第035話 べつに一位じゃなくていい
僕の紙には、上が無い。
順位が一位だと、上に誰も印字されない。空欄でもない。そもそもそういう欄が無い。
下は二百三十九人ぶんある。見えないだけで、そこにいる。
小柳亜季の紙には、上が一つある。その一つが僕だ。一年半、動いていない。
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六月十四日に、学級委員会があった。
月に一度、放課後の会議室でやる。各クラスから二人ずつで、六クラスだから十二人になる。
四時十分に始まって、四時四十分に終わる。三十分だ。長引いたことは一度も無い。
その日の議題は、廊下の掲示物を新しくすることだった。学習コーナーという名前の場所で、四つの枠がある。
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係が二人ずつに割り振られた。
割り振ったのは生徒会の担当の先生だ。名簿の順で機械的に組む。話し合いは無い。
僕と組んだのが、二組の小柳亜季だった。
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四時五十分から、図書室の奥の机で作業をした。
放課後の図書室は人が少ない。司書の人がカウンターにいて、あとは三人か四人だ。
窓は西向きで、六月の四時台はまだ明るい。机の右半分に日が当たる。当たっているほうの紙が、少し反った。
紙を切って、貼って、ラミネーターに通す。ラミネーターは奥の棚の上にあって、温まるまでに七分かかる。
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最初の十分は、ほとんど話していない。
こちらから話す材料が無い。向こうも出してこない。
紙を切る音と、司書の人が本のバーコードを読ませる音がする。バーコードの音は短い。二回に一回、鳴らないでやり直しになっていた。
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小柳は、はさみの使い方が速い。
直線を切るときに、紙のほうを動かす。はさみはほとんど動かさない。切り口がまっすぐになる。
僕は逆にやっていた。紙を押さえて、はさみを動かす。切り口が波打つ。
途中で同じやり方をしてみた。すると、まっすぐになった。真似したことは言っていない。
字は、丸くない。角が立っている。定規を使わずに引いた線が、まっすぐだった。
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ラミネーターが温まるのを待っているあいだに、僕は数字の話をした。
この前のテスト、三点差だった、と言った。
言ってから、なぜ言ったのかが分からなくなった。
用意していた話ではない。用意していない話を口に出したのが、そのころには珍しかった。
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「え、覚えてるんだ」
小柳はそう言った。手は止めていない。
覚えてる、と答えた。
「わたし、自分の点も覚えてない」
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嘘ではないと思った。
嘘をつく理由が無い。ここで嘘をついても、得るものが一つも無い。
覚えていない、という状態が本当にあるらしいということのほうが、そのときは分かりにくかった。
僕は、五教科の合計を、中学に入ってから全部言える。順位も言える。平均との差も出せる。
出せるものを、出せない人がいる。
出せないのではなく、持っていないのだと、あとで思い直した。
持っていない人が、二番目にいる。持っている人が、一番目にいる。
持っているぶんだけ、こちらが有利になっているのかどうかは、その日には出なかった。いまも出ていない。
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「べつに一位じゃなくていいから」
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なんで、と訊いた。
小柳ははさみを置いた。置いてから、こちらを見て答えた。
「一位だと、次も一位じゃないと下がったことになるでしょ。二位なら、上がるか下がるか、どっちもあるじゃん」
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言い返す材料が、こちらに無い。
筋が通っている。通っているのに、僕の中では何一つ動かない。
動かないものを、動かないまま持っていることになる。
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上がる余地、という言い方を、僕はそのとき初めて考えた。
僕の紙には、上がる余地が無い。無いというのは、良いことだと思っていた。
良いことだと思っていたものが、別の見方をすると、行き先が無いということになる。
同じ一枚の紙が、見る場所を変えると別のものになる。そういうことが起きるのだと、その日に知った。
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「わたし、上がるほうが好きなの」
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その言い方には、負けている人の響きが無かった。
二位でいることを説明しているのではない。二位のほうが良いと言っている。
そんな言い方が成り立つことを、僕はその日まで知らない。
二位でいる人の言い分は、前にも聞いたことがある。塾にも、教室にもいる。たいていは、次は取り返すという形をしている。
その形をしていると、こちらには読める。読めるので、返事もできる。
小柳の言い方には、その形が無かった。読めないものには、返事のしかたが分からない。
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テストの紙を家で見せるかどうかも訊いた。
訊いたのは、そこが気になったからだ。気になった理由は、そのときには分かっていない。
「うちは見せなくていいことになってる」
見せないの、と訊いた。
「見せてもいいけど、見ないから」
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見ないというのは、どういうことかを考えた。
紙を出す。相手が受け取らない。受け取らずに、そう、で終わる。
それだと、出す意味が無い。意味が無いなら、出さなくなる。
出さなくなるところまでが、たぶん、その家では起きている。
起きているのに、小柳は二番目にいる。見せなくても、見なくても、二番目にいられる。
見せることと、順位が上であることは、別のことになる。
うちでは、その二つがつながっている。つながっているのが普通だと思っていた。
つなげたのが誰なのかを、そのとき考えなかった。考えると、名前が一つしか出てこない。
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うちは見せる、とは言わなかった。
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ラミネーターが温まって、そこからは手を動かした。
通した紙は熱い。端を持って、机に並べて冷ます。冷めるまでに一分くらいかかる。
その一分を、二人とも黙って待った。
黙っているのが、こちらには何ともなかった。黙っている時間に耐えられない人がいるのは知っている。塾にも、教室にもいる。
小柳は、その種類ではなかった。
どの種類なのかを、その日のうちに決めようとした。決まらなかった。
人を種類で分けるやり方を、僕はいくつか持っている。順位で分ける。喋る量で分ける。手を挙げるかどうかも一つの目安になる。
どの分け方でも、小柳はうまく入らない。入らない人を見たのは、たぶん初めてになる。
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冷ましているあいだに、小柳が一度だけ訊いた。
「陸上やってるんだよね」
うん、と答えた。
「速いの?」
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地区の大会で六番だった、と答えた。
言ってから、また数字を出したことに気づいた。訊かれたのは速いかどうかで、順位ではない。
小柳は、ふうん、と言った。
それから、こう続けた。
「じゃあ、五番の人がいるんだ」
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いる、と答えた。
「その人のこと知ってる?」
知らない、と答えた。同じ大会にいた。同じレースを走った。名前も顔も知らない。
「わたしは、上の人の名前は知ってる」
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小柳は、僕の名前を知っている。
一年半、掲示の一段目に出ている名前だ。知っていて当たり前になる。
当たり前になっているのに、その日まで一度も口をきいていない。
口をきかないまま、名前だけを知っている人が、たぶんお互いに何人もいる。
上の人の名前は知っている、という言い方が、そのあと何度か出てきた。
僕には上がいない。だから、覚える名前が無い。無いということが、その日までは何でもなかった。
何でもないものが何かになる瞬間は、たいてい人の口から来る。自分では動かない。
その日、動いた。動いたことに気づいたのは、家に帰ってからになる。
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作業は五時二十分に終わった。
四枚できた。掲示板に貼るのは次の日の朝で、その日は職員室に預ける。
図書室を出るときに、小柳が先に立つ。じゃあね、と言って、階段を下りていった。
こちらは部活へ行った。五時半から、残りの三十分だけ出る。
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次の日の朝、二人で掲示板に貼った。
八時十分から十分だけの作業だ。画鋲を四つずつ、四枚で十六個使う。
高さをそろえるために、小柳が一枚目の位置を決めた。決めてから、こちらが二枚目以降を合わせる。
合わせているあいだ、二人とも何も言わなかった。前の日と同じで、何ともならない。
貼り終わって、小柳が少し下がって全体を見た。母が冷蔵庫の前でやるのと、同じ動きだった。
同じ動きをする人が、家の外にもいる。そのことに、そのときは驚かなかった。
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その日、何の掲示物を作ったのかを、僕は覚えていない。
会話は全部覚えている。順番も、言い方も、間の長さも出てくる。
紙に何が書いてあったかだけが、出てこない。
四枚とも見ているはずだ。切って、貼って、通して、冷ました。それでも出てこない。
覚えているものと覚えていないもののあいだに、規則があるとすれば、人が入っているかどうかになる。
人が入っている場面は残る。物だけの場面は消える。
これで三つ目だ。三つあると、規則と呼んでもいいような気がしてくる。
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五時二十五分に、小柳はカウンターで本を借りた。
二冊だ。何の本かは見ていない。厚さが違うのは分かった。片方が薄い。
僕は図書室で本を借りたことがない。三年間で一度もだ。
借りない理由は、はっきりしている。読む時間が表に入っていない。
水曜の枠に自分で書いた二文字のことは、そのとき思い出さなかった。
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母は一度も、点数を見せろとは言わなかった。
出すのはこちらからだ。返ってきた日に、こちらから出す。
出さないという選択肢を、僕は一度も使ったことがない。
使えることを、その日に初めて知った。知っても、使わなかった。
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そのあと、小柳とはあまり話していない。
委員会は月に一度ある。会議室では席が離れる。名簿の順で座るからだ。
廊下ですれ違うことはある。すれ違うときに、向こうが先に気づく日と、こちらが先に気づく日がある。どちらでも、会釈だけになる。
三年生になるまでに、二人で話したのは、その日を入れて四回だ。
四回のうち、いちばん長いのがその日になる。あとの三回は、どれも一分か二分で終わっている。
四回とも、こちらから何かを訊いている。向こうから訊かれたのは、速いの、の一回だけになる。
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その日、帰ってから、僕は順位の紙を出した。七時十分ごろだ。
引き出しの上のほうにある。いちばん新しいやつだ。
一位のところに自分の名前がある。
上に、何も無い。




