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自慢の息子  作者: 智珠
第二部 神童

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第041話 身の程

 一月から、動き方が変わった。


 起きるのは六時四十分で、そこは同じだ。学校が三時三十五分に終わって、そのまま塾へ行く。塾は五時半から九時半までになる。


 家に着くのが十時十分で、寝るのは十一時半だ。三年間で初めて、寝る時刻が一時間二十分うしろへ動いた。


 動かしたのは僕ではない。塾の日程が先に決まっている。


 壁の表は、それでも書き直されていない。


            *


 願書を書いたのは一月十四日だった。


 県立の出願は二月に入ってからだが、私立が先にある。私立は一月二十日が締め切りで、そこから逆算して用意する。


 書くところは多くない。名前と、住所と、生年月日と、出身校と、志望学科だ。


 黒か青のボールペンで書く。間違えたら二重線で消して訂正印を押す、と裏に書いてある。


 僕は間違えなかった。母が下書き用のコピーを取ってあって、そこで一度書いてから清書した。


            *


 証明写真は一月十日に撮った。


 駅前の写真屋で、日曜の十時半に予約が入っていた。


 縦四センチ、横三センチのものが六枚要る。県立と私立と、控えのぶんだ。


            *


 写真屋は父と同じくらいの年の人だった。


 撮る前に、椅子の高さをハンドルで合わせる。回すと、かちかちと音がする。九回まわしていた。


 背景は白ではなく、薄い水色だった。中学生は制服なので、白だと紺が沈むらしい。


 ストロボが充電される音がする。低いところから上がっていって、途中で止まる。止まると撮れる。


 三回撮って、そのうちの一枚を選ぶ。選ぶのは母だ。


 撮っているあいだ、母は僕の斜め後ろに立っていた。


 写真屋の人が、お母さん、そこに映りますので、と言った。母は横へ二歩動いた。


 動く前の位置に母が映っていたのかどうかは、こちらからは分からない。三枚とも、僕しか写っていない。


            *


 撮る前に、母が僕の前髪を直した。


 指で分けて、少し右へ寄せる。それから一歩下がって見て、また少し戻した。


 「こっちのほうがいいわね」


 母はそう言って、自分で笑った。何がおかしかったのかは言わない。


 襟も直した。学ランのホックが少し曲がっていたらしい。直されているあいだ、僕は動かなかった。


 写真屋の人が、いいお母さんですね、と言った。母は、いえ、とだけ答えた。


            *


 できあがった写真の中の僕は、口を閉じている。


 目は開いている。顔は動いていない。


 六枚とも同じ顔だ。同じ紙から切ってあるので、当たり前だと思う。


 その写真を、僕はいまも持っている。願書に使ったのは五枚で、一枚だけ余った。


 千尋が、おにいちゃんの写真ちょうだい、と言った。


 だめだと答えた。理由は言っていない。千尋は、けち、と言って自分の部屋へ行った。


 余った一枚は、机の引き出しに入れた。順位の紙の下だ。


            *


 その年、二中から東雲を受けるのは二十九人だった。


 進路だよりに、学校別の出願予定数が出る。名前は出ない。数だけが出る。


 前の年が二十四人で、その前が十九人になる。増えている。


 増えた理由は、たぶん倍率が下がる見込みだからだ。下がる見込みが出ると、受ける人が増える。増えると、下がらない。


 その仕組みを、僕は塾で教わった。教わっただけで、自分では確かめていない。


            *


 一月の半ばに、母が塾の保護者会から帰ってきた。


 二時に出て、四時二十分に戻っている。


 帰ってきて、座卓を拭きはじめた。拭きながら、少しだけ話した。


 誰と誰がいて、何の説明があったか、というところまでだ。中身は言わない。


            *


 拭き終わって、布をたたみながら、母は言った。


 「あそこは、身の程っていうものを教えないのよ」


            *


 うちは、と言おうとした。


            *


 誰のことかは、そのとき分かった。


 同じ塾の子で、県外の私立を第一志望にしている。学校の名前は、僕でも知っている。


 その子の判定は、夏からずっと下から二番目のままだ。掲示は名前と番号が出るので、見れば分かる。


 親がそこにしなさいと言っている、という話は前から出ていた。出所は分からない。塾の廊下で聞いた。


 塾の廊下には掲示が二枚ある。クラス分けと、模試の成績だ。


 成績のほうは、上から二十番までしか出ない。二十一番から下は、紙の外にいる。


 紙の外にいる人のことは、廊下では話にならない。話になるのは、紙に名前が出ている人と、志望校が紙と合っていない人だけになる。


            *


 母の声は変わらなかった。


 拭いているあいだと同じ高さで、同じ速さだ。布をたたむ手も止まっていない。


 言い終わってから、布を台所へ持っていった。水の音がして、それで終わった。


            *


 身の程という言葉を、母から聞いたのはそれが初めてになる。


 言葉としては知っている。本に出てくる。意味も分かる。


 自分の家の中で聞いたのが、その日だ。聞いてから、その語の形が急に固くなった。


 同じことが前にもあった。神童のときだ。あのときは千尋が外から持ち帰って、母は使わなかった。


 今度は母が使い、外へは出ていない。


            *


 僕は自分の部屋で、その子の数字を並べた。


 模試の偏差値が、三回ぶん頭に入っている。志望校の合格ラインも、塾の資料に載っている。


 差は十二ある。三年の一月で十二は、埋まる幅ではない。


 母は正しい。


 正しいので、言い返す材料が無い。材料が無いまま、その言葉だけが残った。


            *


 自分の数字も並べた。並べるつもりは無かったのに、手のほうが続けた。


 東雲の合格ラインとの差は、上に十四ある。


 上に十四あるというのは、下に十四あるのと同じ幅だ。同じ幅なのに、こちらは測らないで済む。


 済むということを、そのときは何とも思っていない。


            *


 その子を、次の授業で見た。


 いつもの席にいた。教材を出す速さも、鉛筆の置き方も、前と変わらない。


 こちらが自分の部屋で数字を並べたことを、その子は知らない。知らないまま、隣の列に座っている。


 声はかけなかった。かける用が無い。


 用が無いときに人へ声をかけるやり方を、僕は持っていなかった。


 その子がどこを受けたのかも、僕は知らない。三月で塾へ行かなくなったので、結果を聞く場面が来なかった。


            *


 その子の顔を、僕は思い出せない。


 同じ教室に一年半いた。席が近かったこともある。


 出てくるのは数字だけだ。偏差値と、判定の記号と、席の位置になる。


 人の顔が抜けて、数字が残る。前にも同じことがあった。前のときは、抜けたのが日付だった。


 抜けるものが、日付から顔に変わっている。変わった時期は特定できない。


            *


 母は、その冬、集まりに一度も行かなかった。


 ママ友の集まりは、それまで月に一度か二度あった。十一月から三月までは零になる。


 電話は鳴る。鳴っても、出ない日がある。呼び出し音が七回で切れる。留守番電話の設定は入れていない。


 鳴っているあいだ、母は台所にいた。手は止まっている。止まっているのは、水の音がしないので分かる。


 切れてから、また水の音が始まる。


            *


 行かなかった理由を、母は言っていない。


 訊いてもいない。訊く場面が無かった。


 その冬、母が家の外の人と話しているのを見たのは、写真屋と、面談と、塾の保護者会だけになる。三回だ。


 三回とも、僕のことで出かけている。


            *


 母は一度も、身の程を知りなさいとは言わなかった。


 僕に向けては一度も使っていない。あの日の一度きりで、それも僕のことではない。


 使われた相手が僕ではなかったから、僕はその言葉を、自分とは関係の無い道具として見ていた。


 道具は、使われるところを見ていれば、使い方が分かる。分かっても、使う場面が無ければそのままになる。


            *


 その言葉が置かれた場所を、僕は覚えている。座卓の、母が布をたたんだあたりだ。


 物ではないので、そこには何も無い。何も無いところを覚えているというのは、たぶん、そういうことになる。


            *


 願書は一月十七日に出した。木曜の学校の帰りで、四時五十分になる。


 私立のぶんで、現金書留と一緒に郵便局から出す。母がついてきた。窓口で、母は自分の印鑑を出した。


 局の人が、控えはこちらです、と言って半分に切った紙を寄こす。母はそれを財布の、札のところではないほうへ入れた。


 帰りに、母が缶のコーヒーを二本買った。僕のはあたたかいほうで、母のは同じものだ。


 外で飲むと、缶がすぐぬるくなる。ぬるくなる速さが、手の温度と関係しているのかどうかは分からない。


 母は立ったまま飲んだ。飲み終わってから、僕の缶をもらって、二本まとめて袋へ入れた。


 ゴミ箱が近くにあった。入れないで持って帰る人だ。


            *


 身の程という言葉を、僕はその日から知っている。


 知っているのに、その冬は一度も使わなかった。


 使う相手がいなかったからだ。上に人がいない者には、測る先が無い。


 測る先ができるのは、もっとあとになる。

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