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自慢の息子  作者: 智珠
第三部 合格

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第045話 三百八十一回目

 卒業式は三月十九日だった。水曜日になる。


 合格発表の五日あとだ。だから、その日は全員の行き先が決まっている。


 決まっていない人がいたのかどうかは知らない。訊く場面が無かった。


            *


 朝は七時二十分に家を出た。ふだんと同じ時刻になる。


 制服は三年着た。袖は二年生の夏に伸ばした。伸ばしたあとの折り目が、まだ線になって残っている。


 入学のときに母が取ったしつけ糸のうち、袖の一本だけが二年ぶん残っていたことになる。


 裾も伸ばした。ズボンのほうは、伸ばしても足りなくなって、二年の冬に買い直している。


 上着だけが最初のままだ。三年着ると、肘のところが少し光る。


            *


 式は十時からだった。九時二十分に体育館へ入る。


 椅子は出席番号順に並ぶ。受験番号ではない。三年二組の、後ろから四番目だった。


 体育館は寒い。ストーブが二台入っていたが、二百四十人ぶんの空気は温まらない。


 床が冷たいのは上履きごしに来る。足の指を動かしていると、少しましになる。


            *


 保護者は後ろの席にいた。


 母は右のほうにいた。入場のときに見えた。父は来ていない。仕事だ。


 小学校の卒業式には、父は途中から来ている。中学は来なかった。


 来ない理由を、僕は聞いていない。母も言わない。


            *


 式次第は紙で配られた。


 開式の言葉、国歌、卒業証書授与、式辞、送辞、答辞、合唱、校歌、閉式の言葉。九つある。


 卒業証書授与に、いちばん時間がかかる。二百四十人を一人ずつ呼ぶからだ。


 一人あたり四秒くらいで進む。二百四十人で十六分になる。実際には十九分かかった。


 差の三分がどこで出たのかは、そのときには分からなかった。


            *


 名前は担任が呼ぶ。


 三年二組は佐久間先生だ。名簿を持って、マイクの前に立つ。


 声が大きくない人なので、マイクの音量が上がっていた。上がっているぶん、息の音まで入る。


 呼ばれたら、はい、と返事をして立つ。立つだけで、証書は代表が受け取る。


 全員ぶん渡すのは、時間の都合でやらないことになっている。


 返事はしっかりしろと、前の日の予行で言われていた。声の大きさまでは言われていない。


 予行は三月十七日の午後にあった。二時間かかって、そのうち一時間は立ったり座ったりの練習になる。


            *


 「高梨秀真」


            *


 はい、と返事をして立った。


 呼ばれてから、少し間があった。


 前の人のときには無かった間だ。名前を読んでから、次の名前へ行くまでのあいだが、そこだけ長い。


            *


 同じ間が、ほかにも二回あった。


 どちらも僕より後ろの番号の人だ。名前は書かない。


 三十六人の中で、間があったのは三人になる。僕を入れて三人だ。


 その三人に何か共通するものがあるのかを、僕はそのあと探した。


 部活も、成績も、進む先もばらばらだった。共通するものは見つからない。


 差の三分は、たぶんそこで出たのではない。三分は長すぎる。


            *


 合唱を三曲歌った。


 三曲歌ったことは覚えている。曲名が出てこない。


 指揮は二組の子がやった。二年生のときは僕だった。三年では手を挙げていない。


 ピアノは音楽室のものではなく、体育館の古いほうを出してある。音が少し下がっていた。


 下がっているのが分かる人は、あの体育館に何人いたのかと思う。


            *


 答辞のあいだに、後ろのほうで泣いている人がいた。


 保護者の席のほうだ。声は出ていない。鼻をすする音が、間隔をあけて聞こえる。


 母ではない。母の音は分かる。三年間、家の中でその音を聞いたことは無いのに、分かる。


 母は式で泣かなかった。


 小学校の卒業式でも泣いていない。そのときのことは覚えている。


 五日前には泣いた。掲示板の前で、声を出さずに泣いた。


 式では泣かず、番号の前で泣く。そのことを、僕はその日に並べて考えていない。


 並べたのは、ずっとあとになる。


            *


 式は十一時十分に終わった。


 退場のときに拍手が続く。体育館の拍手は、天井が高いので輪郭が消える。


 一人ずつの音ではなく、面のような音になった。


 外に出ると風があった。三月の風で、まだ冷たい。


 昇降口を出たのは十二時十分だ。校門のところで写真を撮っている家族が何組もいた。


 母が携帯を出して、校門で一枚撮った。


 五日前には、鞄から出しもしなかったものだ。


 どちらの日に撮るかを決めているのは母で、その決め方を僕は知らない。


            *


 教室に戻って、最後のホームルームがあった。


 黒板に、卒業おめでとう、と書いてある。書いたのは学級委員だ。三年生では、僕は学級委員をやっていない。


 やらなかった理由は、推薦されなかったからになる。推薦されなかった理由は分からない。


 佐久間先生が、十分だけ話した。


 高校へ行っても、という話ではなかった。持ち物の確認と、この教室の鍵をいつ返すかという話だ。


 最後に、元気でな、と言った。


            *


 昇降口で、先生は一人ずつに同じことを言っていた。


 元気でな、を三十六回言うことになる。


 僕にだけ言われたのは、十一月の踊り場のひとことだけだ。


 あれ以降、先生は一度も同じことを訊いていない。


 訊かれなかったので、答える場面も来なかった。


            *


 文集はその日に配られた。


 僕は志望校のことを書いた。四百字ある。何を書いたかは覚えている。


 読み返したことは一度も無い。いまも実家の棚にある。


 アルバムも配られた。写真の中の僕は、どのページでも同じ顔をしている。


 同じ顔をしているのは、たぶん、写るときの決まりを自分で作っていたからだ。


 口を閉じて、目は開けて、顔は動かさない。願書の写真と同じ形になる。


 決めた覚えが無い。決めた日も出てこない。出てこないのに、三年間ずれていなかった。


            *


 廊下で航に会った。


 昇降口へ行く途中だ。向こうが先に気づいた。三年間で、向こうが先の日のほうが多い。


 手を上げる。肩から先だけを一度上げる、あの上げ方だ。


 「よう」


 こちらも、よう、と返した。


            *


 どこ行くの、と訊こうとした。


            *


 航は工業高校へ行くらしい。


 らしい、というのは、本人から聞いていないからだ。ほかの子から聞いた。


 聞いたのは二月で、そのあと一度も確かめていない。


 確かめる場面はいくらでもあった。廊下で会うたびにあった。


            *


 体育館の後ろに、航の家の人はいなかった。


 小学校の運動会のときも、いなかった。二回とも僕は見ている。見て、そのままにしてある。


 いなかったことを、僕は航に言っていない。言うようなことではない。


            *


 三年間で廊下を通った回数を、僕は前に計算している。四百回くらいだった。


 そのうち、よう、で終わったのが三百八十回になる。


 あの計算をしたのは三年の四月だ。あれから一年ぶん通っている。だから四百回では足りない。


 足りないのに、僕はその日の一回を三百八十一回目と呼んでいる。


 正しくない。正しくないと分かったうえで、そう呼んでいる。


 最後の一回に番号が付いていないと、置き場所が作れない。


            *


 証書の筒は、家の棚の上に置かれた。


 小学校のがもう一本ある。並べて置くと、太さが少し違う。中学のほうが太い。


 中を見ていない。小学校のは十年以上あとに見た。中学のは、まだ見ていない。


            *


 家に着いたのは十二時四十分になる。


 昼は家で食べた。母が朝のうちに用意していた。


 ちらし寿司だった。運動会のときと、正月と、卒業式に出るものになる。


 千尋が二切れ食べた。母は自分のぶんを食べてから、僕の皿にもう一杯よそう。


 多いとは言わなかった。せっかく作ったものを残すのは、うちでは無い。


 その日、母は式のことを何も言わなかった。


 式次第の紙は、鞄から出して、座卓の上に置いてあった。母が置いたのだと思う。


            *


 母は一度も、中学の友達のことを訊かなかった。


 三年間、一度もだ。誰と話したとか、誰と帰ったとか、そういう話は家で出ていない。


 訊かれないので、こちらからも出さなかった。出さないでいると、名前が家の中に入らない。


 入らなかった名前がいくつあるのかを、僕は数えていなかった。


 名前が入らないことを、そのころは当たり前だと思っている。


            *


 夕飯は六時半だった。父は帰ってこなかった。


 その夜、台所でペンの音がした。短い。二行ぶんだと思う。


 寝たのは十時十分になる。三年間そうしてきた時刻で、その日も動かさなかった。


            *


 その日から、僕は航と会わなくなった。


 隣に住んでいる。壁一枚をはさんで、通路の向こうにいる。


 通路を通るのはゴミの日だけで、その日に航が出てくる確率は低い。


 高校が違うと、出る時刻も帰る時刻も変わる。変わると、重ならなくなる。


 ゴミの日の朝に、玄関の横の自転車を見る。二台のままだ。片方が小さいのは弟のになる。


 三年前から、その二台は入れ替わっていない。


 よう、と言った。それが最後だとは、どちらも思っていない。

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