↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
自慢の息子  作者: 智珠
第二部 神童

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
42/104

第039話 最後の一周

 地区大会は七月十三日だった。


 三年生は、そこで終わる人と、県へ行く人に分かれる。長距離で県へ行けるのは六位までになる。


 僕は六位だった。四分二十九秒で、五位との差はコンマ八秒になる。


            *


 六位という順位を、僕はその日のうちに家で言っていない。


 県へ行けることだけを言った。母は、日付は、と訊いた。


 三年間、同じ訊き方だ。変わっていないものが一つあると、変わったものが見つけにくくなる。


            *


 県の大会は七月二十七日だった。


 会場は去年と同じところだ。電車で一時間十分かかる。乗り換えもある。


 同じだと分かっているものは、書くことが少ない。トラックの返りも、スタートの音が一つしか鳴らないことも、去年のうちに覚えた。


 覚えたものを使う場面が、その日で最後になる。そのことは、その日には考えていない。


            *


 前の週に、母が来ると言った。


 言ったのは夕飯のあとで、八時前だ。理由は言わない。


 なぜ来るのかを、僕は訊いていない。


            *


 当日は五時に起きた。母は四時半に起きている。台所の音で分かる。


 弁当は、おにぎりが三つと、卵焼きと、鶏の照り焼きだった。梅は真ん中に一つ入っている。


 水筒は大きいほうを出してきた。麦茶が入っていて、氷も入れてある。


 タオルを凍らせたものが二本あった。ビニールに包んで、保冷剤と一緒に袋へ入れる。


 母は先に出た。僕は顧問と部員と、六時十分の電車で行く。


            *


 競技場に着いたのは七時三十分だ。


 千五百は午前の最後で、招集が十時四十分、スタートが十一時五分になる。


 ゼッケンは母が縫った。四隅で玉止めを二回する。中学に入ってからの三年間、全部そうだ。小学校の記録会のときからだと、六年ぶんになる。


            *


 母は西のスタンドにいた。


 アップのときに一度だけ見上げて、そこにいるのを確かめた。手は上げていない。母のほうも上げなかった。


 日傘を持ってきていた。競技場では差せないので、たたんだまま膝に置いている。柄のところに布が巻いてある。巻き直したのを、前に見たことがある。


 千尋は来ていない。友達のところへ行く日だと聞いた。


            *


 出場は五十八人で、三組に分かれた。


 僕は第二組だ。去年は第一組だった。上がったぶんだけ、前に人が減る。


 招集所で、去年と同じ列に並ぶ。並ぶ場所は番号で決まるので、同じところに立てるかどうかは運になる。


 同じ場所だった。地面の、白線が薄くなっているところまで同じだ。


            *


 一周目で真ん中にいた。


 二周目で、少し前に出た。前に出ると、風の当たり方が変わる。当たる面積が増える。


 三周目の途中で抜かれた。抜かれるとき、足音が先に来る。並んで、それから前に出る。並んでいる時間は二秒くらいだ。


            *


 鐘が鳴った。


 残り一周で鳴る。先頭が通るときに一度鳴って、僕が通るときにもう一度鳴った。


 二度目のほうが短い。振る回数が少ないのだと思う。


            *


 その一周のことを、僕は全部言える。


 最初の直線で、右の靴の紐が少しゆるんでいるのが分かった。ほどけるほどではない。土踏まずのところの当たりが変わっただけになる。


 第一コーナーで、内側に入った。内側は距離が短い。短いぶん、体が傾く。


 バックストレートに入ると、スタンドの声が背中から来る。何を言っているかは分からない。母の声は入っていなかった。母は、声を出す人ではない。


 前に三人いた。差は十メートルくらいで、残りが三百五十ある。


 第三コーナーで、前の一人が落ちてきた。落ちてくる人は、腕の振りが先に小さくなる。肩が上がる。上がってから、足が遅れる。


 抜いた。抜くときに横を見た。見たのは初めてだ。


 顔は覚えていない。ゼッケンの数字だけ覚えている。下二桁が七四だ。


 最後の直線で、口の中に鉄の味がした。小学校の記録会のときと同じ味だ。六年たっても、そこだけ変わらない。


 残り五十で、脚の動く量が減った。減っても、腕は同じ速さで振れる。振っているあいだは、脚がついてくる。


 白い線を踏んだ。踏んだ感じは、土のときと違う。返ってくるものが硬い。


            *


 記録は四分二十六秒だった。


 去年より十三秒速い。順位は三十四位で、五十八人中になる。


 中一の六月に初めて通したのが四分五十八秒だ。三年で三十二秒ぶん縮んだことになる。


 縮んだぶんは、紙にならない。


            *


 ゴールしてからのことを、僕は覚えていない。


 立っていたのか、歩いたのか、誰かに何か言われたのかが出てこない。次に出てくるのは、スタンドの下の日陰で母を見つけたところからになる。


            *


 顧問は、記録を言った。


 「四分二十六」


 それから、三年、ご苦労さん、と言った。


 言い方が短い。ほかの三年生にも同じ長さで言っている。回る順番が名簿の順だった。


            *


 三年生の何人かが泣いていた。


 泣いている人を、僕はそのとき見ていた。見ていただけになる。


 自分の目のところは乾いている。乾いていると分かったのは、人の顔を見たからだ。


 自分の側から先に分かったことが、そのころにはもう無くなっていた。


            *


 母は日陰にいた。


 袋から凍らせたタオルを出して、こちらへ寄こす。まだ半分凍っていて、折り目のところが硬い。


 「暑かったでしょう」


 首のうしろに当てた。当てると、そこだけ時間の進み方が変わる。


 母は記録を訊かなかった。順位も訊いていない。


 三年間、一度もだ。


            *


 どこから見てたの、と訊こうとした。


            *


 帰りは母と二人で電車に乗った。顧問には先に断ってある。


 三時十分の電車だ。座れたのは二回目の乗り換えのあとになる。


 母は窓ぎわに座って、外を見ていた。途中で大きい川を渡る。渡っているあいだが十二秒ある。


 去年、帰りに数えた川だ。今年は数えなかった。


 母が、お腹すいたでしょう、と言って、鞄からパンを出した。買ってあったものだと思う。袋が少しつぶれている。


 食べているあいだに、母がもう一度口をひらいた。


 「あの黄色いところの子、速かったわね」


 どの子のことかを、僕は特定できない。黄色のユニフォームは何校もある。同じ組にもいたし、別の組にもいた。


 訊かなかった。訊かなかったので、いまも分からない。


 母がレースのことを言ったのは、その一言だけになる。


            *


 家に着いたのは五時二十分になる。


 靴を洗った。玄関の外で、ブラシと洗剤を使う。ソールの内側が減っていて、左のほうが早い。走るときの傾き方だと思う。


 母が小五の秋に買ったものだ。足に合うのがいちばんだと言って、少し高いほうにした。紐の結び方も、そのとき店の人に教わった。


 教わったやり方を、途中から少し変えている。右だけ、結ぶ位置を内側へ寄せる。走るあいだにずれるからだ。


 変えたことを、母には言っていない。言うようなことではない。


 洗って、日陰に干した。乾いてから、下駄箱の上に置いた。


 捨てていない。いまも実家にある。


            *


 部室のものは、その週のうちに持って帰った。


 スパイクの袋と、汗を拭くタオルと、名前を書いたテープの残りだ。ロッカーには自分の名前のテープが貼ってある。剥がすと、下の色が違う。


 貼ってあったところだけ、日に焼けていない。


 剥がしたテープを、僕はその場のゴミ箱に入れなかった。持って帰って、家で捨てた。捨てた理由は説明できない。


 下級生が並んで挨拶をした。返すほうも並ぶ。並び方は背の順ではなく、名簿の順だった。


            *


 次の週から、夏期講習が始まった。


 八月からで、十四日間ある。午後の一時から六時までになる。


 部活の時間が、そのまま塾の時間になった。動かしたのは僕ではない。塾の日程が先に決まっている。


 自習室は窓が高いところにあって、外が見えない造りだ。学校のグラウンドの音は、そこまで届かない。


            *


 体のほうは、走る前の形のままだった。


 ふくらはぎが硬い。押すと痛いところが、内側の下のほうにある。走らないでいると、その硬さがゆっくり抜けていく。


 抜けきるまでにどれくらいかかるのかは、測っていない。測る道具は机の右上にあった。


            *


 壁の表は書き直されなかった。


 三年前の十月に母が書いたものが、まだ貼ってある。画鋲の穴は四つのままだ。


 平日の三時五十分から六時までのところに、部活、と書いてある。母の字だ。


 その枠を、僕は消していない。上から何かを書き足してもいない。


 書いてあるものと、していることが違う日が、そこから続いた。


            *


 母は一度も、やめなさいとは言わなかった。


 続けなさいとも言っていない。夏まではやらせます、と面談で言ったのが、いちばんはっきりした言い方になる。


 夏までという言い方の中に、夏のあとが入っていないことに、そのときは気づかなかった。


            *


 僕は、陸上をやめると言ったことがない。


 三年生の夏で引退するのは、そういう決まりだからだ。決まりのとおりに終わったものを、やめたとは言わない。


 高校で続けるかどうかを、誰にも訊かれなかった。塾でも、家でも、面談でも出ない。


 訊かれなければ、答える場面が来ない。来ないまま、次の予定が組まれていく。


 やめるとは言っていない。次の予定に入っていないだけだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。