第042話 佳代子
三月三日の夜、十時半に台所へ下りた。
秀真は十時十分に寝た。千尋は九時前。二階の電気は両方とも消えている。
湯呑みにお茶を入れて、座卓ではなく台所で飲む。座卓の上には明日の物が並べてあるから。
受験票と、削った鉛筆が五本と、消しゴムが二つ。時計は電池を替えた。上履きは洗って乾かしてある。
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記録帳は十六冊目になった。
一冊が百二十ページで、だいたい一年で一冊になる。小学校のころは、一年で二冊使った年もある。
今日書いたのは三行。起きた時刻と、食べた量と、出た時刻。
書くことが減っている。中学に入ってからずっと減っている。減っているのは分かっているけれど、やめない。
わたしが書かなかったら、この家に残らないから。
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この二年で、書くものが変わった。
小学校のころは点数を書いていた。何点、何番、何枚。数字がそのまま並んでいる。
いまは、起きた時刻と、食べた量と、出た時刻になる。
点数を書かなくなった日を、わたしは決めていない。気がついたら書いていなかった。
理由もはっきりしない。書いても同じ数字が並ぶからかもしれない。
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夜のこの時間が好きだ。
誰も起きていない。台所の蛍光灯だけを点けて、座らないで飲む。座ると長くなるから。
昔はここでラジオをつけていた。いまはつけない。二階に聞こえるといけないから。
好きなものを、いつからか一つずつやめている。やめた覚えはない。気がつくと無い。
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姉は三つ上で、何でもできた。
書道も、ピアノも、そろばんも、姉のほうが先に始めて、先にやめた。やめても誰も何も言わない。
書道は、姉が七段まで行った。わたしは四段で止まっている。
わたしは続けた。続けても、姉より上には行かなかった。
母は姉を褒めるとき、どこがどういいかを言った。字の払いのところとか、拍の取り方とか、そういう言い方をする。
わたしのときは、よくやってるわね、で終わる。どこがとは言わない。
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高二の秋に、志望校の紙を見て、母がこう言った。
「かよちゃんは、身の程を知ってるからいいわね」
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やさしい声だった。
嫌味ではない。母はそういう人ではない。ほんとうに、いいわね、と言ったのだと思う。
わたしはうれしかった。
うれしかったことを覚えている。何年も、いい思い出のところに入れてあった。
入れ替えたのは、ずっとあとになる。
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短大を出て、二年働いた。
総務にいて、電話を取って、伝票を打つ。あの二年は悪くない。
結婚して辞めた。辞めろと言われてはいない。わたしが決めた。
後悔はしていない。
一つだけ、あの二年のあいだは、名前で呼ばれる場所があった。いまは、誰かのお母さんか、奥さんになる。
それはさびしい。さびしいけれど、それだけのこと。
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秀真が生まれたのは十月三日で、三千二百四十グラムだった。
その日から書いている。書こうと決めたのは、産院のベッドの上だ。
理由はひとつしかない。わたしは忘れるから。
母は、わたしのことを何も覚えていない。何年生で何をやったかも、いつ喋りはじめたかも出てこない。姉のぶんは全部言える。
腹が立った。あのときは、はっきり腹が立ったと思う。
だから書く。この子のことは、わたしが全部持っている。
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六歳の夏に、姉の家であの子が変なことを言い出した。
エレベーターの中に入っていく人になりたい、と言った。
部屋が止まった。姉の顔が止まって、義兄がテレビからこちらを向いて、父がこの子を見た。
わたしは台所から出ていって、笑ってみせた。そんなのじゃなくてね、お医者さんとか、そういうのでしょう、と言った。
みんなが笑って、この子も笑って、それで場が戻った。
あれは、この子を直したのではない。場を戻しただけ。
いまでもそう思っている。
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千尋には何も習わせていない。
あの子は自分で言う子だから。水泳をやりたいと言ったのも、やめたいと言うのも、あの子のほうから出てくる。
上の子は言わない。三つのころからそうだ。
千尋は水泳の級が十二級から五級まで上がった。落ちた回数は四回ある。落ちた日も、あの子はそのまま言う。
言わない子には、こちらが用意しておくしかない。用意しないと、何も無いまま過ぎてしまう。
用意したものが多すぎたかどうかは、わたしには分からない。比べる先が無いから。
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正月に姉のところへ行った。亮太くんがいた。四年ぶりになる。
姉が途中で話をやめた。切ったところを、わたしは拾わなかった。
拾えば、こちらの番になる。うちの話をすることになる。
その日は、うちの話ばかりになってしまった。悪いことをした。
義兄が、もう決まったようなもんだな、と言った。否定しなかった。
否定すると、こちらから言うのと同じになる。だから黙っていた。黙っているのが、いちばん角が立たない。
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十二月の面談で、先生が最後に言った。
「体だけは、気をつけてやってください」
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言われるまでもない。
十一月から、ごはんの量を二割落としている。それから、汁物を一つ増やした。
訊かなかった。
訊けば、この子は大丈夫と言う。言わせてしまう。言ってしまったら、そのあとは訊けなくなる。
だから訊かないで、量のほうを動かした。
これが正しいかどうかは分からない。ほかにやり方があるなら教えてほしい。
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先生の言い方が、少し引っかかっている。
学校では変わりないです、と言った。学校では、という言い方だった。
あれは、学校の外では何かあると思っている人の言い方になる。
思っているなら言えばいい。言わないで帰した。
それでも、あの先生を悪く言うつもりはない。言える立場ではないから。
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よくできました、という言葉を、わたしは母から一度も言われていない。
一度もというのは、正確ではないと思う。覚えていないだけの可能性がある。
覚えていないなら、無かったのと同じだと思う。
だからわたしは言う。言われて困る子はいない。
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手が荒れる。冬はいつもそう。人差し指の付け根が割れて、水がしみる。
絆創膏を巻いても、洗い物で取れる。取れるので巻かない。
白髪は生え際に三本ある。数えたことがある。抜いていない。抜くと増えるらしいから。
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明日の弁当は要らない。
試験は九時から午前が三教科で、午後が一時十分から二教科になる。昼は会場で食べる。おにぎりを二つ持たせる。梅と、鮭。
起こすのは六時十分。いつもより三十分早い。電車は七時二十分のに乗せる。一本前でもいいけれど、あの時間は混むから。
上履きは去年の六月に買ったほうを入れた。新しいのも一足あるけれど、履き慣れたほうがいい。
カイロを鞄に二つ入れた。使わなくてもいい。
主人は明日、いつもどおり朝に出る。会場まで送るとは言っていない。頼めば送ると思う。頼むつもりはある。
頼むと決めて、まだ言っていない。今夜のうちに言う。
この人は、この子に医者になれと言ったことが一度もない。
言わないのがいいことなのかどうかは、わたしには分からない。
言わない人と暮らしていると、こちらが言う側になる。
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台所の窓から、隣の家の明かりが見える。
あちらはまだ点いている。あの家のお母さんは夜に出るから、この時間がいちばん忙しい。
うちの子は、隣の子とあまり遊ばなくなった。四年生のころからだと思う。
止めたのはわたし。あまり遊ばないでね、と一度だけ言った。
一度だけ。そのあとは言っていない。
言わなくても、この子はやめた。やめたところは見ていない。
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お茶が冷めた。十一時十五分になる。
この子は今日、九時四十分に帰ってきた。
ごはんを三分の二食べた。おかずは全部食べた。
顔は、いつもと同じだった。
それだけは書いておく。ほかのことは書けない。見ていないから。




