、折り返しのぶんが無い。
母はそれを新聞紙ごと丸めて、そのまま捨てた。
捨てるところを、母は見ていない。丸めながら、もう次のことを考えている顔をしていた。
僕は三本だけ取った。取ったことは言っていない。
机の引き出しに入れた。順位の紙の下だ。写真の余りと、祖母の千円札と、同じところになる。
入れてから、なぜ取ったのかを考えた。考えても出てこない。
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二中の制服は、その週のうちに袋へ入った。
捨てるのか、取っておくのかを訊いていない。玄関の物入れに入ったのは見ている。
三年着たものが、袋一つになる。袋の口は結んでいなかった。
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制服が届いてから入学式まで、五日ある。
その五日のあいだ、上着は部屋の壁に掛けてあった。ハンガーで、カーテンレールの端にかける。
朝と夜に、そこにあるのを見ることになる。見るだけで、触っていない。
千尋が部屋の前を通るときに、上着のほうを見ていった。
着てみていい、とは訊かない。訊かれたら貸したと思う。
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着てみろ、とは言われなかった。
自分で着た。母が一歩下がって見る。それから、少し右へ動いて、もう一度見た。
冷蔵庫の前で貼り紙を見るときと、同じ動きになる。
姿見は玄関にある。そこでも見た。
肩のところが、まだ体に合っていない。合っていないというより、余っている。
余っているのは伸びるからではない。標準の型がそういう形だと、店の人が言っていた。
言われたことは正確に覚えている。覚えていても、鏡の中では余って見える。
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「折らなくていいのね」
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母はそう言った。言ってから、しばらく袖を持っていた。




