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自慢の息子  作者: 智珠
第三部 合格

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第046話 よかったねえ

 父方の実家へ行ったのは三月二十一日だった。


 春分の日で、父が休みになる。彼岸の中日でもある。


 九時十分に家を出て、着いたのは十時五十分になる。高速を使わない道で、一時間四十分かかる。


 行きの車でラジオはつけなかった。父の車は、いつもそうだ。


 途中で一度だけ停まった。十時十分にサービスエリアへ入って、十五分いた。


 千尋がソフトクリームを食べた。僕は何も買っていない。母が父に缶のコーヒーを買って渡した。


 父は運転席に座ったまま飲んだ。降りていない。


            *


 家は平屋ではない。二階がある。


 二階は使っていない。父が高校まで使っていた部屋が上にあるらしい。


 上がったことは一度も無い。上がっていいと言われたこともない。


 階段の三段目に、新聞をまとめたものが二つ積んであった。上がらない前提で置いてある。


            *


 祖母は八十三になった。


 前に来たのは小学五年の盆だから、四年半ぶりになる。あいだに来ていない。


 母が、忙しかったから、と言ったことがある。何が忙しかったのかは言わない。


 玄関で見たときに、背が縮んでいた。目の位置が僕の肩より下にある。四年半前は、まだ同じくらいだった。


 髪は白い。生え際のところだけ、少し色が残っている。染めるのをやめたのがいつかは知らない。


 手を見た。指の関節が太い。爪は短く切ってあって、両手とも同じ長さにそろえてある。


            *


 仏間の柱時計が鳴った。


 十一時に十一回鳴る。鳴り終わるまでに二十秒くらいかかった。


 その時計は、正しい時刻より四分進んでいる。四年半前もそうだった。


 合わせるのは祖父の役だったらしい。祖父は八年前に死んでいる。


 進んだままの時計を、誰も直していない。直さないほうがいいと決まっているわけでもないと思う。


            *


 仏壇の位牌は四つのままだった。


 一つだけ新しい。四年半で増えていない。


 彼岸の中日なので、花が新しく入っていた。菊が三本と、白い小さいのが何本かある。


 水は替えたばかりで、茎の切り口が濡れていた。


 供えてあるのは、ぼたもちと、饅頭の箱と、母が持ってきた最中になる。最中は四年半前と同じ店のものだ。


 母はその箱を、祖母に渡すのではなく、先に仏壇へ上げた。上げてから、手を合わせる。


 順番を、母はきちんと守る。教わった覚えがあるのかどうかは知らない。


 千尋が鈴をたたいた。二回たたいた。前に来たときと同じ回数になる。


 母が線香を上げた。父はそのあとに上げる。順番が決まっている。


            *


 母が鞄から封筒を出した。


 合格通知書だ。持ってきていたことを、僕はそのときに知った。


 祖母は封筒から紙を出して、腕を伸ばして持った。近くだと読めないらしい。


 しばらく見てから、こう言った。


 「番号だけなのねえ」


            *


 名前が入っていないことに、祖母は気づいた。


 僕が三月十四日に気づいたのと同じところだ。


 気づいてから、祖母は紙を封筒に戻した。母のほうへ返して、それから僕を見た。


 いや、僕を先に見たのではない。


            *


 祖母は父の顔を見た。


 それから僕のほうへ動いた。


 「よかったねえ」


            *


 父は何も言わなかった。


 座り方は前と同じだ。壁に背中をつけない。テレビの正面ではなく、少し横に座る。


 膝の上の手が、二回動いた。膝を軽くたたいて、また止まる。


 テレビは点いていた。三月なので高校野球ではない。昼前の番組で、音は小さい。


            *


 昼はぼたもちが出た。


 祖母が朝から作ったものだ。あんこのと、きなこのと、ちゃんと二種類ある。


 大きさがそろっていない。あんこのほうが一つだけ小さかった。その一つを祖母が自分で取った。


 千尋が三つ食べた。僕は二つだ。母は一つで、父は食べなかった。


 父は茶だけ飲んだ。二杯目を断らなかったのは、その日が初めてになる。


            *


 台所と仏間のあいだを、祖母はその日に九回往復した。数えた。


 立つときに、いったん膝へ手をつく。ついてから、二拍おいて立つ。


 九回のうち、こちらが手伝いに立ったのは零回になる。母が立つので、僕は座っていた。


 座っていることを、その日は何とも思っていない。


            *


 祖母が千尋に言った。


 「千尋ちゃんは、かわいくなったねえ」


 千尋は、ありがとう、と答えた。すぐ答えた。


 千尋に勉強の話は出ない。四年半前もそうだった。


 祖母は千尋の髪を触って、それから手を離した。触っている時間が三秒くらいある。


 僕の髪に祖母が触ったことは、たぶん一度も無い。たぶん、というのは覚えていないからだ。


 同じ部屋で、片方には学校の話が出て、片方には出ない。


 出ない側のほうが、その日は楽そうに見えた。見えただけで、本人に訊いていない。


            *


 その日、祖母は父の昔の話をしなかった。


 四年半前は出た。中学で何番だったとか、学年で一人だけ何かに受かったとか、そういう話だ。数字がいくつも出てきた。


 この日は一つも出なかった。


 理由は分からない。話す相手が、その日は別にいたからかもしれない。


 父の話が家の外で出るのは、この家に来たときだけになる。その一回ぶんが、その日は消えた。


            *


 昼のあとに、僕は仏間に一人でいた。


 母と祖母は台所にいる。父は庭に出た。千尋は縁側で猫を探していた。この家に猫はいない。前に一度いたらしい。


 仏間は八畳ある。畳のへりの模様が、四年半前と同じだ。一枚だけ色の違うところがある。


 柱に、日めくりを留めていた金具だけが残っている。紙は掛かっていない。


 外したのがいつかは分からない。金具のところだけ、柱の色が濃く残っていた。


 壁の額を、そこで初めてきちんと見た。


 二つある。父の賞状だ。前に来たときは、中学と高校のものらしい、としか書いていない。


 近くで見ると、字が読める。


            *


 下のほうの額に、学校の名前が入っていた。


 県立東雲高等学校。


 日付は昭和五十九年三月だ。父はその年に十八になる。


 賞状の中身は皆勤に近いもので、成績のものではなかった。


 紙は黄色くなっている。字の色が抜けていて、判のところだけ赤い。ガラスの下半分に拭いた跡があった。手の届くところまでだ。


            *


 父は東雲を出ている。


 そのことを、僕は十五歳のその日まで知らなかった。


            *


 台所から祖母が出てきて、茶を置いた。置きながら、額のほうを見て言った。


 「隆と同じところねえ」


 それだけ言って、台所へ戻った。


 言い方に力が入っていない。天気の話をするときの高さだった。


            *


 知らなかった、と言おうとした。


            *


 庭に父がいた。


 縁側から見える。さるすべりは葉が落ちていて、枝だけになっている。夏に来たときは花が縁側まで落ちていた。


 父は木のほうを向いて立っていた。何もしていない。手も動いていない。


 三分か四分そこにいて、それから戻ってきた。


            *


 せっかく来たのだから泊まっていけ、という話は出なかった。


 四年半前も出ていない。うちがこの家に泊まったことは一度も無い。


            *


 帰りは三時に出た。


 車の中で、父がラジオをつけた。


 行きはつけていない。四年半前の帰りも、その前もつけていない。


 交通情報が流れて、そのあと音楽になった。曲は最後まで流れた。


 行きより速度が出ていた。速度計は見ていない。カーブでの体の傾き方で分かる。


 誰も話さなかった。千尋が寝た。


            *


 同じ高校だったの、と訊こうとした。


            *


 母は一度も、父の高校の話をしなかった。


 隠していたわけではないと思う。話に出る場面が無かっただけだ。


 志望校を決めるときも出ていない。三者面談でも、塾の面談でも出ない。


 二中から東雲へ何人入ったかという紙は、母が持っていた。その紙にも、父のことは載っていない。


            *


 家に着いたのは五時前になる。


 祖母がくれた千円札が、僕と千尋に一枚ずつあった。四年半前と同じ額だ。


 夕飯は七時半だった。父はその夜、通知書のことを何も言わない。


 千尋は千円札を財布に入れた。僕は机の引き出しに入れた。


 引き出しには順位の紙が入っている。その下に、写真の余りと、千円札が並んだ。


            *


 賞状のことを、僕は家で言っていない。


 父にも、母にも言わなかった。訊けば答えたと思う。


 訊かなかったのは、答えを聞いたあとに、次の質問が出てくるからだ。


 次の質問がどういうものかは、そのときは分かっていない。分かっていないのに、来ることだけ分かった。


            *


 その日、祖母が僕を名前で呼んだかどうかが出てこない。


 秀真くん、と呼ばれた記憶はある。それが前に来たときのものか、その日のものかを分けられない。


 四年半あいだが空くと、そこが混ざる。


 混ざったところを、僕は無理に決めないでおいた。


            *


 祖母は、僕のほうを先に見なかった。


 紙を返して、父を見て、それから僕へ動いた。


 順番があることに、その日まで気づいていない。


 祖母が見た順番を、僕は覚えている。

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