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自慢の息子  作者: 智珠
第三部 合格

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第043話 三月四日

 いまの仕事にも、始まる時刻がある。


 夜の点検は、館内から人がいなくなってから始める。決まっているのは終わりではなく始まりのほうで、そこは動かせない。


 始まるまでのあいだ、階段の下で待つ。座るところが無いので、立って待つ。


 待っているあいだに何を考えているのかは、自分でも分からない。あとで思い出せないだけなのかもしれない。


 鍵を受け取るのは十一時四十分だ。受け取ってから、扉を開けるまでに少し間がある。


 その間だけは、まだ始まっていない。


            *


 県立の学力検査は三月四日だった。火曜日になる。


 起きたのは六時十分だ。母に起こされた。ふだんより三十分早い。


 枕もとに服が畳んで置いてあった。前の日の夜には無かったので、寝てから置かれたことになる。


            *


 鞄の中に入っていたものを、僕は全部言える。


 受験票。鉛筆が五本。消しゴムが二つ。腕時計。カイロが二つ。上履きの袋。おにぎりが二つで、梅と鮭だ。


 鉛筆はちゃんと削ってあった。削ったのは僕ではない。削り方が、削り器を使ったときのまっすぐな形をしている。


 消しゴムは両方とも新品で、片方だけ紙のカバーを半分に切ってあった。切ると角が出る。角のあるほうが細かいところを消せる。


 上履きは新しいものではなかった。去年の六月に買ったほうが入っている。もう一足あるのは知っていた。


 腕時計は電池が替えてあった。替えた日を、僕は知らない。


            *


 朝は六時半に食べた。ごはんは、いつもより多く盛ってあった。


 十一月から二割落としていたものが、その日だけ元に戻っている。


 残さずに食べた。食べられたことを、僕はそのとき何とも思っていない。


            *


 父が車で送った。


 朝の七時二十分に出て、会場までは三十五分かかる。


 父の車の助手席に僕が座ったのは、その日が初めてだった。前は千尋と後ろに乗る。千尋がいない日でも後ろに乗っていた。


 音楽はかけない。ラジオもつけない。信号で止まるたびに、ウインカーの音だけがする。


 車の中は暖房が効きすぎていた。窓を少し開けたかったが、開けなかった。


            *


 会場は東雲高校だった。


 受ける学校で受ける。門の百メートル手前で車が止まった。そこから先は入れないことになっている。


 降りるときに、父が前を見たまま言った。


 「終わったら、母さんに電話しろ」


            *


 迎えは、と訊こうとした。


            *


 門から昇降口まで、人の列ができていた。


 同じ制服が固まって並ぶ。二中の紺は、ほかの学校のより少し明るい。列の中で、どこにうちの中学がいるかはすぐ分かった。


 上履きに履き替えるところで、床が濡れていた。前の人の靴が持ち込んだ水だ。


 スリッパの人が何人かいる。上履きを忘れたわけではなく、そういう学校らしい。


            *


 教室は三階の、廊下のいちばん奥だった。


 番号順に座る。僕の受験番号は三桁で、下二桁が四一になる。窓ぎわの、前から三番目だ。


 机に紙が貼ってある。番号だけが印字してあって、名前は無い。


 その日、僕の名前はどこにも出ていない。名前が要る場面が一度も無かった。


 受験票には写真が貼ってある。一月に撮ったものだ。角に学校の印が半分かかっている。


 同じ教室に三十人いた。三十人ぶんの写真が、それぞれの机の上に出ている。


 顔を見にいく人はいない。番号だけを見る。


            *


 教室にはストーブが入っていた。


 前のほうに一台ある。前の席は暑くて、後ろは寒い。僕のところはちょうど境目にあった。


 窓の外にグラウンドが見える。サッカーゴールが二つと、その向こうに校舎がもう一棟ある。


 時計は黒板の上にあった。秒針の音は聞こえない。動いているのは針を見れば分かる。


            *


 監督の先生が二人入ってきた。


 一人が前で、もう一人は後ろに立つ。後ろの人は、試験のあいだじゅう立っていた。座らない決まりなのだと思う。


 注意事項が読み上げられる。紙を見ながら読むので、区切りが不自然なところで入る。


 読み終わってから、始まるまでに三分あった。


 その三分のあいだ、誰も喋らない。咳が二回した。両方とも後ろのほうだ。


 前に立った先生は、始まってから机のあいだを一定の間隔で歩いた。片道が四十秒くらいになる。


 通るときに、紙の上へ影が落ちる。落ちてから抜けるまでが一秒ある。


 その一秒を、僕は数えていた。数えながら解いていたことになる。


            *


 九時ちょうどに、スピーカーから声がした。


 はじめ、という一言だけだ。


 同じ音を、部屋にいる全員が同時に聞く。聞いてから、紙をめくる音が一斉に起きる。


 その音は、一度きりで終わらない。速い人と遅い人がいるので、二秒か三秒かけて教室の中を移動する。


            *


 国語、数学、英語の順だった。


 一教科が五十分で、あいだに二十分ずつ休みが入る。


 解ける。解けるので、順番に埋めていく。埋めながら、残りの時間を見る。


 国語は八分余った。数学は三分。英語は十二分余った。


 余った時間に、見直しをする。見直しは二回までと決めている。三回目に入ると、合っているものを直す。


            *


 休み時間には、廊下に出る人と、出ない人がいる。


 僕は出なかった。出ると、知っている顔に会う。会うと、どうだった、と訊かれる。


 訊かれて答えると、そこで手応えが言葉になる。言葉になったものは、あとから動かせない。


 だから出ない。決めていたわけではなく、体のほうが出なかった。


            *


 昼は教室で食べた。


 おにぎりを二つ。梅を先に食べて、鮭をあとにした。順番に理由は無い。


 昼の五十分のあいだ、僕が何をしていたかは出てこない。


 食べたことは覚えている。食べ終わってからのことが無い。窓を見ていたのか、紙を見ていたのか、そこが抜けている。


            *


 午後は一時十分からだった。理科と社会になる。


 理科の三問目に、電流の問題が出た。回路の図があって、抵抗が三つ並んでいる。


 その一問だけは、いまでも図が出てくる。ほかの問題は、どの教科のどこにあったかも言えない。


 社会は最後で、終わったのは三時十五分だ。


            *


 やめ、という声がした。


 鉛筆を置く。置いてから、手を膝の上に乗せる決まりになっている。


 答案が後ろから前へ集められる。番号順なので、自分のが何枚目に入るかが分かる。


 集め終わるまで、二分くらいかかった。そのあいだ、誰も動かない。


            *


 教室を出るときに、後ろの席の人が椅子をきちんと戻していった。


 僕も戻した。前の人は戻していない。


 戻すか戻さないかで何かが変わるわけではない。当たり前のようにやってから、その動きを自分でやったことに気づいた。


            *


 校門の外で、小柳を見た。


 母親と一緒だった。迎えに来ていたらしい。


 鞄は小柳が自分で持っていた。母親のほうは手ぶらで、少し離れて立っている。


 目は合わなかった。合わせにいっていない。声はかけていない。


            *


 電話は駅の公衆電話からかけた。


 携帯は持っていない。持たせない家だ。理由は言われたことがある。中学のあいだは要らない、というものだった。


 十円玉を二枚入れた。母が二回目の呼び出し音で出た。


 終わった、と言った。


 母は、そう、と言った。それから、まっすぐ帰ってくるのね、と訊いた。


 訊かれたのは帰る時刻だ。手応えでも、できたかどうかでもない。


            *


 母は一度も、がんばりなさいとは言わなかった。


 朝も言っていない。行ってらっしゃい、と言っただけだ。


 小学校の運動会の朝と同じになる。あのときも、それだけだった。


 同じことを続けている人を、僕は一人しか知らない。


            *


 電車は四時六分のに乗った。


 座れた。窓の外はまだ明るい。三月に入ると、日の落ちる時刻が動きはじめる。


 カイロは使わなかった。二つとも鞄に入ったままだ。


 右手の中指の第一関節が痛んだ。鉛筆の当たるところだ。五教科ぶん書くと、そこが赤くなる。


 赤みは次の日には引いた。引いてから、皮が少し厚くなっている。厚くなったところは、そのまま残った。


 家に着いたのは五時前になる。母が玄関にいた。玄関にいるということは、音で分かってから出てきたことになる。


            *


 千尋が、どうだった、と訊いた。


 ふつう、と答えた。千尋は、ふうん、と言って、そのあと自分の話をした。六年生でクラス替えがあるかどうかの話だ。


 その話を、僕は最後まで聞いた。聞いていたのに、結論が出たかどうかは覚えていない。


 その夜、台所でペンの音がした。短い。三行ぶんだと思う。


            *


 終わったという感じが、その日には無かった。


 三年間やってきたものが一日で終わる。終わったのなら、何かが変わるはずだと思っていた。


 変わったのは、明日の予定が空いていることだけになる。


 空いているところに何を入れるかを、その日はまだ考えていない。


 終わったのは僕ではなく、時間のほうだ。

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