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自慢の息子  作者: 智珠
第二部 神童

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第036話 前に四十人

 地区大会は七月十四日だった。


 二中の陸上部から、その日に出たのは十一人だ。長距離は僕を入れて三人になる。


 千五百メートルは午後の種目で、招集が一時十分、スタートが一時三十五分になる。


            *


 組は二つに分かれた。


 僕は第二組だ。二つの組のタイムを合わせて順位を出す。


 その日の記録は四分三十四秒だった。


 中一の六月に初めて通したときが四分五十八秒だ。一年で二十四秒ぶん縮んだことになる。


 縮んだぶんを、誰にも言っていない。言うところが無い。


 二十五人中の六番になる。県へ行けるのは、そこまでになる。


            *


 地区での順位を、僕はその日のうちに家で言っていない。


 訊かれなかった。母は、どうだった、と一度だけ訊いた。


 出られる、と答えた。


 母は、そう、と言った。それから、県はいつなの、と訊いた。


 訊かれたのは日付だ。タイムでも順位でもない。


            *


 県の大会は八月四日だった。


 会場は市の陸上競技場ではない。もっと大きいところで、電車で一時間十分かかる。乗り換えが二回ある。


 朝は六時十分の電車に乗った。顧問と、部員が何人か。長距離で行くのは僕だけになる。


 競技場に着いたのは七時三十分。開門が七時で、着いたときにはもう人がいた。


            *


 母は来ていない。


 平日ではない。土曜日だ。来られない日ではなかった。


 千尋の水泳の進級テストが同じ日にあった。時刻も重なっている。


 どちらへ行くかを、母がどう決めたのかは知らない。決めたところを見ていない。


            *


 「千尋のほうに行くから」


 前の日の夜に、母はそう言った。


 いいよ、と答えた。


 実際に、いい。競技場までは遠いし、僕は一人で行ける。行ったところで、見ている時間は四分半しかない。


 四分半のために一時間十分かけるのは、計算に合わない。


            *


 計算に合わない、というのは、そのときに自分で出した理由だ。


 母が出した理由ではない。母は理由を言っていない。行くほうを先に言っただけだ。


 こちらが理由を作って、埋めた。埋めておくと、そこは平らになる。


 平らにするのが速い。速いのは、何度もやっているからだ。


 何度やったかは数えていない。数えると、平らでなくなる。


            *


 千五百は午前の最後だった。


 招集が十時四十分で、スタートが十一時五分になる。


 出場は六十二人で、三組に分かれる。僕は第一組だ。第一組はタイムの遅いほうから入る。


 遅いほうから、というのは、そういう組み方になっているからだ。速い人は最終組に入る。


            *


 招集所は、トラックの外の日陰にある。


 番号を呼ばれて、ゼッケンを確かめられて、列に並ぶ。並ぶ順番は組の中の番号で決まる。


 列にいる二十人は、全員ちがう学校から来ている。同じ学校が二人いる組もあるが、僕の組には一人もいなかった。


 誰も喋らない。喋る相手がいないからだ。地区の大会では、隣に同じ部の子がいた。


 ゼッケンは母が縫った。四隅で、玉止めを二回する。小学校の記録会のときと同じやり方だ。


            *


 トラックは全天候型だ。土ではない。


 踏んだときの返りが違う。返ってくるのが速くて、量が多い。二中のグラウンドで覚えた感じが、そのまま使えない。


 アップのときに、それに気づいた。気づいてから、直そうとした。直しきれるものではない。


            *


 スタートの音が違う。


 小学校の記録会のピストルは、音が二つに聞こえた。撃った音と、返ってくる音だ。


 この競技場では、返ってこない。スタンドが高くて、屋根があるからだと思う。


 一つしか鳴らない音で、六十二人のうちの二十人が動きだした。


            *


 一周目で、前が遠くなった。


 速い人はこの組にいない。いないのに、前が遠い。同じ組の中で、僕は真ん中より少し前を走っていた。


 二周目で、真ん中になった。三周目で、真ん中より後ろになる。


 抜かれるとき、足音が先に来る。来て、横に並んで、それから前に出る。並んでいる時間は、二秒くらいだ。


            *


 六周のうち、真ん中の二周は、いつもどおり出てこない。


 出てこないのに、抜かれた回数は覚えている。五人だ。


            *


 記録は四分三十九秒だった。


 地区より五秒遅い。


 全体の順位は、四十一番になる。六十二人中だ。


            *


 掲示は昼すぎに出た。


 紙が何枚も並ぶ。種目ごとに、順位と、名前と、学校名と、記録が印字してある。


 自分の名前を探すのに、少しかかった。上から順に見ると、四十一行目にある。


 上に四十人いる。


            *


 その四十人のうち、名前を知っているのは零だ。


 同じレースを走ったのは二十人で、そのうち僕より上は十九人になる。その顔も知らずにいる。


 抜かれるときに横に並んだ二秒のあいだ、僕は前を見ていた。横へは目を向けなかった。


 見ていれば、顔は覚えたかもしれない。


 前を見ていたのは、追うためではない。前に誰もいなくなっていたからだ。


 自分の組の前のほうは、その時点でずいぶん先にいる。追う相手が視野から消えると、目のやり場が無くなる。


 目のやり場が無いまま二周走った。その二周が、たぶん出てこないところになる。


            *


 ゴールしたあと、しばらく立っていた。


 膝に手をつかなかった。つくと、係の人に声をかけられる。前の組でそうなっているのを見ている。


 口の中に鉄の味がする。小学校の記録会のときと同じ味だ。二年たっても、そこだけ変わらない。


 トラックの外へ出るときに、後ろの組の招集が始まっていた。番号を呼ぶ声が、こちらの背中に当たる。


            *


 顧問は、記録を言っただけだった。


 「四分三十九」


 速いとも、遅いとも言わない。地区より落ちたことにも触れない。


 落ちた理由は、こちらには分かっている。トラックが違う。ペースの作り方が違う。前が遠いと、追う相手が決まらない。


 分かっているのに、言わなかった。訊かれていないからだ。


 訊かれれば言う。言えるように、頭の中では整理してある。整理したものを出す場面が来ない。


 来ないと、整理したぶんだけが残る。残ったものは、そのうち形がぼやける。


            *


 帰りは四時二十分の電車だった。


 行きと同じで、乗り換えが二回ある。顧問が寝ていた。部員も寝ている。


 僕は寝ていない。窓の外を見ていた。


 途中の駅で、大きい川を渡る。渡っているあいだが十二秒ある。数えた。


 行きにも渡っている。行きのときは数えていない。数える気にならなかったのか、忘れていたのかは分からない。


 帰りは数えた。数えると、そのあいだ何も考えないで済む。


            *


 家に着いたのは六時前だった。


 千尋の進級テストは受かっていた。冷蔵庫に、新しいワッペンが磁石で留めてある。


 夕飯は千尋の好きなものだった。母がそう決めたのだと思う。訊いていない。


            *


 母は、どうだった、と訊いた。


 出た、と答えた。


 それで終わった。順位もタイムも訊かれていない。


 紙にならないものは、家の中に存在しないのと同じになる。存在しないものについて、話が起きようがない。


            *


 母は一度も、大会の結果を訊かなかった。


 三年間、一度もだ。日付は訊く。場所も訊く。持ち物も確かめる。


 結果だけが、抜けている。


 抜けているのが、こちらを気づかってのことなのか、それとも別の理由なのかは分からない。


 訊けば言うと思う。訊かないままにした。


            *


 県で四十一番だったことを、家では誰も知らずにいる。


 学校でも言っていない。訊かれてもいない。委員会でも話題に出ないままだった。


 その数字を持っているのは、僕と、掲示の紙の二つになる。


 掲示の紙は、大会が終われば片づけられる。


 片づけられたあと、その紙がどこへ行くのかは知らない。捨てるのか、どこかにまとめておくのか。


 どこかにまとめてあるなら、四十一という数字はまだ残っている。残っているのに、誰も見ない。


            *


 その夜、風呂で足を見た。


 左の親指の爪が、内出血で黒くなっていた。全天候型のトラックで、つま先の当たる位置が変わったからだと思う。


 押すと痛い。痛みはしばらく続いて、そのあと爪の色が下から戻った。


 黒いところが上へ動いていって、伸びた先で切られる。切ったのは秋になってからだ。


            *


 四十一番という数字は、切られない。


 紙にならなかったので、家には残らなかった。学校にも残っていない。


 残っているのは、僕の中だけになる。


 残っているのに、その日から一度も、誰かに言っていない。


 言う場面が来なかった、と書くのは正しくない。作らなかった、のほうが近い。


 作らないでおくと、その数字は誰の手にも渡らない。渡らないものは、あとから確かめようがない。


 確かめようが無いものだけが、いつまでも同じ形で残る。


 形が変わらないものを、僕はいくつも持っている。持っているという言い方が正しいのかどうかも、いまは分からない。

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