第003話 ちがう家のにおい
うちと大山さんの家は、ブロック塀をはさんで並んでいた。
塀は僕の背より高い。上のほうに隙間が四つ空いていて、そこから向こうの庭が見える。物干し竿が二本あって、洗濯物は夕方まで出しっぱなしだった。雨の日でもそのままのことがある。
二つの家は同じ年に建っている。同じ工務店が四軒まとめて建てた区画で、間取りも似ていた。うちは玄関を入って右が階段、大山さんの家は左だ。左右が逆になっているだけで、あとは同じらしい。
家と家のあいだの通路は、大人が横向きで通れるくらいの幅しかない。子どもなら普通に歩ける。そこを通って向こうの庭へ行けることを、僕は五歳のときに知った。
二階の窓が向かい合っている。僕の部屋と、航の部屋だ。距離は五メートルくらいで、カーテンを開けると航の顔があることがあった。
航はよく窓を開けて、僕を呼んだ。
「しゅうちゃん」
そう呼ぶのは航だけだった。幼稚園でも、親戚の集まりでも、僕は秀真くんか、高梨くんだ。しゅうちゃんと呼ばれると、返事をするまでに一拍かかる。
航は保育園に行っていた。朝は七時前に出て、帰るのは六時をすぎる。僕の幼稚園はバスが九時に来て、二時には帰ってくる。同じ年に生まれて、家が隣で、行く場所が違った。
*
十月の土曜日だった。
書道は午前中に終わっていて、午後は公文までのあいだが空いていた。そういう日は月に一度か二度しかない。
庭に出ると、航が塀の向こうから顔を出した。何かの台に乗っているから、顔だけ見える。前歯が一本欠けていた。
「なにしてんの」
「なんもしてない」
「じゃあ来いよ」
*
大山さんの家の玄関は、うちより一段低い。
ドアを開けると、においが来た。
うちのにおいとは違う。うちは洗剤と、母が使っている柔軟剤と、夕方には味噌汁のにおいがする。それが層になっていて、玄関に立つと順番に来る。
航の家のにおいは、層になっていなかった。全部が一緒に来る。カップ麺のスープの残りと、たばこと、乾ききっていない洗濯物。それと、何かの薬のにおいが少しした。湿布かもしれない。
嫌なにおいではなかった。ただ、うちのにおいではなかった。
あとで気づいたことがある。うちのにおいは、母が毎日作っている。洗剤も柔軟剤も同じ銘柄が切れる前に買ってあって、台所の下の棚に予備が二つ並んでいた。においが一定だということは、誰かがそれを一定にしているということだ。
そこまで考えたのは、二十を過ぎてからだ。
「入る?」
航が訊いた。
僕は靴を脱がなかった。三和土に立ったままでいた。上がってはいけないと言われたことはない。訊いたこともない。
奥から音がした。テレビの音だ。うちのテレビより音が大きくて、昼の番組で人が笑っている声がずっと続いていた。
「兄ちゃん、しずかに」
小さい子の声がした。航の弟だ。三つ下だから、そのとき三歳になる。名前は母のほうが先に覚えていた。
「うるせえ」
言い方は乱暴だったが、航はすぐ奥へ戻った。弟の頭に手を置く。押さえつけるような置き方だったが、弟は笑っていた。それから航は麦茶をコップに入れて、弟の前に置いた。こぼしても大丈夫なように、床にタオルが敷いてある。
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航のお母さんは、昼間は寝ていることが多かった。
夜に働いていると、あとで母から聞いた。どこで働いているかは聞いていない。訊かなかった。
その日も奥の部屋のふすまが閉まっていた。航は玄関の靴を三足そろえてから、また僕のところへ来た。そろえ方が慣れていた。
「なんかやる?」
航はゲーム機を持っていた。何のソフトだったかは覚えていない。画面を僕のほうへ向けて、ここまで行った、と言った。数字が並んでいて、僕にはそれが何の数字か分からなかった。
「すごいね」
僕がそう言うと、航は画面を戻して続きをやりはじめた。すごいと言われても、顔が変わらない。うれしそうにもしないし、照れもしない。人にそう言われることに慣れていないのだと、いまなら分かる。
航の爪は伸びていた。手の甲にかさぶたが二つある。膝にも一つあった。上履きは白い部分がほとんど残っていない。僕の上履きは月に一度、母が洗う。日曜の朝に洗って、夕方には乾いている。
航の上履きを誰が洗うのかを、僕はそのとき考えなかった。
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幼稚園と保育園は場所が違うから、平日は会わない。
会うのは土曜と日曜と、夕方の三十分くらいだ。母が夕食を作っているあいだ、僕は庭に出ていていいことになっていた。塀ごしに話す。塀の向こうで航が何かをしていて、こちらから見えないこともある。
航はいつも何かを食べていた。給食も全部食べると言っていた。おかわりもする。園でいちばん早く食べ終わるのが自分だと、そこだけ自慢げに言った。
僕は幼稚園の弁当を残したことがない。残せないから残さない。それは自慢することではないと思っていた。
幼稚園のバスは八時五十分に角へ来る。クラスは二十四人で、弁当の時間は十二時からの三十分だ。食べ終わった子から外に出ていいことになっていて、僕はだいたい四番目か五番目に出る。いちばん早い子の名前は覚えている。
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その前に、二人で庭のどんぐりを拾った。
大山さんの家の庭には木が一本ある。何の木かは知らないが、秋になるとどんぐりが落ちる。細長いのと、丸いのと、二種類あった。
僕は拾いながら数えた。細長いのが十七個、丸いのが九個。それを地面に並べて、数を確かめてからポケットに入れた。
航は数えなかった。両手でつかんで、ズボンのポケットに突っ込んで、それで終わりだ。何個あるのとは訊かない。訊かれないので、僕も言わなかった。
航のポケットからは、どんぐりが二つ落ちた。落ちたことに航は気づかない。僕は拾って渡そうとして、途中でやめた。あとで自分のポケットに入れた。
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三時になった。
三時から公文の教室へ行く日だ。土曜は四時に出ても間に合うが、母は三時と決めている。
「もう行かなきゃ」
僕がそう言うと、航は顔を上げた。
「ふうん」
それだけだった。何で行くのとも、行かなきゃだめなのとも訊かない。僕が習い事で遊べないことを、航は一度もからかわなかった。ずるいとも、つまんないとも言わない。
「またあとでな。いいよ、待ってる」
待ってる、と航は言う。何を待つのかは言わなかった。
ごめん、とは言わなかった。
玄関を出るとき、航が棚の上の袋からチョコを二つ取って、僕の手に押しつけた。袋には四つしか残っていない。
「二つでいいよ」
「やるよ」
航はもう画面を見ていた。
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家に帰ると、母が玄関にいた。
僕の靴をそろえて、手を洗うように言った。それから、どこにいたのかと訊いた。訊き方は普通だった。
「航くんち」
母は少しのあいだ、何も言わなかった。
台所へ行って、水を出して、また止めた。
「秀真」
「うん」
「あの子とは、あまり遊ばないでね」
理由は言わなかった。
僕も訊かなかった。訊いてはいけない種類の言い方だと、そのときすでに分かっていた。
母は理由を言わなかった。言えない理由があったのだと思う。
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もう一つ、母が言ったことがある。
「それと、ちゃん付けはやめなさいって、言っておいて」
しゅうちゃん、のことだ。
僕は言わなかった。航に一度も言っていない。
言わなかった理由も、そのときは自分で分かっていなかった。
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次の週、母が門の前で大山さんのお母さんと会った。
僕は母のうしろにいた。二人は三十秒くらい話した。母はいつもより高い声で、こんにちは、と言う。それから、航くんいつもありがとうございます、と続けた。
大山さんのお母さんは、はい、と言って笑った。歯が見えた。目のところは動かなかった。
二人はそれで別れた。母は家に入ってから、ごみ袋の口を結び直していた。もう結んであったものを、もう一度結んだ。
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夜、僕は自分の部屋でプリントをやっていた。
向かいの窓に明かりがついている。九時をすぎても消えなかった。十時になっても、まだついていた。
航の家は、夜に電気がついている時間が長い。うちは十時前に二階が暗くなる。
そのことを、僕はその夜、べつに何とも思わなかった。
チョコは二つとも机の引き出しに入れた。食べたのは次の日だ。
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風呂に入って出てくると、まだ手のひらにあの家のにおいが残っていた。
石鹸で洗ったのに残っている。たぶん手ではなくて、服のほうについていたのだと思う。
その夜のうちに、においは消えた。次に嗅いだのはいつだったかを覚えていない。
僕はそのにおいを、うちの中で嗅いでいた。
うちのにおいと混ざらなかった。




