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自慢の息子  作者: 智珠
第二部 神童

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第038話 三者面談

 三者面談は六月二十七日の月曜から始まった。


 その週は授業が短い。給食と掃除のあと、一時四十分に下校になる。面談はそのあとで、一日に八組から十組をやる。


 うちの番は水曜で、四時十分の枠だった。十五分ある。


            *


 僕は三年二組で、担任は佐久間先生だ。


 三十代の男の先生で、社会を教える。声が大きくない。教室のいちばん後ろでも聞こえるが、聞こうとしないと聞こえない。


 黒板の字は小さい。小さいのに、行が曲がらない。


 名簿は表紙の角が折れている。開くときに、いつも同じところを親指で押さえる。押さえるところだけ紙の色が濃くなっていた。


 赤いボールペンを、耳にかけずに胸のポケットに挿す。挿し方が浅いので、屈むと落ちる。落として拾うのを、僕は授業中に何度か見ている。


            *


 相談室は職員室の隣にある。


 真ん中に長机が一つあって、パイプ椅子が四脚ある。扇風機は首を振らない設定にしてあった。


 蛍光灯は二本のうち一本が切れかけている。一定の間隔ではなく、思い出したように暗くなる。


 壁に高校名の並んだ紙が貼ってある。県立が上で、私立が下だ。上の段のいちばん左に、東雲がある。


 窓はグラウンドのほうを向いている。カーテンは開けたままにしてあった。


            *


 廊下で待つあいだ、前の家の声が漏れてきた。


 何を言っているかまでは分からない。母親の声のほうが長く続く。区切りが少ない。


 途中で、男子が一度だけ何か言った。短い。


 廊下の壁には進路だよりが貼ってある。県立の出願日と、私立の推薦の締め切りと、模試の予定が入っている。字が細かい。読んでいる親が二人いた。


 うちの前は同じクラスの子の家で、出てきたときに目が合う。向こうが先に下を向いた。四時五分だ。


            *


 母は四時ちょうどに来た。


 階段を上がってくる足音で分かった。


 廊下には、そのとき何人かの親がいる。足音は重なっている。重なっていても、母のは分かる。


 速さと、間隔と、踵の当たり方で決まる。決まると書けるのに、どう決まるのかは説明できない。


 母はうすい水色のブラウスを着ていた。参観のときのものとは違う。持っている中では、二番目にきちんとしたやつだと思う。


 髪は美容室で切ったばかりだった。切った日を、僕は知らない。分かるのは、うしろの線がまっすぐなことだけになる。


            *


 入ったのは四時十一分になる。


 佐久間先生が正面で、母が僕の右にいる。椅子の高さは同じだが、母のほうが背が低いので、目の位置が十センチくらい下になる。


 机の上に、僕の書いた進路希望調査票が置いてあった。


 パイプ椅子は座ると鳴る。母のは鳴らない。体重の掛け方が違うのだと思う。


 母の手は、鞄の持ち手のところで組んである。指は動かない。参観のときも同じ組み方をしていた。


            *


 その紙には、志望校を三つ書く欄がある。


 上から順に、県立東雲高校、県立西高、私立の高校と書いた。


 書いたのは僕だ。字も僕の字になる。


 書いた日は覚えている。五月十六日で、座卓で書いた。母が横にいて、鉛筆を出したのは僕だ。


 書く前に相談した覚えが無い。相談していないのに、迷わずに書けた。


            *


 佐久間先生が、内申点の話をした。


 九教科を五段階で見る。本番になるのは三年の二学期のものだが、いまの時点でも出る。


 四十五だと言われた。満点だ。


 実技の四教科も五になっている。美術と、音楽と、技術家庭と、保健体育だ。


 保健体育のところで、母が小さくうなずいた。ほかの教科ではうなずいていない。


 うなずいた理由を、僕はそのとき考えていない。


 母は書き取らなかった。数字を聞いて、それで終わりになる。


            *


 それから、母が僕のほうを見て言った。


 「よくできました」


            *


 佐久間先生が、二秒くらい何も言わなかった。


 紙を見ていた目が、いったん上がって、僕のところで止まる。それから母のほうへ動いた。


 顔は動いていない。動いたのは目だけだ。


 そのあと、そうですね、と言って話を続けた。


 二秒が何だったのかは、その日には分からない。


            *


 母が鞄から紙を出した。


 塾の面談でもらったものだ。二中から東雲高校へ、過去三年で何人入っているかが載っている。二十二人、十九人、二十四人になる。


 倍率も出ている。前の年が一・三八倍だ。


 佐久間先生はそれを受け取って、しばらく見た。見てから机に置いて、そうですね、ともう一度言った。


 同じ数字を、学校のほうも持っている。二枚並べて見ることになる。


 紙の下のほうに、鉛筆で丸がついていた。母の丸だ。二重に囲ってある。何を囲ったのかは、こちらの席からは見えない。


            *


 窓の外で、陸上部が走っていた。


 面談の週は練習が短い。それでも出ている。トラックを回っているのが、二階からだと上から見える。


 誰が誰かは、走り方で分かる。腕の振り方と、上下の動きで見分けがつく。


 長距離の二人が、ゆっくり回っていた。僕の入る場所が一つ空いている。


 笛の音が窓ごしに聞こえた。ガラスを一枚はさむと、笛は高いところだけが残る。


 回っている片方が、こちらの窓に気づいていた。気づいて、顔を上げずにそのまま曲がっていった。


            *


 佐久間先生が僕に訊いた。


 「高梨は、どうしたい」


 母が答えた。本人は東雲でと言っています、という答え方になる。


 佐久間先生はうなずいて、紙に何か書いた。


            *


 少しあとで、もう一度訊かれた。


 「夏の大会のあとも、走るのか」


 母が答えた。夏まではやらせます、という答え方をした。


 やらせます、という言い方に、僕は引っかからなかった。引っかかったのは、ずいぶんあとになる。


            *


 三度目に、佐久間先生は僕の名前を呼んだ。


 「高梨」


 それだけ言って、待った。


 待っている時間が、四秒か五秒ある。扇風機の音がしていた。蛍光灯が一度暗くなって、また戻る。


 窓の外では、まだ二人が回っている。


 僕は答えた。


 「東雲で、お願いします」


            *


 お願いします、というのは母の言い方だ。


 言ってから気づいた。気づいたが、言い直さなかった。


            *


 まだ決めていない、と言おうとした。


            *


 面談は十四分で終わった。


 枠は十五分ある。一分残った。


 廊下には次の家族がもう来ていて、母親どうしで話していた。話しながら、こちらに道をあける。


 出たのは四時二十五分だ。


            *


 面談で出なかったものがある。


 走るタイムは出なかった。委員会のことも出ていない。図書室で本を借りていないことは、当然出ようがない。


 出たのは、点と、順位と、人数と、倍率だ。


 紙にできるものだけが、あの部屋に持ち込まれていた。


 訊かれなかったことは、思い出そうとしても出てこない。訊かれたことのほうは、順番どおりに全部残っている。


            *


 母は自転車で来ていた。


 昇降口の外で、スタンドを蹴って外す。金具の音がした。押して歩くので、こちらは横を歩いた。


 空はまだ明るい。六月の終わりで、日が長い。校門を出たところの電線に、つばめが並んでいた。


 グラウンドの笛が、校門の外まで届く。届くところまでは知っていた。どこで聞こえなくなるかは知らない。


 母が自転車を押す速さは、こちらの歩く速さに合っている。合わせているのか、もともとそうなのかは分からない。


            *


 途中で、母が佐久間先生のまねをした。


 紙を見てから顔を上げるまでの間の取り方と、そうですね、の言い方だ。声は似ていない。間だけが同じだった。


 僕は笑った。歩きながら笑うと、息が変な入り方をする。


 母のまねは短い。二回はやらない。小さいころからそうだ。


 まねが終わると、母は前を見て自転車を押していた。何も言わない。


            *


 途中の店で、母がアイスを二つ買った。


 千尋のぶんは買わない。溶けるからだと言う。


 同じものを二つだ。母は自分のを半分残して、こちらへ寄こした。


 棒の先が、母の口の形に少し削れている。


            *


 家に着いたのは五時十分になる。


 千尋が、三者面談って何、と訊いた。


 三人で話すやつだ、と答えた。千尋は、へえ、と言って別の部屋へ行った。


 夕飯は七時半で、そのあとは表のとおりになる。十時十分に寝た。


 その夜、台所でペンの音がした。長くはない。書いている中身を、僕は見ていない。


            *


 母は一度も、東雲にしなさいとは言わなかった。


 行きなさいとも、受けなさいとも言っていない。数字を並べて見せただけになる。


 並べた数字を、僕はいまでも言える。言えるということは、あのとき見たということだ。


 見たうえで、書いたのは僕だ。


            *


 覚えていないものが、また一つ増えた。


 一つ目は、森下が休んだ二日がいつだったか。二つ目は、しゅうちゃんと呼ばれなくなった日。


 三つ目が、母があの高校の名前を最初に言った日になる。


 三つとも、人が関わっている。日付が抜けるのは、その三つだけだ。


 規則だと決めるには二つでは足りないと、前に書いた。三つある。


            *


 三者面談というのは、三人でやるからそう呼ぶ。


 三人いた。三人とも喋った。紙は一枚だ。


 書いたのは僕で、決めたのは一人になる。


 その一人がいつ決めたのかを、僕は言えない。

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