第037話 亮太くんの話
一月二日に、母方の家へ行った。
九時十分に家を出て、着いたのは十時二十分になる。道が空いていて、去年より早い。
父が運転して、母が助手席にいる。僕と千尋が後ろだ。千尋はもうチャイルドシートに乗らない。十歳になって、座布団も外れた。
*
平屋で、玄関を上がると仏壇の部屋がある。
夏に来ると、線香と蚊取り線香のにおいが混ざる。冬はそれが無い。混ざらないぶん、においそのものは強くなる。
仏壇の前の座布団は、冬だけ厚いものに替わっている。替えるのは祖母だと思う。見たことはない。
座敷に石油ストーブが出してあった。点火のときに、かちかちと三回鳴ってから火がつく。上にやかんが乗っていて、口から湯気が斜めに出ている。湯気は、途中で切れたり続いたりする。
火の音は、聞こうとすると聞こえる。聞こうとしないでいると消える。
テレビは箱根駅伝の往路だった。音は小さくしてある。画面の左上に、順位と、先頭との差が出ている。差は秒で出る。
祖父は毎年、八時のスタートから見ている。ほかに誰も見ていなくても、テレビは点いたままになる。
*
その日、亮太くんがいた。
いるのは四年ぶりになる。前に会ったのは僕が小学四年の正月で、それからは夏も冬も講習でいなかった。
高校二年生だ。三つ上だから、そうなる。
四年前の顔を、僕は思い出せない。
思い出せないので、どこが変わったのかも出てこない。分かるのは、その日の亮太くんのことだけになる。
手が大きい。座卓に並べて置くと、指の先が僕より三センチほど前に出る。爪は短く切ってある。
声が低い。低いだけではなく、話しはじめるまでが遅い。訊かれてから答えるまでに、一秒か二秒ある。
灰色のトレーナーを着ていた。袖の口が伸びている。洗って乾かすのを何度もくり返した形をしている。
膝を立てて座って、その膝に腕を置く。座り方は伯父と同じだった。伯父のほうは背中が丸い。亮太くんの背中は丸くない。
*
人は九人いた。祖父、祖母、伯母、伯父、亮太くん、父、母、僕、千尋。
座る場所は毎年ほとんど同じだ。祖父がテレビの正面で、伯父がその右にいる。父は仏壇に近いほうの端になる。
亮太くんは、その日、テレビのいちばん近くに座った。前は座卓のところにいたと思う。思うだけで、確かではない。
*
お年玉は三つもらった。
祖父から五千円、伯父から三千円、伯母から三千円だ。合わせて一万一千円になる。千尋も同じ額をもらった。
亮太くんは祖父から一万円もらっていた。高校生は額が違うらしい。
封筒を、亮太くんはその場で開けずにポケットへ入れた。
僕は開けた。開けてから、開けないやり方があることに気づいた。
*
三区の中継が終わったのは、十時四十分ごろになる。
四区に入って、そのあとが山だ。五区は山を登る区間で、標高が八百メートル以上あがる。
順位が動くとしたら、そこになる。先頭との差が、山でひっくり返ることがある。
僕はそれを見ていた。亮太くんも見ていた。同じ画面を見ているのに、二人とも何も言わない。
*
伯父が僕に訊いた。
学年で何番なのか、という訊き方だった。
母が台所から答えた。二百四十人のうちの一番、という言い方をする。母数のほうを先に言う。順位だけを先に言うことを、母は一度もしない。
伯父が湯呑みを置いた。
「もう決まったようなもんだな」
伯父はそう言って、母のほうを見た。
母は否定しなかった。
*
その形を、僕は前に見ている。
六歳の夏に、同じ座敷で、同じ人が同じ言い方をした。あのときは、そのあとに一つ足されていた。
亮太も医学部を狙っているらしいから同じだな、という一つだ。
この年には、それが無い。
*
亮太くんの名前が、その日は出なかった。
いつもは出る。会っていない年でも出る。夏期講習が何時までかとか、模試の判定がどうだったとか、そういう形で必ずどこかに入っていた。
本人がいる年に、出ない。
昼を食べ終わるまで、一度もだ。
出ないことに気づいてから、僕は待っていた。待っていたと分かったのは、待っているあいだではない。
*
雑煮は十一時半に出た。
この家のは澄まし汁で、餅は焼かずに煮る。小松菜と、鶏と、なるとが入る。なるとは一人一枚だ。
餅は二つずつ入っている。亮太くんは三つ食べた。伯母がおかわりを取りに立った。
千尋は残した。残したぶんを母が食べる。自分のぶんも食べているので、その日の母は三つ食べたことになる。
僕は二つだ。数えていたことのほうが、あとになって気になる。
*
一度だけ、自分から訊いた。
亮太くんは、と伯母に訊いた。何を訊いたのかは、自分でもはっきりしていない。進路のことだったと思う。
伯母は湯呑みを持ったまま答えた。
「亮太は、いまちょっとね」
そこで切れた。
切れたところを、誰も拾わなかった。祖父はテレビを見ている。伯父は座卓のみかんに手を伸ばした。父は何も言わない。
台所から母が出てきた。
出てくるまでが速い。
速い日と、そうでない日がある。その日は速かった。
母は千尋の前に手を伸ばして、こぼれたなるとを紙で取る。それから、みかん剥いてあげようか、と言った。
*
伯母が亮太くんに言ったのは、一時二十分ごろだ。
「亮太、ちょっと連れてってやってよ」
連れていく先は言っていない。亮太くんが先に立った。
僕と千尋がついていく。
外へ出るとき、五区の山はまだ途中だった。
*
神社は歩いて七分のところにある。
道は途中まで下りで、そこから平らになる。両側が畑で、冬は何も植わっていない。土が凍っていて、踏むと表面だけが割れる。
風があった。耳が痛くなるまでに三分もかからない。
千尋が亮太くんの手をつなごうとして、途中でやめた。四年ぶりだから、千尋はこの人をほとんど知らない。
鳥居をくぐると玉砂利になる。三人ぶんの音が重なる。千尋の歩幅だけが違うので、重なり方が一定にならない。
拝殿の脇に、しめ縄の切れたのが落ちていた。誰も片づけていない。
*
賽銭は五円ずつ入れた。亮太くんが三人ぶん出した。
箱に落ちた五円が、下のほうで一度だけ跳ねる。
鈴は千尋が鳴らした。太い紐を両手で持って、二回振る。音は短い。仏壇の鈴のようには残らない。
千尋は二礼二拍手一礼を、ちゃんと順番どおりにやった。誰に教わったのかは知らない。
*
帰りの途中で、千尋が手袋を落としたと言った。
右だけ無い。神社を出てから五分ほど歩いている。
行ってくる、と言って、僕は走った。
*
来たときの下りが、帰りは上りになる。
上りは走りやすい。速さが勝手に落ちるので、こちらで調整しなくていい。落ちたぶんは、下りで返ってくる。
凍った土は、踏むと表面だけが割れる。割れた下は固い。固いところに当たったぶんが、膝の上まで戻ってくる。
行きは向かい風だった。折り返すと、風は背中から来る。背中から来ると、腕を振る量が減る。減らしても速さは落ちない。
往復で八百メートルくらいになる。
手袋は鳥居の外の、石段の三段目にあった。赤いので、遠くからでも見えた。
拾って、そのまま折り返した。
息は上がらない。八百は短い。千五百を走る練習をしていれば、流すのと同じになる。
走っているあいだ、時計は見ていない。持っていない。ストップウォッチは机の右上にある。
*
戻ると、二人はその場に立って待っていた。
千尋が手袋を受け取ってはめた。親指の穴に入れるのに、少し手間取っている。
亮太くんが僕を見ていた。
見ていたのは、たぶん、僕が走りだしてからずっとだ。
「陸上?」
うん、と答えた。
「長いほう?」
千五百、と答えた。
「そうか」
それだけだった。
*
四分三十四秒だ、と言おうとした。
*
その日、その数字を訊いた人はいない。
学年の順位は訊かれた。母数と一緒に答えている。塾のクラスも訊かれた。志望校の話も出た。
走ることについて訊かれたのは、陸上か、と、長いほうか、の二つになる。
二つとも、答えるのに数字が要らない。
*
座敷へ戻ったのは二時十分だ。話は別のところへ移っていた。
何を話していたのかは分からない。出ていた四十分ぶんを、僕は聞いていない。
母は座卓の端にいて、湯呑みを両手で持っていた。伯母は台所にいる。
テレビでは往路が終わっていた。山で三人抜いた学校がある。抜いたところを、僕は見ていない。
総合の順位が一覧で出た。一位と最後の差は、十六分あった。
それだけ離れていても、同じ紙に並ぶ。並べば、上と下になる。
*
四時十分に、その家を出た。
車の中で、父が一度だけ言った。
「亮太くん、変わったな」
母は、そうね、と言った。
何が変わったのかは、二人とも言わない。僕も訊かなかった。
千尋は帰りの車で寝た。
*
家に着いたのは五時二十分になる。
封筒は、引き出しの上のほうに入れた。順位の紙が入っているところだ。紙の下に差し込んで、引き出しを閉めた。
夕飯は七時半だった。母が正月のものを詰め直して出す。
十時十分に寝た。表のとおりだ。表は正月でも動かない。
*
母は一度も、亮太くんと比べなさいとは言わなかった。
比べる言い方を、母はしない。うちはうち、とも言わない。母数と順位を並べて言うだけだ。
並べて言うのが比べることになるのかどうかを、そのころの僕は考えていない。
*
その年から、亮太くんの名前を聞かなくなった。
年に何度も聞いていた名前だ。何度かは数えていない。
数えていないものが零になったことに気づくには、一年かかる。
次の正月にも出なかった。そこで分かった。
*
上に人がいるというのは、名前を覚えることだった。
覚える名前が無くなると、上が無くなる。
無くなったところに、僕の名前が入っている。入れたのは僕ではない。
入ったものは、次に誰かが来るまでそこにいることになる。来るのかどうかを、そのときは考えなかった。
*
その日、僕が走ったのを見た人は一人だ。
見た人は、何秒だったかを訊かなかった。
訊かれなかったので、あの八百メートルには数字がついていない。
数字のついていないものを、僕はその日まで一つも持っていなかった。
持ってしまうと、どこへ置けばいいのかが分からない。
分からないまま、いまも持っている。




