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自慢の息子  作者: 智珠
第二部 神童

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第035話 べつに一位じゃなくていい

 僕の紙には、上が無い。


 順位が一位だと、上に誰も印字されない。空欄でもない。そもそもそういう欄が無い。


 下は二百三十九人ぶんある。見えないだけで、そこにいる。


 小柳亜季の紙には、上が一つある。その一つが僕だ。一年半、動いていない。


            *


 六月十四日に、学級委員会があった。


 月に一度、放課後の会議室でやる。各クラスから二人ずつで、六クラスだから十二人になる。


 四時十分に始まって、四時四十分に終わる。三十分だ。長引いたことは一度も無い。


 その日の議題は、廊下の掲示物を新しくすることだった。学習コーナーという名前の場所で、四つの枠がある。


            *


 係が二人ずつに割り振られた。


 割り振ったのは生徒会の担当の先生だ。名簿の順で機械的に組む。話し合いは無い。


 僕と組んだのが、二組の小柳亜季だった。


            *


 四時五十分から、図書室の奥の机で作業をした。


 放課後の図書室は人が少ない。司書の人がカウンターにいて、あとは三人か四人だ。


 窓は西向きで、六月の四時台はまだ明るい。机の右半分に日が当たる。当たっているほうの紙が、少し反った。


 紙を切って、貼って、ラミネーターに通す。ラミネーターは奥の棚の上にあって、温まるまでに七分かかる。


            *


 最初の十分は、ほとんど話していない。


 こちらから話す材料が無い。向こうも出してこない。


 紙を切る音と、司書の人が本のバーコードを読ませる音がする。バーコードの音は短い。二回に一回、鳴らないでやり直しになっていた。


            *


 小柳は、はさみの使い方が速い。


 直線を切るときに、紙のほうを動かす。はさみはほとんど動かさない。切り口がまっすぐになる。


 僕は逆にやっていた。紙を押さえて、はさみを動かす。切り口が波打つ。


 途中で同じやり方をしてみた。すると、まっすぐになった。真似したことは言っていない。


 字は、丸くない。角が立っている。定規を使わずに引いた線が、まっすぐだった。


            *


 ラミネーターが温まるのを待っているあいだに、僕は数字の話をした。


 この前のテスト、三点差だった、と言った。


 言ってから、なぜ言ったのかが分からなくなった。


 用意していた話ではない。用意していない話を口に出したのが、そのころには珍しかった。


            *


 「え、覚えてるんだ」


 小柳はそう言った。手は止めていない。


 覚えてる、と答えた。


 「わたし、自分の点も覚えてない」


            *


 嘘ではないと思った。


 嘘をつく理由が無い。ここで嘘をついても、得るものが一つも無い。


 覚えていない、という状態が本当にあるらしいということのほうが、そのときは分かりにくかった。


 僕は、五教科の合計を、中学に入ってから全部言える。順位も言える。平均との差も出せる。


 出せるものを、出せない人がいる。


 出せないのではなく、持っていないのだと、あとで思い直した。


 持っていない人が、二番目にいる。持っている人が、一番目にいる。


 持っているぶんだけ、こちらが有利になっているのかどうかは、その日には出なかった。いまも出ていない。


            *


 「べつに一位じゃなくていいから」


            *


 なんで、と訊いた。


 小柳ははさみを置いた。置いてから、こちらを見て答えた。


 「一位だと、次も一位じゃないと下がったことになるでしょ。二位なら、上がるか下がるか、どっちもあるじゃん」


            *


 言い返す材料が、こちらに無い。


 筋が通っている。通っているのに、僕の中では何一つ動かない。


 動かないものを、動かないまま持っていることになる。


            *


 上がる余地、という言い方を、僕はそのとき初めて考えた。


 僕の紙には、上がる余地が無い。無いというのは、良いことだと思っていた。


 良いことだと思っていたものが、別の見方をすると、行き先が無いということになる。


 同じ一枚の紙が、見る場所を変えると別のものになる。そういうことが起きるのだと、その日に知った。


            *


 「わたし、上がるほうが好きなの」


            *


 その言い方には、負けている人の響きが無かった。


 二位でいることを説明しているのではない。二位のほうが良いと言っている。


 そんな言い方が成り立つことを、僕はその日まで知らない。


 二位でいる人の言い分は、前にも聞いたことがある。塾にも、教室にもいる。たいていは、次は取り返すという形をしている。


 その形をしていると、こちらには読める。読めるので、返事もできる。


 小柳の言い方には、その形が無かった。読めないものには、返事のしかたが分からない。


            *


 テストの紙を家で見せるかどうかも訊いた。


 訊いたのは、そこが気になったからだ。気になった理由は、そのときには分かっていない。


 「うちは見せなくていいことになってる」


 見せないの、と訊いた。


 「見せてもいいけど、見ないから」


            *


 見ないというのは、どういうことかを考えた。


 紙を出す。相手が受け取らない。受け取らずに、そう、で終わる。


 それだと、出す意味が無い。意味が無いなら、出さなくなる。


 出さなくなるところまでが、たぶん、その家では起きている。


 起きているのに、小柳は二番目にいる。見せなくても、見なくても、二番目にいられる。


 見せることと、順位が上であることは、別のことになる。


 うちでは、その二つがつながっている。つながっているのが普通だと思っていた。


 つなげたのが誰なのかを、そのとき考えなかった。考えると、名前が一つしか出てこない。


            *


 うちは見せる、とは言わなかった。


            *


 ラミネーターが温まって、そこからは手を動かした。


 通した紙は熱い。端を持って、机に並べて冷ます。冷めるまでに一分くらいかかる。


 その一分を、二人とも黙って待った。


 黙っているのが、こちらには何ともなかった。黙っている時間に耐えられない人がいるのは知っている。塾にも、教室にもいる。


 小柳は、その種類ではなかった。


 どの種類なのかを、その日のうちに決めようとした。決まらなかった。


 人を種類で分けるやり方を、僕はいくつか持っている。順位で分ける。喋る量で分ける。手を挙げるかどうかも一つの目安になる。


 どの分け方でも、小柳はうまく入らない。入らない人を見たのは、たぶん初めてになる。


            *


 冷ましているあいだに、小柳が一度だけ訊いた。


 「陸上やってるんだよね」


 うん、と答えた。


 「速いの?」


            *


 地区の大会で六番だった、と答えた。


 言ってから、また数字を出したことに気づいた。訊かれたのは速いかどうかで、順位ではない。


 小柳は、ふうん、と言った。


 それから、こう続けた。


 「じゃあ、五番の人がいるんだ」


            *


 いる、と答えた。


 「その人のこと知ってる?」


 知らない、と答えた。同じ大会にいた。同じレースを走った。名前も顔も知らない。


 「わたしは、上の人の名前は知ってる」


            *


 小柳は、僕の名前を知っている。


 一年半、掲示の一段目に出ている名前だ。知っていて当たり前になる。


 当たり前になっているのに、その日まで一度も口をきいていない。


 口をきかないまま、名前だけを知っている人が、たぶんお互いに何人もいる。


 上の人の名前は知っている、という言い方が、そのあと何度か出てきた。


 僕には上がいない。だから、覚える名前が無い。無いということが、その日までは何でもなかった。


 何でもないものが何かになる瞬間は、たいてい人の口から来る。自分では動かない。


 その日、動いた。動いたことに気づいたのは、家に帰ってからになる。


            *


 作業は五時二十分に終わった。


 四枚できた。掲示板に貼るのは次の日の朝で、その日は職員室に預ける。


 図書室を出るときに、小柳が先に立つ。じゃあね、と言って、階段を下りていった。


 こちらは部活へ行った。五時半から、残りの三十分だけ出る。


            *


 次の日の朝、二人で掲示板に貼った。


 八時十分から十分だけの作業だ。画鋲を四つずつ、四枚で十六個使う。


 高さをそろえるために、小柳が一枚目の位置を決めた。決めてから、こちらが二枚目以降を合わせる。


 合わせているあいだ、二人とも何も言わなかった。前の日と同じで、何ともならない。


 貼り終わって、小柳が少し下がって全体を見た。母が冷蔵庫の前でやるのと、同じ動きだった。


 同じ動きをする人が、家の外にもいる。そのことに、そのときは驚かなかった。


            *


 その日、何の掲示物を作ったのかを、僕は覚えていない。


 会話は全部覚えている。順番も、言い方も、間の長さも出てくる。


 紙に何が書いてあったかだけが、出てこない。


 四枚とも見ているはずだ。切って、貼って、通して、冷ました。それでも出てこない。


 覚えているものと覚えていないもののあいだに、規則があるとすれば、人が入っているかどうかになる。


 人が入っている場面は残る。物だけの場面は消える。


 これで三つ目だ。三つあると、規則と呼んでもいいような気がしてくる。


            *


 五時二十五分に、小柳はカウンターで本を借りた。


 二冊だ。何の本かは見ていない。厚さが違うのは分かった。片方が薄い。


 僕は図書室で本を借りたことがない。三年間で一度もだ。


 借りない理由は、はっきりしている。読む時間が表に入っていない。


 水曜の枠に自分で書いた二文字のことは、そのとき思い出さなかった。


            *


 母は一度も、点数を見せろとは言わなかった。


 出すのはこちらからだ。返ってきた日に、こちらから出す。


 出さないという選択肢を、僕は一度も使ったことがない。


 使えることを、その日に初めて知った。知っても、使わなかった。


            *


 そのあと、小柳とはあまり話していない。


 委員会は月に一度ある。会議室では席が離れる。名簿の順で座るからだ。


 廊下ですれ違うことはある。すれ違うときに、向こうが先に気づく日と、こちらが先に気づく日がある。どちらでも、会釈だけになる。


 三年生になるまでに、二人で話したのは、その日を入れて四回だ。


 四回のうち、いちばん長いのがその日になる。あとの三回は、どれも一分か二分で終わっている。


 四回とも、こちらから何かを訊いている。向こうから訊かれたのは、速いの、の一回だけになる。


            *


 その日、帰ってから、僕は順位の紙を出した。七時十分ごろだ。


 引き出しの上のほうにある。いちばん新しいやつだ。


 一位のところに自分の名前がある。


 上に、何も無い。

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