第043話 三月四日
いまの仕事にも、始まる時刻がある。
夜の点検は、館内から人がいなくなってから始める。決まっているのは終わりではなく始まりのほうで、そこは動かせない。
始まるまでのあいだ、階段の下で待つ。座るところが無いので、立って待つ。
待っているあいだに何を考えているのかは、自分でも分からない。あとで思い出せないだけなのかもしれない。
鍵を受け取るのは十一時四十分だ。受け取ってから、扉を開けるまでに少し間がある。
その間だけは、まだ始まっていない。
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県立の学力検査は三月四日だった。火曜日になる。
起きたのは六時十分だ。母に起こされた。ふだんより三十分早い。
枕もとに服が畳んで置いてあった。前の日の夜には無かったので、寝てから置かれたことになる。
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鞄の中に入っていたものを、僕は全部言える。
受験票。鉛筆が五本。消しゴムが二つ。腕時計。カイロが二つ。上履きの袋。おにぎりが二つで、梅と鮭だ。
鉛筆はちゃんと削ってあった。削ったのは僕ではない。削り方が、削り器を使ったときのまっすぐな形をしている。
消しゴムは両方とも新品で、片方だけ紙のカバーを半分に切ってあった。切ると角が出る。角のあるほうが細かいところを消せる。
上履きは新しいものではなかった。去年の六月に買ったほうが入っている。もう一足あるのは知っていた。
腕時計は電池が替えてあった。替えた日を、僕は知らない。
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朝は六時半に食べた。ごはんは、いつもより多く盛ってあった。
十一月から二割落としていたものが、その日だけ元に戻っている。
残さずに食べた。食べられたことを、僕はそのとき何とも思っていない。
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父が車で送った。
朝の七時二十分に出て、会場までは三十五分かかる。
父の車の助手席に僕が座ったのは、その日が初めてだった。前は千尋と後ろに乗る。千尋がいない日でも後ろに乗っていた。
音楽はかけない。ラジオもつけない。信号で止まるたびに、ウインカーの音だけがする。
車の中は暖房が効きすぎていた。窓を少し開けたかったが、開けなかった。
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会場は東雲高校だった。
受ける学校で受ける。門の百メートル手前で車が止まった。そこから先は入れないことになっている。
降りるときに、父が前を見たまま言った。
「終わったら、母さんに電話しろ」
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迎えは、と訊こうとした。
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門から昇降口まで、人の列ができていた。
同じ制服が固まって並ぶ。二中の紺は、ほかの学校のより少し明るい。列の中で、どこにうちの中学がいるかはすぐ分かった。
上履きに履き替えるところで、床が濡れていた。前の人の靴が持ち込んだ水だ。
スリッパの人が何人かいる。上履きを忘れたわけではなく、そういう学校らしい。
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教室は三階の、廊下のいちばん奥だった。
番号順に座る。僕の受験番号は三桁で、下二桁が四一になる。窓ぎわの、前から三番目だ。
机に紙が貼ってある。番号だけが印字してあって、名前は無い。
その日、僕の名前はどこにも出ていない。名前が要る場面が一度も無かった。
受験票には写真が貼ってある。一月に撮ったものだ。角に学校の印が半分かかっている。
同じ教室に三十人いた。三十人ぶんの写真が、それぞれの机の上に出ている。
顔を見にいく人はいない。番号だけを見る。
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教室にはストーブが入っていた。
前のほうに一台ある。前の席は暑くて、後ろは寒い。僕のところはちょうど境目にあった。
窓の外にグラウンドが見える。サッカーゴールが二つと、その向こうに校舎がもう一棟ある。
時計は黒板の上にあった。秒針の音は聞こえない。動いているのは針を見れば分かる。
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監督の先生が二人入ってきた。
一人が前で、もう一人は後ろに立つ。後ろの人は、試験のあいだじゅう立っていた。座らない決まりなのだと思う。
注意事項が読み上げられる。紙を見ながら読むので、区切りが不自然なところで入る。
読み終わってから、始まるまでに三分あった。
その三分のあいだ、誰も喋らない。咳が二回した。両方とも後ろのほうだ。
前に立った先生は、始まってから机のあいだを一定の間隔で歩いた。片道が四十秒くらいになる。
通るときに、紙の上へ影が落ちる。落ちてから抜けるまでが一秒ある。
その一秒を、僕は数えていた。数えながら解いていたことになる。
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九時ちょうどに、スピーカーから声がした。
はじめ、という一言だけだ。
同じ音を、部屋にいる全員が同時に聞く。聞いてから、紙をめくる音が一斉に起きる。
その音は、一度きりで終わらない。速い人と遅い人がいるので、二秒か三秒かけて教室の中を移動する。
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国語、数学、英語の順だった。
一教科が五十分で、あいだに二十分ずつ休みが入る。
解ける。解けるので、順番に埋めていく。埋めながら、残りの時間を見る。
国語は八分余った。数学は三分。英語は十二分余った。
余った時間に、見直しをする。見直しは二回までと決めている。三回目に入ると、合っているものを直す。
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休み時間には、廊下に出る人と、出ない人がいる。
僕は出なかった。出ると、知っている顔に会う。会うと、どうだった、と訊かれる。
訊かれて答えると、そこで手応えが言葉になる。言葉になったものは、あとから動かせない。
だから出ない。決めていたわけではなく、体のほうが出なかった。
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昼は教室で食べた。
おにぎりを二つ。梅を先に食べて、鮭をあとにした。順番に理由は無い。
昼の五十分のあいだ、僕が何をしていたかは出てこない。
食べたことは覚えている。食べ終わってからのことが無い。窓を見ていたのか、紙を見ていたのか、そこが抜けている。
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午後は一時十分からだった。理科と社会になる。
理科の三問目に、電流の問題が出た。回路の図があって、抵抗が三つ並んでいる。
その一問だけは、いまでも図が出てくる。ほかの問題は、どの教科のどこにあったかも言えない。
社会は最後で、終わったのは三時十五分だ。
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やめ、という声がした。
鉛筆を置く。置いてから、手を膝の上に乗せる決まりになっている。
答案が後ろから前へ集められる。番号順なので、自分のが何枚目に入るかが分かる。
集め終わるまで、二分くらいかかった。そのあいだ、誰も動かない。
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教室を出るときに、後ろの席の人が椅子をきちんと戻していった。
僕も戻した。前の人は戻していない。
戻すか戻さないかで何かが変わるわけではない。当たり前のようにやってから、その動きを自分でやったことに気づいた。
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校門の外で、小柳を見た。
母親と一緒だった。迎えに来ていたらしい。
鞄は小柳が自分で持っていた。母親のほうは手ぶらで、少し離れて立っている。
目は合わなかった。合わせにいっていない。声はかけていない。
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電話は駅の公衆電話からかけた。
携帯は持っていない。持たせない家だ。理由は言われたことがある。中学のあいだは要らない、というものだった。
十円玉を二枚入れた。母が二回目の呼び出し音で出た。
終わった、と言った。
母は、そう、と言った。それから、まっすぐ帰ってくるのね、と訊いた。
訊かれたのは帰る時刻だ。手応えでも、できたかどうかでもない。
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母は一度も、がんばりなさいとは言わなかった。
朝も言っていない。行ってらっしゃい、と言っただけだ。
小学校の運動会の朝と同じになる。あのときも、それだけだった。
同じことを続けている人を、僕は一人しか知らない。
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電車は四時六分のに乗った。
座れた。窓の外はまだ明るい。三月に入ると、日の落ちる時刻が動きはじめる。
カイロは使わなかった。二つとも鞄に入ったままだ。
右手の中指の第一関節が痛んだ。鉛筆の当たるところだ。五教科ぶん書くと、そこが赤くなる。
赤みは次の日には引いた。引いてから、皮が少し厚くなっている。厚くなったところは、そのまま残った。
家に着いたのは五時前になる。母が玄関にいた。玄関にいるということは、音で分かってから出てきたことになる。
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千尋が、どうだった、と訊いた。
ふつう、と答えた。千尋は、ふうん、と言って、そのあと自分の話をした。六年生でクラス替えがあるかどうかの話だ。
その話を、僕は最後まで聞いた。聞いていたのに、結論が出たかどうかは覚えていない。
その夜、台所でペンの音がした。短い。三行ぶんだと思う。
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終わったという感じが、その日には無かった。
三年間やってきたものが一日で終わる。終わったのなら、何かが変わるはずだと思っていた。
変わったのは、明日の予定が空いていることだけになる。
空いているところに何を入れるかを、その日はまだ考えていない。
終わったのは僕ではなく、時間のほうだ。




