第036話 前に四十人
地区大会は七月十四日だった。
二中の陸上部から、その日に出たのは十一人だ。長距離は僕を入れて三人になる。
千五百メートルは午後の種目で、招集が一時十分、スタートが一時三十五分になる。
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組は二つに分かれた。
僕は第二組だ。二つの組のタイムを合わせて順位を出す。
その日の記録は四分三十四秒だった。
中一の六月に初めて通したときが四分五十八秒だ。一年で二十四秒ぶん縮んだことになる。
縮んだぶんを、誰にも言っていない。言うところが無い。
二十五人中の六番になる。県へ行けるのは、そこまでになる。
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地区での順位を、僕はその日のうちに家で言っていない。
訊かれなかった。母は、どうだった、と一度だけ訊いた。
出られる、と答えた。
母は、そう、と言った。それから、県はいつなの、と訊いた。
訊かれたのは日付だ。タイムでも順位でもない。
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県の大会は八月四日だった。
会場は市の陸上競技場ではない。もっと大きいところで、電車で一時間十分かかる。乗り換えが二回ある。
朝は六時十分の電車に乗った。顧問と、部員が何人か。長距離で行くのは僕だけになる。
競技場に着いたのは七時三十分。開門が七時で、着いたときにはもう人がいた。
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母は来ていない。
平日ではない。土曜日だ。来られない日ではなかった。
千尋の水泳の進級テストが同じ日にあった。時刻も重なっている。
どちらへ行くかを、母がどう決めたのかは知らない。決めたところを見ていない。
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「千尋のほうに行くから」
前の日の夜に、母はそう言った。
いいよ、と答えた。
実際に、いい。競技場までは遠いし、僕は一人で行ける。行ったところで、見ている時間は四分半しかない。
四分半のために一時間十分かけるのは、計算に合わない。
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計算に合わない、というのは、そのときに自分で出した理由だ。
母が出した理由ではない。母は理由を言っていない。行くほうを先に言っただけだ。
こちらが理由を作って、埋めた。埋めておくと、そこは平らになる。
平らにするのが速い。速いのは、何度もやっているからだ。
何度やったかは数えていない。数えると、平らでなくなる。
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千五百は午前の最後だった。
招集が十時四十分で、スタートが十一時五分になる。
出場は六十二人で、三組に分かれる。僕は第一組だ。第一組はタイムの遅いほうから入る。
遅いほうから、というのは、そういう組み方になっているからだ。速い人は最終組に入る。
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招集所は、トラックの外の日陰にある。
番号を呼ばれて、ゼッケンを確かめられて、列に並ぶ。並ぶ順番は組の中の番号で決まる。
列にいる二十人は、全員ちがう学校から来ている。同じ学校が二人いる組もあるが、僕の組には一人もいなかった。
誰も喋らない。喋る相手がいないからだ。地区の大会では、隣に同じ部の子がいた。
ゼッケンは母が縫った。四隅で、玉止めを二回する。小学校の記録会のときと同じやり方だ。
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トラックは全天候型だ。土ではない。
踏んだときの返りが違う。返ってくるのが速くて、量が多い。二中のグラウンドで覚えた感じが、そのまま使えない。
アップのときに、それに気づいた。気づいてから、直そうとした。直しきれるものではない。
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スタートの音が違う。
小学校の記録会のピストルは、音が二つに聞こえた。撃った音と、返ってくる音だ。
この競技場では、返ってこない。スタンドが高くて、屋根があるからだと思う。
一つしか鳴らない音で、六十二人のうちの二十人が動きだした。
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一周目で、前が遠くなった。
速い人はこの組にいない。いないのに、前が遠い。同じ組の中で、僕は真ん中より少し前を走っていた。
二周目で、真ん中になった。三周目で、真ん中より後ろになる。
抜かれるとき、足音が先に来る。来て、横に並んで、それから前に出る。並んでいる時間は、二秒くらいだ。
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六周のうち、真ん中の二周は、いつもどおり出てこない。
出てこないのに、抜かれた回数は覚えている。五人だ。
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記録は四分三十九秒だった。
地区より五秒遅い。
全体の順位は、四十一番になる。六十二人中だ。
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掲示は昼すぎに出た。
紙が何枚も並ぶ。種目ごとに、順位と、名前と、学校名と、記録が印字してある。
自分の名前を探すのに、少しかかった。上から順に見ると、四十一行目にある。
上に四十人いる。
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その四十人のうち、名前を知っているのは零だ。
同じレースを走ったのは二十人で、そのうち僕より上は十九人になる。その顔も知らずにいる。
抜かれるときに横に並んだ二秒のあいだ、僕は前を見ていた。横へは目を向けなかった。
見ていれば、顔は覚えたかもしれない。
前を見ていたのは、追うためではない。前に誰もいなくなっていたからだ。
自分の組の前のほうは、その時点でずいぶん先にいる。追う相手が視野から消えると、目のやり場が無くなる。
目のやり場が無いまま二周走った。その二周が、たぶん出てこないところになる。
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ゴールしたあと、しばらく立っていた。
膝に手をつかなかった。つくと、係の人に声をかけられる。前の組でそうなっているのを見ている。
口の中に鉄の味がする。小学校の記録会のときと同じ味だ。二年たっても、そこだけ変わらない。
トラックの外へ出るときに、後ろの組の招集が始まっていた。番号を呼ぶ声が、こちらの背中に当たる。
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顧問は、記録を言っただけだった。
「四分三十九」
速いとも、遅いとも言わない。地区より落ちたことにも触れない。
落ちた理由は、こちらには分かっている。トラックが違う。ペースの作り方が違う。前が遠いと、追う相手が決まらない。
分かっているのに、言わなかった。訊かれていないからだ。
訊かれれば言う。言えるように、頭の中では整理してある。整理したものを出す場面が来ない。
来ないと、整理したぶんだけが残る。残ったものは、そのうち形がぼやける。
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帰りは四時二十分の電車だった。
行きと同じで、乗り換えが二回ある。顧問が寝ていた。部員も寝ている。
僕は寝ていない。窓の外を見ていた。
途中の駅で、大きい川を渡る。渡っているあいだが十二秒ある。数えた。
行きにも渡っている。行きのときは数えていない。数える気にならなかったのか、忘れていたのかは分からない。
帰りは数えた。数えると、そのあいだ何も考えないで済む。
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家に着いたのは六時前だった。
千尋の進級テストは受かっていた。冷蔵庫に、新しいワッペンが磁石で留めてある。
夕飯は千尋の好きなものだった。母がそう決めたのだと思う。訊いていない。
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母は、どうだった、と訊いた。
出た、と答えた。
それで終わった。順位もタイムも訊かれていない。
紙にならないものは、家の中に存在しないのと同じになる。存在しないものについて、話が起きようがない。
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母は一度も、大会の結果を訊かなかった。
三年間、一度もだ。日付は訊く。場所も訊く。持ち物も確かめる。
結果だけが、抜けている。
抜けているのが、こちらを気づかってのことなのか、それとも別の理由なのかは分からない。
訊けば言うと思う。訊かないままにした。
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県で四十一番だったことを、家では誰も知らずにいる。
学校でも言っていない。訊かれてもいない。委員会でも話題に出ないままだった。
その数字を持っているのは、僕と、掲示の紙の二つになる。
掲示の紙は、大会が終われば片づけられる。
片づけられたあと、その紙がどこへ行くのかは知らない。捨てるのか、どこかにまとめておくのか。
どこかにまとめてあるなら、四十一という数字はまだ残っている。残っているのに、誰も見ない。
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その夜、風呂で足を見た。
左の親指の爪が、内出血で黒くなっていた。全天候型のトラックで、つま先の当たる位置が変わったからだと思う。
押すと痛い。痛みはしばらく続いて、そのあと爪の色が下から戻った。
黒いところが上へ動いていって、伸びた先で切られる。切ったのは秋になってからだ。
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四十一番という数字は、切られない。
紙にならなかったので、家には残らなかった。学校にも残っていない。
残っているのは、僕の中だけになる。
残っているのに、その日から一度も、誰かに言っていない。
言う場面が来なかった、と書くのは正しくない。作らなかった、のほうが近い。
作らないでおくと、その数字は誰の手にも渡らない。渡らないものは、あとから確かめようがない。
確かめようが無いものだけが、いつまでも同じ形で残る。
形が変わらないものを、僕はいくつも持っている。持っているという言い方が正しいのかどうかも、いまは分からない。




