第002話 六歳の場面
公文の教室はマンションの三階にある。その週の火曜日、一階のエレベーターが止まっていた。
扉に紙が貼ってあった。印刷された紙で、赤い字が一行ある。点検のため停止しています、と書いてあった。母はそれを読むと、僕の手を引いて階段のほうへ歩き出した。
階段の下まで来たとき、外から男が入ってきた。
紺色の作業服。胸に白い糸で名前が縫ってある。肩から布の袋を提げていて、その中で金属のぶつかる音がした。袋の口からスパナの柄と、白い手袋の指が出ていた。
男は扉の前に立った。手の甲に汗で寝た毛があって、爪の間が黒かった。
いちど、周りを見た。誰もいないことを確かめる目だった。僕は郵便受けの柱の陰にいたから、たぶん数に入っていない。
ポケットから三角の頭のついた鍵を出して、扉の横の穴に差す。閉まっていた扉が横に開いた。
箱がなかった。
上のほうから太い縄のようなものが何本も垂れている。壁は塗っていない灰色で、油のにおいがした。台所の油とは別のにおいだ。
上のほうで、金属がこすれる音がしていた。ずっと同じ高さの音で、止まらない。エレベーターが動いていないのに、上では何かが動いていた。
男はそこへ体を入れた。片足を先に入れて、それから残りを入れる。頭が下がって、暗いところに消えた。
「秀真、行くよ」
母は階段を三段のぼって振り返っていた。僕は動かなかった。母がもう一度、僕の名前を呼ぶ。二度目のほうが短い。
教室でプリントを二十枚やった。鉛筆の先が紙をこする音が、六人ぶん重なっていた。いちばん速いのは僕だ。丸をつけてもらって、時計を見たら七時十二分だった。
一階へ降りると、扉は閉まっていた。紙もはがしてある。母がボタンを押すと、上のほうで音がして、扉が開いた。中に明かりがついていて、床に白い模様があった。
僕たちは乗った。三階から一階まで、十秒くらいだ。
男はいなかった。
*
八月十四日は朝から日が当たっていた。
母は七時に起きて桃を洗った。箱に六つ入っている。二つを冷蔵庫に残して、四つを持っていくと言った。
「秀真、プリント持った」
僕は持っていた。祖父母の家でやることになっている。一日十枚のうち四枚を朝のうちに終わらせてあったから、残りは六枚だ。
玄関で靴を履いていると、隣の窓が開く音がした。航だった。まだ寝間着で、髪が片側だけ立っている。
「しゅうちゃん、どこ行くの」
「おばあちゃんち」
「ふうん」
航はそれだけ言うと、手を振ってから窓を閉めた。母は車のドアを開けながら、あの子はまだ寝ていたのねと言った。それ以上は言わない。
車は八時二十分に出た。父は運転席で音楽をかけなかった。千尋は僕の隣のチャイルドシートにいて、二歳の口からまだ言葉にならない声を出している。
高速に入ってすぐ、太ももの裏がシートに貼りついた。剥がすと音がした。千尋の首のうしろに赤い汗疹が三つ並んでいて、母は途中のサービスエリアでそこを拭いた。おむつも替えた。かかった時間は四分くらいだ。
母方の祖父母の家までは一時間十五分かかる。去年は道が混んで二時間だった。母はその話を、去年もおととしもしている。
着いたのは九時四十分だ。
平屋で、玄関を上がると仏壇の部屋がある。線香のにおいと蚊取り線香のにおいが混ざっていた。煙が目に入ると痛い。渦は三巻きぶん残っていた。扇風機が首を振っている。テレビは高校野球で、音を小さくしてあった。網戸に蛾が一匹とまっていて、日が暮れるまでそこにいた。
人は八人いた。祖父と祖母、伯母と伯父、父と母、僕と千尋。
着いてすぐ、祖父が僕と千尋を仏壇の前に座らせた。鈴を鳴らす。細い音が長く残って、消えるまでに七つ数えられた。祖父が線香を一本立てて、手を合わせろと言った。
僕は手を合わせた。誰に合わせているのかは知らない。訊かなかったし、あとで訊いたこともない。
千尋は鈴の棒を持ちたがって、母に取り上げられた。
伯母は母の姉で、三つ上になる。座ってすぐに僕の頭へ手を置いて、背が伸びたと言った。
「亮太は?」
母が訊いた。
「夏期講習。八月は日曜も行くのよ」
伯母はそう言って、麦茶のコップを僕の前に置いた。氷が三つ入っている。
亮太くんは伯母の家の子で、僕より三つ上だ。会うのは正月だけで、顔はあまり覚えていない。名前のほうは一年に何度も聞く。
母は台所で祖母と並んで素麺をゆでた。母は祖母の家の台所のどこに何があるか全部知っている。ざるも、大きい鉢も、めんつゆの棚も、迷わずに開けた。
伯父は素麺をすする音が大きい。三口ぶんを一度に取って、途中で息をつく。祖母がそれを見て笑った。父は麦茶を飲んでいた。ビールは一杯だけで、二杯目は断った。祖父とは、その日ひとことも話していない。
千尋がつゆをこぼした。母は手を伸ばして、それが畳に落ちる前に受けた。受けてから笑う。
「この子、こぼす天才なの」
伯母が笑った。祖母も笑った。母は千尋の口のまわりを拭いて、それから自分の指を拭いた。
伯母が去年の運動会の話を出した。母は箸を置いて、かけっこの合図をした先生のまねをする。ピストルを構える手つきと、腰の落とし方まで同じにした。あの先生は膝が悪くて、しゃがむのに二拍かかる。
伯父が麦茶をふきそうになった。祖母が声を出して笑った。母のまねは短い。二回はやらない。
千尋が母の袖を引いて、もう一回と言った。母は千尋の頭をなでて、ごはんが先と言う。
母は全部の場所を知っている。全部の順番を知っていて、一度も遅れない。隣の家の航の名前も、その下の弟の名前も、母は覚えていた。
台所からこちらへ来るとき、母の足音は日によって速さが違う。速い日と、そうでない日がある。その日は速くない。僕はそれを聞き分けられたけれど、聞き分けていることには気づいていなかった。
食べ終わってから、座卓の端でプリントを六枚やった。祖父が横からのぞいて、これは何年生のやつだと訊く。
「三年生の」
僕が答えると、祖父は台所のほうを見た。母は洗い物をしていて、こちらを見ていない。それでも聞こえていたと思う。
「六つでか」
祖父はもう一度そう言った。伯父が振り返る。
祖父が、秀真は何時に寝るのかと訊く。九時、と母が台所から答えた。
伯母が、ピアノはどうなのと訊いた。四月から通っている。まだ両手では弾けない。母が、片手ずつなら三曲できると答えた。僕は数えたことがなかった。数えてみたら、たしかにその数だ。
「かよちゃんの子だもんねえ」
祖母がそう言った。母は洗い物の手を止めない。水の音が続いていた。
二時ごろ、みんなが仏壇の部屋に集まった。桃が切って出される。母が持ってきたやつだ。伯母が皮をむいて、種のまわりまで落として、八人分に分けた。
僕の皿のひと切れだけ大きかった。母が伯母に何か言ったのを、僕は見ていない。
種のまわりの赤いところを、伯母は包丁で削いで捨てた。そこがいちばん甘いと祖父が言ったが、伯母は手を止めなかった。
その桃を食べているときだった。
「秀真くんは、大きくなったら何になりたいの」
伯母が訊いた。桃の汁のついた指を紙で拭きながら訊いた。
僕の手首にも汁が垂れる。腕の毛に沿って肘のほうへ動いていって、途中で止まった。
僕は答えた。
「エレベーターの中に入っていく人」
伯母の顔がそのままの形で止まった。口の端は上がったままで、目のところだけが動かない。祖父が僕を見た。伯父はテレビのほうを向いていたのに、首だけをこちらへ回した。
台所で水が止まった。
母が出てきた。手を拭きながら出てきて、僕の顔を見て、それから伯母の顔を見る。伯母の顔を見ている時間のほうが長かった。
扇風機の風が僕のところへ来て、また離れていった。テレビは三塁の走者がどうとか言っている。
母が笑った。
「そんなのじゃなくてね。お医者さんとか、そういうのでしょう」
伯父が笑った。伯母が笑った。祖父が笑って、祖母が僕の皿に桃をもう一切れ入れた。
僕も笑った。みんなが笑っていたから、笑った。
それから僕は言い直した。
「お医者さん」
「そうそう」
伯母が手をたたいた。祖父が、よくできましたと言う。伯父が、亮太も医学部を狙っているらしいから同じだなと言って、母のほうを見た。母は否定しなかった。
母は僕を直したのではない。あの場を、元に戻しただけだと思う。
母が僕の隣に座って、背中に手を置いた。手のひらが背骨の上にある。少し温かい。
「秀真、桃はもういい?」
僕はうなずいた。
スイカの前に、伯母が学校の話を出した。来年から一年生になる。どこの小学校かと訊かれて、母が学区の名前を答えた。伯母が、あそこは落ち着いているものねと言う。
祖母が、給食のある学校でよかったと言う。母は、うちは弁当のほうが安心だけどと言って笑った。その話はそこで終わった。
母は帰り支度をしながら、亮太くんの夏期講習は何時までなのと伯母に訊いた。九時までだと伯母が答える。母は、大変ねと言った。それから、うちもそのうちねと言って笑った。
伯母は、まだ早いわよと言う。母は返事をしないで、千尋のスタイを外していた。
三時半にスイカが出た。伯父が種を紙の上に並べていって、数を数えた。二十七個あった。千尋が畳の上で氷を指で押していた。麦茶のコップの中の氷だ。
四時に父が車を出す前、祖母が野菜の袋を母に持たせた。なすと、きゅうりと、青じそ。母は玄関で全部の名前を言って礼を言った。それから僕のサンダルを、そろえてから履かせた。
父は玄関で祖父に頭を下げた。下げた角度が、母よりも十度くらい深かった。行くぞ、とだけ言った。その日、父が僕に言った言葉はそれだけだ。
背中の汗が乾いて、シャツが冷たくなっていた。
その前に、伯母が千尋のほうを向いていた。
「千尋ちゃんは? 大きくなったら何になる?」
千尋は顔を上げた。口を開けて、あー、と言った。それだけだ。
伯母が笑った。母が笑って、この子はまだねと言う。祖母が千尋の指をおしぼりで拭いた。伯父はテレビのほうへ首を戻した。
誰も、千尋の答えを待たなかった。




